裕之氏の内観的身体論、あるいはその技法について、分からないままに、今の私の感じている事などを少しずつながら記録しておこうと思う。 それらがなぜこんなにも私に理解できないのかと考えてみると、これまで身体や、もっといえば世界そのものに対して、裕…
能登半島地震で始まった2024年。様々な領域で、これまでの古い価値観が根底から揺すぶられているような歳の始まりのような気がする。 昨年のこの最後のブログから数か月、裕之氏の内観的身体について『白誌』を手掛かりに私なりに考えを巡らしてみたものの、…
前回、晴哉氏の腹部調律点の理解について取り上げたが、今回は裕之氏のそれを私なりに模索してみたい。ただし裕之氏の内観的身体について殆ど何らの体感も認識も持ち得ていない現在の私には無謀なことは承知の上で、しかし私なりに前進したいという想いだけ…
腹部調律点について、まず、I先生から学んだ整体操法の基礎に関する本ブログの再録から引用します。 基礎を学ぶ(6)腹部調律点の観察 腹部調律点前回まで、処の異常、椎骨の異常をみてきた。つぎに問題になるのは、それらの異常が整うか否か、調節したとき…
晴哉氏の整体法と裕之氏のそれとにどのような違いがあるのか。晴哉氏亡き後、整体協会を存続させるために兄弟で遮二無二尽力し、七、八年経過したころに遭遇したあの衝撃的な経験が、それら全ての尽力を無に帰させるほどの根柢的な変革を強いられることにな…
裕之氏の世界を理解出来るようになるために私に欠けているものは、身体の内側に深く分け入っていくことだろう。そしてそのための前提として、いわゆる客観的身体といわれる生理的、物理的身体構造の理解もまた必要だと思える、 裕之氏の言説に照らして自分を…
裕之氏の内観的身体論を、何とか自分なりにでも理解したいと考えながら、その糸口さえ見つけられないまま、時間だけが過ぎ去っていく。 「白誌」誌上に刻印された裕之氏の緻密で芳醇な言葉が指し示そうとしているものが、野口晴哉氏の整体思想についてであり…
桜が散り、孫の入園式も済んで、私は近隣の大学図書館の貸し出しカードを作成して、学生の殆どいない静かな書庫をゆっくり見て回った。さすがに曹洞宗系の大学だけあって、他の図書館では手にすることの出来ない仏教書が所狭しと並んでいる。貸し出しは図書…
森田真生氏の岡潔の<情緒>観について、もう少し『数学する身体』(新潮社)から引用してみたい。 岡潔が「情緒」という言葉を好んで使った背景にはそれなりの理由があった。心には本来、「彩りや輝きや動き」がある。ところが、「心」という言葉はあまりに…
月日の流れが速くて、気づけばもう二月も十日程を残すばかり。前回のブログからはや一月。 この速さの感じの源は、毎日お昼ごろにやってきて、夜九時ごろま遊んでから帰っていく三歳半になる孫との時間が大きいと思える。著しい成長・変化の只中にいる彼は、…
迎春。 暮れからお正月、そして今日まで、野口整体をめぐっていろんなことを考えたり、本を読んだり、孫と遊んだり、久しぶりに帰ってきた息子と話し合ったりと、あっという間に豊かな三週間が経った。 その間に読んだ本のなかで、森田真生(まさお)氏の『…
「月刊全生」1968.7(通巻第53号) 全生訓 体癖修正法講座 原色と混合色―ひとりの人の中にある二つ以上の体癖 二種・五種の混合型 混合型の指導法 混合型の観察―体の格好・顔の形・生理的な傾向 アジスアベバ便り(木下正文) 捻れと珍種 生命だけが生…
「月刊全生」1968.6(通巻第52号) 無題(人間を内側から見る) 体癖修正法講座 家族の体癖―接着剤の役割をする二種 二人以上の体癖の組合せ 一・二種と三種の場合 組合せの要点は体癖的感受性 立派な言葉に酔う一・二種、整理の出来ない三種 二種の感…
「月刊全生」1968.5(通巻第51号) 二人で組んで行う活元運動―活元相互運動― 環境と体の変化 意識の学問と意識以前の知恵(*1) 相互運動とは 相互運動のやり方 天心で行うこと 反応について 人間の本質に迫る整体学(星野武男) A.C.S.一周年記念パー…
「月刊全生」1968.3(通巻第49号) 出発点は体の調子 潜在意識教育 質問に答えて 思春期の問題 思春期 第二の独立期 恋愛の時期 思春期の次にくるもの 嫁と姑の関係 お化粧する知恵を 整体協会の在り方 体癖を看板とせず(古川英吉) セイタイ・フラン…
