野口父子の対話(22)裕之氏の内観的身体論(1)

 裕之氏の内観的身体論、あるいはその技法について、分からないままに、今の私の感じている事などを少しずつながら記録しておこうと思う。

 それらがなぜこんなにも私に理解できないのかと考えてみると、これまで身体や、もっといえば世界そのものに対して、裕之氏の示唆する視点そのものが私の裡にまるで存在していなかったということが、その大きな理由のひとつであったことは確かである。

 では裕之氏の視点とはどういうものなのか。

それは、一口で言えば「意識化されえていない身体や世界に対する視点」と言っていいように思う。

 ここでいう「意識化された身体」というのは、私たちが日常的に、いわば客観的に言語化され、常識とされて流通している身体への視点やその理解であって、生理学的・解剖学的視点から語られる身体であり、さらに言えば科学的身体観のことである。

 裕之氏は、この身体観の先というか裡に、もう一つ別の身体が存在している、と主張していると言える。

 それを裕之氏は内観的身体と表現し、この内観的身体を探求し、それを言語化し体系化しようとすることが、父野口晴哉氏の整体世界を実感的に理解できる唯一の方法ではないか、と主張しているのだと言っていいように思われる。

 

 だから私がいつまでも分からない、理解できないと裕之氏の言説についてぼやいているのも、結局のところ晴哉氏の整体論の分からなさに、さらに折り重なるようにして裕之氏の内観的身体論が私に迫ってきているということが、そのおおきな原因であることは確かだろう。

 そう考えると、私に出来ることは、どんなに困難でも裕之氏の視点に肉薄していくことか、あるいは逆にそうした探索の道を諦めるかのどちらかしかないだろう。

 しかし、諦めるのはいつでも出来るのだから、それに晴哉氏や裕之氏の言説に、あり得ない程豊饒にに存在する魅力に、目をつぶることなど私に出来る筈もないのだから、やはり少しずつでも私なりに歩を進めていくことになるのだと思う。  

 

2024年 初ブログ

 能登半島地震で始まった2024年。様々な領域で、これまでの古い価値観が根底から揺すぶられているような歳の始まりのような気がする。

 昨年のこの最後のブログから数か月、裕之氏の内観的身体について『白誌』を手掛かりに私なりに考えを巡らしてみたものの、ほとんど理解できないままでいる。だからブログに何事か書くということも出来なかった。つまり「野口父子の対話」は宙ぶらりんになったままである。

 しかし、その間にも私にとっての幾つかの課題は少しばかり鮮明になってきているようにも思える。

 その最大の課題は、《いのち》についてである。《いのち》とは何か。私たち人間の身体と心にとって、《いのち》はどのような関係にあるのか。《いのち》はどこから来て、どこへ行くのか。《いのち》とは現象なのか、実体なのか。

 晴哉氏は、《いのち》は体(身体)の裡にあるのではなく、体(身体)は《いのち》の影にすぎないという。つまり形をなしているのは全て、《いのち》のはたらきの結果であり、それを実体と感じるのは、感覚による錯覚に過ぎないとも。

 これはまさに、仏教の〈空〉の思想と言ってよいだろう。

 

 こういうことを考えることは、私の愉しみであり、ワクワク感を感じられることでもあるので、この私のブログはどうしてもそういうことに引きずられてしまう。読者の皆様にはご容赦いただけると幸いです。

 本年も、何卒よろしくご愛読くださいますようお願いいたします。

 

野口父子の対話(21)腹部調律点(2)

 前回、晴哉氏の腹部調律点の理解について取り上げたが、今回は裕之氏のそれを私なりに模索してみたい。ただし裕之氏の内観的身体について殆ど何らの体感も認識も持ち得ていない現在の私には無謀なことは承知の上で、しかし私なりに前進したいという想いだけで試みることにしたい。お気づきの点やご批判をお寄せ下さることを期待しつつ・・・。

 前回のブログ公開から今日まで、合気道やその関連の動画等を集中的に検索してきて、もう一度裕之氏の『白誌』に目を通してみると、合気の理論と整体操法の理論とに幾つかの共通性があるように感じられてきた。たとえば相手に触れるという場合に、相手と自分とがどう同調していくか、ということを追求していくことでは両者ともに共通の観点に立っているのではないかということ。また、相手に何らかの操作的な行動を行う場合に、表層的な意識によるのではなく、深層的な意識レベルが重要視されているように感じること。また同じことだが、操作する対象が皮膚や筋肉といった表層に対してではなく、より深層にある骨格や靭帯、腱さらには体幹や重心や重心などに向かっているその類似性や、気とか力といった領域が操作上で決定的に重要であると考えるその観点の在り方の類似性があることなどなど。

 

 さて、今回のブログでは腹部調律点をテーマとして、主として腹部第三調律点についての裕之氏の記述から学んでみたいので、その前にまず腹部第三調律点、いわゆる<臍下丹田>について一般にどのような理解・説明がなされているかを取り出してみたい。

 

