あるがままの自然と生命(2)

 森田真生氏の岡潔の<情緒>観について、もう少し『数学する身体』(新潮社)から引用してみたい。

岡潔が「情緒」という言葉を好んで使った背景にはそれなりの理由があった。心には本来、「彩りや輝きや動き」がある。ところが、「心」という言葉はあまりにも使い古されてしまっていて、そのままでは「何だか墨絵のような感じ」を受ける。そこで、心の彩りや輝き、動きをもっと直截に喚起する言葉として「情緒」という表現を使うのだと、エッセイに中で繰り返し説明している。

「情緒」は「情」の「緒(いとぐち)」と書く。「情」と書いて「こころ」と読ませることもあるが、「情」という日本語には独特のニュアンスがある。

情が移る、情が湧く、あるいは情が通い合う。情はいとも容易く「私」の手元を離れてしまう。「私(ego)」に固着した「心(mind)」とは違い、それは自在に、自他の壁をすり抜けていく。

 しかも環境の至るところに「情」の動きの契機となる「緒」がある。そんな「情」と「緒」との連関としての「情緒」を、日本人は歌や句の中に詠み込んできた。

 

 うちなびく春来るらし山の際の遠き木ぬれの咲き行く見れば

 

遠くの山に、桜がぱあっと咲いている。すると、その姿がそのまま自分の喜びになる。花の咲く姿を「緒」として、人の「情」が動き出す。

「情」と「情緒」の表現で言えば、岡はある時期からこれを、意識的に使い分けるようになる。一口に「情」と言っても様々なスケールがあって、「大宇宙としての情」もあれば「森羅万象の一つ一つの情」もあるというのだ。それを使い分けるために岡は、前者を「情」と言って、後者を「情緒」と呼び分けるようになる。

 自他の間を行き交う「情」が、個々の人や物の上に宿ったとき、それが「情緒」となるというのである。

「情」や「情緒」という言葉を中心に据えて数学や学問を語り直すことで、岡潔は脳や身体という窮屈な場所から、「心」を解放していこうとした。情の融通を礙(さまたげ)る一切のものを取り払い、自他を分かつ「内外二重の窓」を開け放って、大きな心に「清冷の外気」を呼び込もうとした。

 岡潔は確かに偉大な数学者であったが、生み出そうとしていたのは数学以上の何かである。彼は数学を通して心の世界の広さを知った。心の広がり、彩り、自由闊達な動きのあることを知った。そうして狭いところに閉じ込められた心を、もっとはるかに広い場所へと解き放っていこうとしたのである。

 森田はこうした岡潔の言葉や思考方法の基礎となったとされる、芭蕉道元の言葉を引きながら、人間が根源的な問い、つまり「自然があるとはどういうことか」、「1とは何か」、「自分とは何か」という根源的な問いに向き合うにはどうしたらよいか、どう心を用いればよいかを、岡の言葉から導き出そうとする。

 

数学において人は、主客二分したまま対象に関心を寄せるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ。

「なりきること」が肝心である。これこそ岡が道元芭蕉から継承した「方法」だからだ。芭蕉が「松のことは松に習え」と言い、習うというのは「物に入」ることだと言ったのも、これである。

 道元禅師は次のような歌を詠んでいる。

 

 聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水 

 

外で雨が降っている。禅師は自分を忘れて、その雨水の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識にのぼらない。ところがあるとき、ふと我に返る。その刹那、「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが本当の「わかる」という経験である。岡は好んでこの歌を引きながら、そのように解説をする。

自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。これが岡が道元芭蕉から継承し、数学において実践した方法である。

 なぜそんなことができるのか。それは自他を超えて、通い合う情があるからだ。人は理でわかるばかりでなく、情を通わせ合ってわかることができる。他(ひと)の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。

ところが現代社会はことさらに「自我」を前面に押し出して、「理解(理で解る)」ということばかりを教える。自他通い合う情を分断し、「私(ego)」に閉じたmindが、さも心のすべてであるかのように信じている。情の融通が断ち切られ、わかるはずのこともわからなくなった。

 そうしたすべての根本にあるのが、「自我」と「物質」を中心に据える現代の人間観であり宇宙観である、と岡は考えた。

 森田の上記の解説によって、岡潔の言う「情緒」の内容が、私にはとてもよくわかるようになったと言える。そしてこれ以上今の私に何か付け加えるべきものを何も持ち合わせていないので今日はこれで終わります。