「月刊全生」の目次散歩(19) 「月刊全生」1968.1(通巻第47号) 根深くして葉繁る 体力とは何か 人体の左右のアンバランス 我家の父と母(真峰克己) 体癖(癖探会) 誌上討論会 整体協会の在り方 わが心の風土 カザルスの音楽この道〟を磨いて 中…
「月刊全生」の目次散歩(14)1967.6(通巻40号) A.C.S.特集号 体癖修正 潜在意識教育 意識以前にある自分 A.C.S. family party katsugen undo a go-go 野口先生にエレキダンスの感想を聞く 親と子の体癖 色と体癖 A.C.S. だより A.C.S.記録帳から 「月刊全…
裕之氏の内観的身体の研究は、触れがたい他者の身体にいかにすれば真に触れることが可能となるかを追求する、実践的かつ野心的な試みであると言える。 整体操法という一対一の人間が出会う場で、<直(じか)に>相手と触れあうということが、いかに困難なこ…
心とは何だろう。私たちは心的現象について、あるときは<心>と呼び、またあるときは<精神>と呼び、<意識>と呼ぶが、私の中ではこれらの言葉に明確な区別はなくかなり曖昧なまま使っていることが多い。 今日このブログで取り上げようと思うのは、解剖学…
孫の子供の日のプレゼントにと、蔦屋書店で「ピタゴラスイッチ」のおもちゃを買い、そこで見つけた中沢新一の『レンマ学』(講談社)を同時に購入した。 このところずっと野口裕之氏の『白誌』誌上の哲学的な日本文化論や裕之氏独自の科学論や、なかんずく野…
裕之氏が父親の晴哉氏の生き様やその言葉から学んだことや、そこからわれわれに伝えようとしていることがどのようなものであるかを、『白誌 掌編/草編』に添って以下に引用し記録しておきたい。( )内は引用者による。 〇親父の整体の技は、・・・とにかく…
千の技法 三十年の間に千の技法がうまれ、千通りの体験をして、千の新しい語彙を得てきた。それらは野口晴哉の技法と紐づけられ、整体の世界が再構成、再定義され、その世界が古典世界と響き合っていることに驚き、そのような感覚世界と言語空間の中に踏み入…
晴哉氏と裕之氏との対話と題しながら、殆ど前に進めない自分がいる。何故だろう。一言で言えば、私の理解力では二人の言説世界に手を届かせることが困難だからと言うほかに理由が見つからない。 それでも私の好奇心は絶えることなく「野口整体を愉しむ」こと…
裕之氏が真っすぐに向き合っているものが、晴哉氏の整体操法そのものであることは確かだろうと私には思われる。 晴哉氏が、整体操法の技術と思想は、一人の人間が意識的に他のもう一人の人間に働きかける方法としてはほぼ完成したものであると言い、しかもそ…
はてなブログ「アルダブラゾウガメ玄の生活」(2021.10.31)による野口整体記事紹介に触発されて、野口整体の思想を自分の生き方に取り入れるということについて、思うところを少し書いてみたい。 「病とは治療するものにあらず」──全生を説いた体育家・野口…
今回から見出しを<「七の日講座」ピックアップ>と変更して、前回のメモの続きを始めます。従ってこのブログのシリアル番号は(6)となりますが、原典にはこの番号はついていません。またこのブログは、講義記録から任意に抽出し私的にまとめたもので忠実…
裕之氏が何とかして直接触れたいと思っている<生命>というものとは何なのか。裕之氏はこの<生命>として名指される対象そのものを、どうにかして直接自らの実感を通して感得したいと言う。そしてそのことが飽くなき<内観的身体>の模索を可能にしたとも…
裕之氏が、父晴哉氏の触れていたであろう身体を<内観的身体>と表現したとき、われわれが一般的にイメージしている生理・解剖学的知見に基づく<客観的身体>はどのようなものと位置けられることになるのだろうか。 少なくとも私の理解してきた晴哉氏の整体…
裕之氏の整体思想を、現在の私の理解の及ぶ範囲で整理しておきたい。 まず晴哉氏の整体技法の世界が、晴哉氏とその技法を受ける個人との一体一の関係性の中で成立する世界であることが前提としてある。 そして父親の体現し構築したその卓越した技術と思想を…
裕之氏の言葉を辿っていくと、<優しさ>という思想が私の裡に湧き上がってくる。裕之氏は<優しさ>という言葉を一言も使ってはいないのだが、整体をする者と整体を受ける者とが<互いに整い合う道>を模索しているという意味で、そう感じるのだ。 整体する…