 合気道ではこの臍下丹田を次のように説明しています。(以下、『規範 合気道 基本編(植芝吉祥丸・守央)』より引用)

 ・・・ 合気道の動きの中心は人間の重心である「臍下丹田」と呼ばれる部分で、ここが合気道の動きにおいて重要な役割を果たします。臍下丹田をぴしっと一点に定め、ここを中心として大小さまざまな円を描き出すーそれが絶対不動でありながら自在な「気」の発揮につながっているのです。・・・(19)

・・・臍下丹田と呼吸の一致が重要になる・・人間の「気」というものは、宇宙全般に普遍的にある生命エネルギーなのである。合気道の丸い円の動きは、そうした宇宙の法則に逆らわない動きなのである。自分の呼吸を整え、そのリズムを宇宙のエネルギーに一体化させる。それは体の重心である臍下丹田をしっかりと押さえていくことで実現する。自分の中心が地球の中心に結びついていて微動だにしない。そうした安定感から「気」というものが出てくるわけである。・・・(12)

 

 次に甲野善紀氏が『剣の思想』(青土社)で、肥田式健康術の創始者肥田春充氏の丹田についての記述がありましたので、ここに孫引きしてみます。

 

・・・上体を真直にし、椎骨と薦骨との接合点に力を入れて反り、体の重さが両足の中央に、落つるように姿勢を執れ。薦骨の上端と、臍とを結び付けろ。さすれば其の直線は、地平に対して平行となる。

 鼻柱と胸骨の中央から、地平に対して垂直線を下せ。先の直線と臍の処で、直角に相交はる。薦骨の上端と、腹腔前方下部、恥骨縫際とを結べ。其処に直角三角形が出来る。

 其の各の角を、二等分した直線を引け。三点は一点で交叉する。

 其の点が即ち人間の体を、一ツの物体と見た場合に於ける重心、重点の存する所である。故に若し其の人間の体格が、完全無欠のものであるならば、鼻柱と胸骨の中央を通過して、此の点を含む処の平面は其の体重を二等分すると共に、全く相等しき二ツの相似形得ることが出来る。

 其の点を円心として、先の直角三角形に内接した円を描くことが出来る。

腹の前方に於ける所の接点 ー円周の垂直線に接した点ー それが即ち古人の所謂「気海丹田」の、科学的位置であって、臍下凡そ、一寸二分位の処に当たる。

 円を標準として、腹の中に球を想像する。中心力を作ると、球の表面から、球心に向かって、同一量の圧迫力が生ずる。かくして腹の中に、力学的無形の球の関係が生ずる。

 

では、いよいよ裕之氏による腹部調律点、特に第三調律点(臍下丹田)についての記述の世界に分け入ってみようと思います。

 

つづく

野口父子の対話(20)腹部調律点

腹部調律点について、まず、I先生から学んだ整体操法の基礎に関する本ブログの再録から引用します。

 

基礎を学ぶ(6)腹部調律点の観察

 腹部調律点
前回まで、処の異常、椎骨の異常をみてきた。つぎに問題になるのは、それらの異常が整うか否か、調節したときにそれが保つか否かである。それを一応知るためには、その人の現在の体力状況を知る必要がある。この体力状況を知るための有効な方法が、腹部の弾力状態をみていくことである。
体力のある人は、腹部で深く呼吸している。疲れるとみぞおちで呼吸する。さらに疲れると胸で浅い呼吸をする。さらに疲れがひどくなると鼻で呼吸する。鼻で呼吸するようになると危険である。こうした呼吸の深さの度合いを観察したあと、今度は呼吸のリズムを観察する。リズムが乱れ、浅い呼吸をしているのは、とにかく疲れており、体力がない状態である。
第一 お腹の一番上の、剣状突起から指二本分下の硬いうちにへこんだ処。押さえて手がスーッと入るようなら体力あり。
第二 ヘソの上と、第一との中間のへこんだ処。臓器の位置状況をみる。
第三 ヘソと恥骨の上との中間。ヘソの下二、三寸のへこんだところ。高齢者は指がスポッと入ってしまう位へこんでいる。丹田。生命力の湧き出す急処。若い人のは判りにくい。
第四 禁点より指三本左の肋骨の下。太陽叢。心の停滞状況をみる。
右脇腹 痢症括点 老廃物
直腹筋
以上が、体力状況を観察する処である。

第一は虚が順(正常)、指がスーッと入れば正常。逆に第三の虚は異常。ここは実が順。第三の虚は体力のない老衰状態。生殖機能の不全状態。第二は虚でも実でもない冲の状態が順。第四も冲が順である。
お腹に余分なものがたまっている時、痢症括点に愉気すると排泄物が出て掃除される。
感情が高ぶると第四が硬くなる。
あたまの中で集中や分散がノーマルに働いていないとき、へその両側が硬くなる。
お腹と腰の運動がスムーズに行かないときは、側腹が硬くなっている。

