野口父子の対話(10)

裕之氏が真っすぐに向き合っているものが、晴哉氏の整体操法そのものであることは確かだろうと私には思われる。

 

晴哉氏が、整体操法の技術と思想は、一人の人間が意識的に他のもう一人の人間に働きかける方法としてはほぼ完成したものであると言い、しかもその技術は他から超絶した特殊な技術によってではなく、誰しもがそれなりに実行しうるものとしてまとめあげ構成されたものであると言うのだから、その開放性たるや凄まじい気迫に充ちたものといえる。

とはいえ、ひとたび整体操法の技術とその思想の一端に触れただけでも、その深淵さや困難さに直面するのもまた確かなことだと思える。

おそらく晴哉氏は「それでいいんだよ」と、頭を抱え込み悩み始める私たちひとり一人に微笑みかけ、「あなたの出来る整体操法を深めていけばいいんだよ」とそっと語りかけてくれるはずだと思われる。

 

ひとり一人はかけがえのないない存在で、大切なことは人間が互いに尊重し合いながら、時に助け合い、時に助けられて活き活きと生きていける世界をみんなで創り上げていきましょう、という呼びかけの言葉のようにそれは私の耳に響いてくる。

 

私たちの意識にとって、この意識が及ばない領域というのは無限ともいうべき広がりや奥行きをもっている。生命の働きそのものにしても、身体の無意識領域の働きにしても、意識(言語)が織りなし積み重ね上げてきたてきた人間的な幻想領域にしても、音楽や舞踊、絵画などあらゆる人間的、文化的な領域のどれをとっても、単純に理解できるものなどあるはずもなく、しかし個々人は個々人の感受性に導かれながら、みずからの人生を全うしようと行動している。

 

いつも私たちを勇気づけてくれる晴哉氏のことば。

晴哉氏の慈愛に満ちたまなざしや、存在するものすべてへの畏敬の念に裏打ちされたそれらことばの数々が、整体操法の世界には充ち満ちている。

 

それらを一つの道標としつつ、広大無辺な未知の領域に怖れず向き合っていき、そこから多くの<意味>を見出せたらと思わずにはいられない。