野口父子の対話(22)裕之氏の内観的身体論(1)

 裕之氏の内観的身体論、あるいはその技法について、分からないままに、今の私の感じている事などを少しずつながら記録しておこうと思う。

 それらがなぜこんなにも私に理解できないのかと考えてみると、これまで身体や、もっといえば世界そのものに対して、裕之氏の示唆する視点そのものが私の裡にまるで存在していなかったということが、その大きな理由のひとつであったことは確かである。

 では裕之氏の視点とはどういうものなのか。

それは、一口で言えば「意識化されえていない身体や世界に対する視点」と言っていいように思う。

 ここでいう「意識化された身体」というのは、私たちが日常的に、いわば客観的に言語化され、常識とされて流通している身体への視点やその理解であって、生理学的・解剖学的視点から語られる身体であり、さらに言えば科学的身体観のことである。

 裕之氏は、この身体観の先というか裡に、もう一つ別の身体が存在している、と主張していると言える。

 それを裕之氏は内観的身体と表現し、この内観的身体を探求し、それを言語化し体系化しようとすることが、父野口晴哉氏の整体世界を実感的に理解できる唯一の方法ではないか、と主張しているのだと言っていいように思われる。

 

 だから私がいつまでも分からない、理解できないと裕之氏の言説についてぼやいているのも、結局のところ晴哉氏の整体論の分からなさに、さらに折り重なるようにして裕之氏の内観的身体論が私に迫ってきているということが、そのおおきな原因であることは確かだろう。

 そう考えると、私に出来ることは、どんなに困難でも裕之氏の視点に肉薄していくことか、あるいは逆にそうした探索の道を諦めるかのどちらかしかないだろう。

 しかし、諦めるのはいつでも出来るのだから、それに晴哉氏や裕之氏の言説に、あり得ない程豊饒にに存在する魅力に、目をつぶることなど私に出来る筈もないのだから、やはり少しずつでも私なりに歩を進めていくことになるのだと思う。