腹部観察の実習
腹部調律点の位置の確かめ。
頭部第二と直腹筋の関係の確認
腹部第一、またはみぞおちと肋骨の関係 心悸亢進や胃痙攣の際、肋骨を上げるとおさまるのは、みぞおちの閊えが通るからである。
全身の象徴として腹を観るということも考えておきたい・・。腹は柔らかくそして弾力性があって硬結が全くないのが良い。力を込めれば石の如く、力を抜けばつきたての餅の如く、そして心窩が柔らかで凹んで、下腹が満ちてふくれているのが良い。・・見た形だけで良い悪いはきまらない。触って整圧点を探って初めて判る。健康な腹の整圧点は第一が虚、第二が冲、第三が実である。・・・

(参考1:野口晴哉整体操法読本 巻二実技」より)
虚とは整圧点に米粒大の凹みがあり、実とはその部に米粒大の硬結があり、冲とは何でもない状態をいうので、それが上から虚、冲、実となるのが順であり、然らざるを逆というのであります。しかしこれは解剖学的根拠があるのではない。ただ生きて動いている腹にのみある。・・・腹部の整圧は息とともに動作して腹で息をするよう導くことに目的を置いて操法するのであるが、この活点(注、引用者:痢症活点)の整圧は充分に力を集めて耐えるのであります。

(参考2:野口晴哉整体操法中等講座(1967.2.25)」より)
恥骨 
体の真中の故障はここの操法で整う。鼻の故障でも、声帯の故障でも、真中のものはみな恥骨の真中を押さえると調整される。痔なども変わってくる。皮膚の異常もここであるが、呼吸器(皮膚は呼吸器の一種)の異常も恥骨に変動がでてくる。
臍のまわりの6カ処
ここを時計の針の動きの順に押していく。押す場合、掌を使って臍に向かってかきあげるように押さえていく。絶えず体の目方をかけて、指で押さないで、相手が痛くないように押さえていく。ちょっと押さえるだけで非常にどこかに響くところがあれば、それは異常。その響いたところをジーっと押さえていると、どこを調整したか判らないが変化しまう。ただ、そこが押せないほど強く響いたり硬くなっている場合には、左の肋骨の下を押さえる。お腹の右側が硬い場合でも、肋骨の下をやる場合には左を押さえる。臍の周りをやわらげるのは左。

 

お腹のどこが悪いのか判らなくて、とにかく痛いという時は、剣状突起のすぐ下を、相手が息を吐くごとに押さえる。押さえて弛めないまま、相手が息を吸える程度に少し弛めて、吸ってきたらまた吐くにしたがって押さえていく。三回ほど押さえていって、最後に出来るだけ下まで押さえて行って、それを保つ。そうするとお腹がドキドキと動いてきて、お腹の運動になる。それを越すと後は、快方に向かう場合は上は柔らかになり、腹の下の方は力が出てくる。悪い方向に向かう時は、上がいよいよ激しく痛む、こういう時は警戒を要する。

腹部の観察(練習)
今回は、お腹の異常を整えるということではなく、お腹の能率、お腹の働きを高めていくという目的で押さえていきます。

第一調律点 
この処に第二指、三指、四指を当てて、もう一方の手をその上に重ねます。そしてこちらの体を前に出すようにして押さえていく。最初は、相手の息と一緒に吐かせ、弛め、吐かせ、弛め、というように押さえていく。だんだん押さえている時間を伸ばしていく、戻すのを遅く少なくしていく。三回押さえたら、静かに放す。
それからそのままズーっと押さえていく。前より強く押さえる。その時、指を立てて押さえないで指の腹で押さえる。またm押さえると言っても、指の力で押すのではなく、体を前に倒しながら体重を乗せていく感じで押さえる。尖った指で押さえると、あとでお腹が痛くなってしまう。

お臍の周囲 
お腹が動くようになったら、お臍のまわりを一回り、お臍に向けて押さえていく。上の方は上腸間膜神経の刺激、下の方は下腸膜間神経を刺戟する。

第二調律点
臓器が下がっている時にだけ使う。

第三調律点
お腹全体の力、つまりお腹と体との関連、体力状態に関係している場合だけここを使う。それ以外は、第一と臍の周囲だけでいい。操法全体の中で、腹部操法は一番大事な処である。他の処は、みな骨があって臓器に触れることは出来ないが、お腹だけは骨がなく、直接触れられるようになっている。お腹の操法をすると、お腹だけでなく、体じゅうが良くなってくる。お臍というのは面白くて、人によってみな違う。丈夫な人の臍は上を向いている。弱い人のは下を向いている。体の捻れている人のそれはやはり捻れている。お腹の操法は、お腹自体のために行うというよりは、その人の体の象徴を調節するために行うと言うことが出来る。お腹は人間の体の中心と言える。だから、体に力がなくなると、お腹にも力がなくなってくる。昔の人は丹田に力があれば健康だ、と言っていたが、丹田というのは解剖してもどこにあるか判らないが、動作をしてみると、そこが人間全体の行動の中心になっていることが判る。よく、腹でやるとか、腰でやるという言い方をするが、ほんとうは腹と腰のちょうど中心の、この丹田で動くということを表現している。整体操法するときも、すべてこの中心の力を使ってやるのです。死んでしまえばこの中心、丹田というものは必要がなくなってしまうものですが、人間が生きて、直立して、行動している限り、この中心がしっかりしていないと、動作もしっかりしないのです。

