野口父子の対話(14)

孫の子供の日のプレゼントにと、蔦屋書店で「ピタゴラスイッチ」のおもちゃを買い、そこで見つけた中沢新一の『レンマ学』(講談社)を同時に購入した。

このところずっと野口裕之氏の『白誌』誌上の哲学的な日本文化論や裕之氏独自の科学論や、なかんずく野口整体における身体論などについて、私なりに考えを巡らしてきて、頭の中がいささか混乱し、疲れてもきていたので、ちょっと一休みという感じもあったための購入だったと思う。

この中沢新一の『レンマ学』は、一言で言ってしまえば人類が築き上げてきた<知>について、西欧的な<知>を東洋的な<知>に対峙させ、後者を土台とした新たな<学>を再構築しようとする、無謀とも言える壮大なアイデアを提起しようと試みられたものと言える。

中沢氏の言う「レンマ学」とは、かつて鈴木大拙井筒俊彦大乗仏教の縁起の論理を土台に、仏教論理による新しい学を構築しようとした彼らの挑戦を受け継ぐものだと言い、ロゴス的思考に対比される非因果律的、非線形的な思考であると言う。

さらに、量子力学人工知能の急速な発展によって、従来のロゴス的思考の不完全さが露わになりつつある現代に、この世界を構成する事物をまるごと全体的に直感して捉えるレンマ的思考の重要性が浮上してきたと言う。

仏陀以来、仏教は世界を構成するあらゆる事物が「縁起」によって相互に繋がりあっているという認識を出発点にした。科学は因果については認識できるが、事物どうしが「相即相入」することによって生起するという<縁起>については理解できない。

中沢はこの<縁起>的認識を次のように説明する。(同上書 p.25)

なぜ個体性をもった事物が他の個体的事物とつながっていくことができるのかというと、あらゆる事物が空(くう)を本体としているからである。個体性は空から生じ、空が個体性を包み込んでいる。それゆえに、あらゆる事物は空に基づいた同じ構造をしていて、その共通構造をもって他の事物と「相即」することができる。

このとき事物と事物の間に力の出し入れ(力用)が起こる。一方から一方へ力が流れ込む時、一方の事物は力を得て顕在化に向かうが、力を失ったもう一方の事物は隠伏空間の中に隠れていくことになる。これが「相入」の過程で、顕在化した事物のつくる世界の中での変容がつくりだされるのみならず、顕在化した事物が見えなくなり、しばらくして形を変えて隠伏空間から現れて作用をなす、という事態も起こる。このような「相即相入」の複雑な過程をへながら、縁起の全体運動が起こっていく。

中沢はこのレンマ学構築のアイデアを、南方熊楠華厳経フロイトユング岡潔デカルトハイエクなどを縦横に援用しながら、詳細に展開している。私にとっては、『チベットモーツァルト』や『カイエ・ソバージュ』等と同様、とても刺激的なものと感じられた。