痢症活点
ここの押さえ方は、押さえたものを、臍の中心に向けておさえます。ここは、硬結の有る無しに関係なく、ただジーっと押さえて愉気するだけでいい。

上腿部外側一、二
お腹の操法のあと、この上腿部を押さえて愉気しておくと、異常がはやく経過し、良くなる。

お腹を押さえていると、お腹の左右に大きさの異なっている場合がある。小さくなっている方は硬くなっているが、その同じ側の頭部第二調律点をトントンと叩いてみると、だんだん弛んで大きくなってきます。頭が疲れてくるとお腹も縮んでくるのです。この意味では、お腹と頭とは関連しあって一つのものだと考えていいわけです。呼吸器の異常でも、どこの異常でも、そこが良くなるとお腹で呼吸するようになります。だから、健康状態とお腹の状態とは非常に関連している。整体操法をした結果、お腹で呼吸が出来るようになれば、うまくいったと言えるし、そうでなければうまくいっていなかったということが言えます。

第四調律点
ヒステリー状態や、胃痙攣、胆石、心悸亢進、背骨の硬直、気絶といったもの、あるいは泣いたりわめいたり、激しい耳鳴りなど、いろんな状態がありますが、それらには全て、この第四調律点と第一第一調律点の処の間のどこかに玉のようになったこわばりが生じています。この球状のものをちょっと押さえて愉気をして、お臍の方に持ってくるような感じでジーっと愉気をしていると、これらの発作症状がおさまってきます。

子どもに対するお腹の操法
子どもの場合は、お腹と頭に愉気をして、お腹で呼吸できるようになれば良くなった、良くなっていないうちは絶対にお腹では呼吸しません。子どもの体のどこかに異常がある場合、子どもがどこかを特定できなくても、お臍の周囲を触ってみて硬くなっている時はどこかに異常があると推察できる。背骨を確かめて異常がなくても、あるいは本人に自覚症状がなくても、お臍の周りを触って硬くなっていたり、痛がるところがある場合は、異常がある。

自分の腹痛を操法する場合
自分の腹痛を、自分で操法する場合、例えば左側が痛いときは右側を、その逆に右側が痛い時は左をジーっと押さえると、ほとんどの場合良くなってくる。つい痛い側を押さえてしまうが、それを我慢して反対側を押さえると、非常に早く良くなる。

腹部操法の効果
整体操法では、腹部第一、お臍周り、痢症活点を良く使うが、その際、両手で観察しながら行います。首に当てた左手で操法の度合いを見、右手で腹を押さえます。左手で押さえた度合いを確認しながら操法するわけです。うまくいった場合は頸が弛んでくるとともに、引き締まりも出てくる。
整体操法というのは、大雑把に言うと。背骨ばかり操法していると相手は痩せてきます。逆にお腹ばかり操法していると太ってきます。そういう傾向があります。太らせるための方法ではないが、体力を充実させるのに役立っている。
背中のあっちこっちを押したりするのは、言ってみればこけおどしみたいなものである。もちろん、一時的に痛みを止めたり、体を楽にするという場合に便利であるのは確かだし、体の異常のある処をスパッとつかまえるという場合には便利で、そのことによって相手の感受性を高めていくという面では可成り役に立っているが、操法の実際の効果という面から言うと、腹部操法愉気に優るものではない。それらには圧倒的な効果がある。だからこそ、腹部操法は身を打ち込んでやってほしい。背骨を整理するだけで効果があげられるようになるのは、十年とか二十年経ってからのことである。下手なうちは、とにかくお腹に狙いを定めれば、たいていは間違えない。
ここでの腹部の練習は、場所を憶えるためや、触った感じをつかむためにちょっと強めに押さえていますが、実際の操法では、ちょっと押さえていく程度でいい。何度も言っているように、指で押さえるつもりでいるうちは、効果をあげられない。腰とかお腹とかで押すのでもない。ともかく、物理的な力で相手を変えようとする人たちには理解できないことですが、すべて気で押すのです。あるいは気で引くのです。指に気を通して押すのです。押し方の問題ではないのです。押し方の問題だと思っているから出来ないのです。気を感じ、気で押さえる。これだけです。

操法した最後に、お腹に力を入れてギューッと押さえて、ポッと放す、というのが整体操法の締めくくりですが、お腹と頭の関連性をよくみながら、練習に励んでください。

 

 

整体操法の基礎を学ぶ(7)腹部整圧の方法

今回も、腹部の観察についてです。I先生の講義を通して、そこからかすかに響いて来る野口氏の生の声を聞き洩らさないように、心をこめてこの記録を進めたいと思います。というのも、野口氏が最晩年に遺された「我は去る也」と題された文章には、次のような哀しくも厳粛な表現があり、それがふと私の脳裡をよぎっていったからです。

我は去る也 誰にも会うこと無し 
我に会うと欲すれば 我に授けられる力あることを示し 我諾せば来たる可し
さざれば来たるに及ばず 我は之からあと 伝えず教えず 人の能力が高まり 裡の声をきき 裡の動き読める人にのみ授け度き也
空中に文字を画くこと ここで止める也 空中への放言も終える也
我が説きしこと 一言にいえば 虚の活かし方也 無の活動法也
物の学あれど 生物の学無き也
生のこと説きても 物の学につかえて判らぬ也
これを超える判る人あれば我は又説く也・・・
(「月刊全生」1976.8月号)

腹部調律点が示すからだの状態
頭部第二の処理を行うと、直腹筋が弛んでくる。直腹筋が硬いときは、感情の働きや腸の働きがノーマルでない。頭も不安定になる。これらは交感神経の過度の緊張状態と関連がある。消化器に異常がある。頭が統一しない、イライラする、不安である。便秘をする、下痢をする。そういうように体全体に関連する。
下腹が出て弾力がある状態は度胸がよくなる。動作がきちんと決まる。体が健康になっていく。みぞおちの力を抜いて、第三丹田)に力を入れるということは、簡単なようだが実際には極めて難しい行為である。健康な人は、自然に丹田に力が入っていく。赤ん坊でもやっている。弱るとおへそやみぞおち、胸、鼻で呼吸するようになる。考えが深くなると、自然に下腹で呼吸するようになる。いつも咄嗟に腹でものを考えるように、腹で動作するようにしなければならない。整体の最初の目標は、腹部調律点を虚、冲、実にすることであり、端的に言えば、呼吸がひとりでに下腹に入るようにするために、その邪魔をしているものを取り除くことである。腹部第一が冲のときは、からだのどこかに故障がある。第一が実のときは、第四の硬いのと同じで、エネルギーの集注分散がどこかで偏っている。第二が実の時も、体のどこかが狂っている。
体の中心はヘソの下と腰椎3の間にあるが、そこに力が集まっていれば動作が自由になるし、動作が決まってくる。また、からだが歪んでも、自分で立ち直ってくる。呼吸がこの丹田に入ってこないときは、病気の時であったり、イライラしている時であったり、急いだり、怒ったり、悲しんだり、からだが歪んでいたりしている時である。こんな時は、とりあえず頭部第二を処理して、呼吸が運ばれるように誘導する。

腹部調律点を押さえる練習
第一の押さえ方は、相手の吐く息の速度で、そーっとこちらの体を乗せていくようにする。そうすると指がひとりでに入っていく。どこまでも入っていく感じにへこんでくる。ここが実の人は、触れると無意識にそこに力が入ってしまう。
第二も同じように押さえる。息を吐かせるというような積極的な吐かせ方ではなくて、吐くのにつれて押さえていく。指がポコッと入るようならば虚である。そういう時はからだのどこかに故障がある。この状態のときは、頭部第二を叩くだけでは呼吸が下にいかない。逆にここが実の時は、臓器の位置異常があったり、体の重心が中心からずれている。体力がなくなってくると、虚になる。第一の場合は、体力が有りすぎても、少なすぎても実になる。
第三も同様に押さえる。ただここは、吐く息に乗じて押さえるだけではうまくいかないので、「お幾つでしたか」といった風に声をかけて気をそらすと、相手はふっと考えようとする、その時第三にふっと力が入ってくる。そして「何歳です」と答えた瞬間にその力がすーっと抜けるので、指が入るようになる。考えると一旦力が入ってから抜けるが、考えない人は力が抜けたまま変化しない。
赤ん坊の場合、頭部第二と下腹部を押さえて、あとはこちらは活元運動したり下腹で呼吸したりしているだけで、ひとりでにお腹で呼吸し始める。それだけで、下痢だろうと風邪だろうと整ってしまう。

側腹の処理
第四が硬いのは、エネルギーの過剰か欠乏かのどちらかの時だが、愉気してもここが弛んでこない場合は、直腹筋も強張ってしまっているので側腹をつまむ。一般に血管が強張っている人は、この側腹が硬くなっている。
手が上がらない人や、お産でなかなか産まれない人、陣痛が不足している人の側腹をつまんで弛めると整ってくる。性交したり自慰したり、夢精したりといった性の急速な排泄があったときも、側腹が強張るが、つまむと急に柔らかくなる。

腹部観察の練習
腹部第一、第二、第三、第四、側腹の順でそれらの虚実等をしらべて体力状況みる。体力が余っているか不足しているか。臓器的異常があるかないか。
補足だが、ヘルニアの場合、腰椎が硬直していたり変動したりしているが、その時お腹側の腸骨の内側を腰の方向に向けて押すと、硬くなっているところがあり、押すと痛みを感じる。その意味では、腹部のこの処は、腰椎の状況を観察できる場所でもある。
このように椎骨が狂っている場合は、腸骨の内側の硬直度をしらべる。普通、硬直しているところは押すと痛いが、非常にこわばっているときは、くすぐったく感じる。

腹部第三が虚であっても、必ずしも体力不足とばかりは言えない。余分になった性エネルギーは捨てられるという性質があるが、それがからだの他の部分に廻っていってしまった時には、虚実の転換といって、かならず腹部第一が実になっている。
こうした転換がみられず、第三が虚であって、同時に第一が虚であるとき、体力の欠乏状態であると確認できる。
腹部第二が実で、第三が虚である場合は、生理的な発育面が遅れている、あるいは生理機構的な異常を持っていると確認できる。
腹部第二は、上肢第四調律点と関連していて、上肢第四を刺戟すると、腹部第二の閊えがなくなることがある。
腹部第三はからだ全体と関係しているが、足の一部が影響している場合がある。たとえば体に左右差があり、イライラしている人の脛骨と腓骨のあいだを締めると、急に落ち着いて第三が実になる。
要するに、からだのさまざまな処が相互に連絡しあっているが、その連絡の中継点として腹部は存在していることが確認できる。普通は背骨を経由して脊髄反射から観察できるが、背骨では判らない変化が腹部では判る。そういう理解で、お腹を観察するということをまず考える。

 

 

 

整体操法高等講座」を読む(3)相手の力の使い方(1)

整体操法高等講座3」(1967.4.25)
中等講座の終わりの時に、右の力と左の力を一つに使うことを練習しました。それは一方の手で押さえて、その力を相手に逃げさせる。そうしてその逃げ道を他の手で閉ざすというやり方でした。たとえば、腰を押さえる場合にも、右で腰を押さえてこれを向こうへ逃がす。逃がしたのを左で受け止め、押さえた力と受け止める力とが一つになる位置を作り出す。それが中等技術でした。ですから力を逃がすとか、逃げ道をふさぐとかいう意味はお分かりだと思いますが、それだけではまだ自分の力でやっているのです。
高等技術ではそれにもう一つ付け加えるものがある。それが付け加わらないと本当の力になっていかない。
それは何かと言うと<相手の力>なのです。
<相手の力>というのは、<相手の呼吸>なのです。それを使わないと、逃げ道をふさいで押さえても、本当の力にならない。
うつ伏せで相手の背骨を押すという場合でも、そこに弾力が出てきて、押せばいくらでも動く。下手なうちは、相手の呼吸を閊えていないので、反撥を引き出せないために板の上を押さえたようにコツコツになる。
相手が息を吸いこんでくるところ、吸いこんでくるところというふうに押さえると、弾力が出てくる。
吐いている時に押さえると、全然反撥してこない。押さえられて苦しくなって、息をつめてしまうが、それでは相手は苦しいだけでなく、萎縮してしまう。
だから、右と左の力を拮抗させて押さえるだけではだめで、その時に相手の息を吸いこませておいて、そこで押さえてしまう。そうすれば、押しても放しても、それが弾力となり、反撥する力となる。
息を吐いたときは、こちらの力が小さくても、相手は強く感じるのです。その逆に、息を吸っている時には、弱く感じるのです。
相手の力を使う為には、その前提として、こちらの<型>か決まっていないといけない。それと同時に相手の<呼吸>が分からないといけない。
<呼吸>を刺戟として使う場合には、「吸いこみ切って、吐こうとする頭」をフッと押さえる。そうすると、相手はそこで吐けなくなる。相手が吐こうとする寸前にピタッと押さえるのです。吸い切った瞬間に押さえると、相手は吐こうとしても吐けなくなる。押さえている間、相手はそれがたとえ短くても長く感じるのです。苦しいのを我慢させられるから長く感じる。長く感じるということは、押さえられている力を強く感じることと同じです。そうなったら、逃げる方向がハッキリしてきます。力の集まる方向がハッキリしてくる。

こちらの押さえる速度が、相手の吐く息の速度よりも速い場合には、相手は息を止めてしまう、そしてこらえる。初等技術の場合は、吐く息で押さえることを練習しました。これは触って相手の体を調べるには都合がいいのですが、操法の効果から言うと、息を吐いた留守にギュウギュウ押さえても、その反撥は望めない。反撥する力を使っていくためには、相手に息を吸いこませたところを押さえないと役に立たない。吸いこんだ時に息を止めさせないように押さえていきますと、割に強い力を使ってもそれがこたえない。
こちらの力と相手の吸う息の力が同じ時には、その力はゼロになる。ギュッと押さえても相手が息を吸いこんだら同じなのです。ところが高等技術としては、そういったような相手の呼吸をいろいろと使うことよりは、「相手が息を吸いこんで、吐こうとする頭に、比較的速い力を加える」のです。そうすると息を止めてしまうのです。吐く前で止めてしまうのです。相手の吸って吐こうとする息よりも速い速度で押さえてしまう。そうするとそこで止まる。止めて操法を進める。
ですから、お腹の操法でも、背中と同じように、割に速い力を使う。速い力で、吸う頭、吐こうとする間際を押さえてしまって、お腹の中に一杯空気を吸わせたままで止めさせてしまう。それが高等技術の第一歩であります。
中等技術では、お腹の力と押し合うとか、右手と左手の力を押し合うとかいう二つの事だけでしたが、高等技術ではそれに<呼吸>を加えて、三つの力を一緒にして使っていく。それが大事でありまして、その三つの力を使いこなさないと、操法というものがなかなかスムーズに行えないのであります。
相手の<呼吸>を使わないと、いくら上手になっても、その操法が相手の中に入っていかない。こちらから加える力だけでは、加えた力がみんな逃げられてしまって、加えた力はうまく進まない。

たとえば、坐って首を押さえるとします。こうやって相手の吐く息にそって押さえますと、相手が逃げてしまいます。そうなるといくら力を加えても駄目である。ところが、吸手の息をつめておくと逃げない。放すと返ってくる。ご覧になったらわかりますね。ちょうど体の前にベッドを立てかけてしまうようなものなのです。そのベッドを作るのは、相手が吸いこむごとにチョッ、テョッとかかるこの力なのです。吸いこむときにこうやると、息を止めて動かないのです。それから押せば、いくら押しても大丈夫なのです。決して逃げない。
ただ、これはやりいい、やりにくいという問題だけではなくて、そういうように使わないと相手の体の力が使えないのです。

そこで今日は、それを「腹部操法」でやろうと思います。
「腹部操法」での急所は腹部の「側縁」であります。そのなかでも「両肋骨の内側」が一番の急所でありまして、そこを押さえることが第一番。
第二番は、「臍の周囲」。腹部の「第一」調律点から「第四」調律点までは、初等、中等において問題にするもので、それらが出来るようになったら、一応頭の中から抜いておいて、「腹部の側縁」「臍の周囲」に焦点を集めて操法するのです。
「禁点」は、実は操法の急所なのです。ここは水月といって、ここを突くと死ぬ場所なのです。柔道では水月の受け身の術というのがある。それは、突いてきた時に息を吸いこんで前に突き出せば、全然こたえないのです。相手が突いてきた時にハッと身を引くと、ガクンと入って気絶してしまう。実際問題になると、すごい顔をして突いてこられると、思わず身を引いてしまう。そこで入って、目を回してしまうのです。私も二、三回やられてからは、いくらやられても全然平気になりましたけれど、息を吸いこんで突き出せば入って来ない。つまり空気がショックを防ぐ働きをする。
そんなことで、息を吸いこむということは、いろんなことで予防的な働きになる。
操法の際も、相手に息を吸いこませて押さえていくということが出来るようになれば、この鳩尾をギュウギュウ押しても、余り害はなくて、押さえた効果だけが出てくる。
極端な言い方をすれば、お腹が悪いという場合に、どこが悪いか分からなくても、この鳩尾をジッと押さえていると良くなってくる。良くなってくるにしたがって、異常感がハッキリしてくる。お腹のどこが悪くても、その痛みが激しい時は鳩尾に痛みを感じる。盲腸炎の時もここに痛みを感じる。同時に臍の周りにも痛みを感じる。
そこでまず、鳩尾を押さえる、それから臍の周りを押さえる。そして異常感がハッキリしてきたらその悪い処を押さえるという順序になる。
私は、相手のお腹のどこが悪くても、まず鳩尾、禁点をジッと押さえる。禁点そのものを押さえておりますと、悪いうちは指が入らない。息を吸っているのに弾力がない。それが息を吸って一緒に弾力が出てくると、もう治り出してくる。弾力が出てきて、ズブッと指が入るようになったら、もう禁点は御用無し。
こんどは、臍の周りの問題になる。 
臍の周りは、息を吸いこませて押さえていると硬いが、息を吸いこませているのにズブッと指が入る処がその悪い処で、そこにジッと手を当てて押さえる。そうすると悪い処に<感じ>が起こってくる。そうなってから、その部分に愉気すればよい。
操法は、相手の<感じ>に従って進めていく。ただ相手についていく行くだけではなく、そうと決まったら、こちらで相手の感覚を引っ張っていく。そんなようなやりかたがありますが、まず鳩尾を押さえる。ズブッとへこんだら、それがもう次に移る時なのです。ですから、ズブッと指が入るのを待つように押さえる。力を入れすぎない。といって力が足りないのでは困る。相手に息を一杯に吸わせ、その吸った相手の力とここで押し合っている。
息を吸いこんだのにズブッと指が入った時がもう終えた時であり、次に移る時であり、その時と相手が楽になったという時とは、いつも一致するのです。
何処が悪くても構わない。みんな鳩尾でこらえているのです。
鳩尾に息をつめてこらえていると、一応<苦しい感じ>に鈍くなるのです。胃痙攣でも、心悸亢進でも、喘息でも、みんな鳩尾に力を入れてこらえているのです。
そこをやわらげるのですから、どんな苦しい場合でもそれがとれるわけですが、鳩尾に力をいくら入れても、自分だけでは入りきらないのです。そこにほかからの力が加わると、自分ももっと力を集めることが出来るようになって、それで一層早く楽になるのです。そうしているうちに、ズブッとへこむ。へこむというか、指がスッと入る。入ったら、入れない。そこでやめて、臍のまわりに移る。
これが操法の進め方なのですが、鳩尾が硬いままにそこだけいくら押さえてても、時間がかかって大変なので、そういう変化が早く起こるようにする為に、肋骨の縁をきちんと押さえるということが必要になる。

もう一つ重要なことは、お腹を押さえながら、首に当てた左の手で、その押さえる度合いを調べていくということです。中等でやりましたが、左手を頸椎の一番、二番、三番に当てて、腕橈骨を返しながら首を持ち上げる。持ち上げると、相手の息はここにこもってきます。ですからこもる前にちょっと押さえておいて持ち上げる。上げると一緒に押さえる。そうすると相手が息を吸いこんで吐く前に、相手の鳩尾を押さえられる。それで放せば、すぐに相手は吐くのです。
首を持ち上げると鳩尾の力が抜けます。抜けたらそのまま押さえてしまう。そうすると首を放したときに下りが遅くなる。そのさがりの遅いのを、途中で止めるのです。鳩尾に力の入る処で止める。放すと下がる。そうして上げた時に頸椎を調べます。
三番でこらえている場合は、左の肋骨の下に指を入れるのです。こう押さえていきます。相手は息を止めますから、止めないように首を持ちげて息を吐かせる。押さえる。首を弛めてそこから吐いていくようだったら、まだ余裕があったわけです。ちょっと深く押さえると息を止めてしまうのです。そうして首を弛めてもなかなか降りてこない。なかなか降りてこないところまで押さえて、放していく。そうしてもう一回頭がこう下がっている時に、ギュウッと指を押していって、次の持ち上げる時に、右手を放して次の場所へ移す。
次の場所へ行ったら、ギュウッと押さえて、こらえて、頭が下りないところまで来て、それから少し弛めて吐かせて、また次へ移るというようにして肋骨の下に指を入れていくのです。
これが最初の問題。
今から皆さんにやってもらいましょう。
難しいのは、「度合いを見る」ということなのですが、今日の練習ではそれは抜いて、そういうものだと憶えておいて頂くだけで結構です。
息を吐いたまま押さえて、吸いこんだ時にもう一回押さえて放す。右手の方は放さない。そうしたら相手の首の落ちるのが止まるだろうか、それを確かめて、止めたならば放して次に移す。止まるところで押さえるということをやりながら、少なくとも三か所か四か所押さえて肋骨の下に指を入れていくということを練習したいと思います。

今やったのは、「膏肓(こうこう)に作用する押さえ方」なのです。放すたびに呼吸が深くなっていくかどうかということが非常に大事なことで、操法が上手くいくと、一回ごとに息が深くなっていくのです。
一回ごとに息が深くなっていくのというのを見る、ということ大事で、弱い人は鳩尾まで、もっと弱っている人は胸までしか息が入らない。第二調律点まで入ればまだいい方で、臍までくればいい方。第三調律点まで来るのが正常です。そうやって確かめる。
指を放したときに、呼吸が押さえていた処より下まで来るような人でないと、それは弱っているのです。そうやって確認すれば、相手の異常がすらすら治っていくかどうかという、相手の体力の状態がわかる。では、二人組になって練習して下さい。
それから私、説明するのを忘れていましたが、肋骨の脇に指を当てまして、首の位置を動かしていきますと、力の行く角度が変わってきます。そうしながら、レーダーを出しまして<気>を通していくのです。そうしますと、悪い処へいくと<気>が通らない処がある。そうしたら直接そこを押さえます。そういうようにしていくと、集注するところが分かりやすい。
私は順々に、そうやって押さえているのですが、傍で見ている人には、私の指が動いていない様にしか見えない。しかし、受けている人には、私が押さえていくその都度に、みな違った処を押されているように感じているのです。もちろん、私にもみな違った感じがしています。
そうやって相手がこらえるごと、息が止まっている毎に押さえていく。そうして<気>の行きにくい処、一番抵抗のおこる処を、今度は直接押さえる。ですから、順々に押さえては放す、というのではなくて、押さえてグルっと<気>を通して、それから悪い処を直接押さえる。
私はそれを無意識にやっておりますが、その方が便利です。便利ですが難しいですから、<気>の通るのが判らない人は、順々に押さえていって調べた方がよい。けれども、念のためにグルっと<気>を通すこともやってみて下さい。意外にどこが閊えているかが判るかも知れません。判ったら、その方向に押さえると、必ず硬直している部分があります。
では、もう一度やってみて頂きます。

首の重い人は、息を吐いた時に持ち上げてしまっているのです。息を吸いこんだ時にちょっと持ち上げると軽く上がります。吸いこんだ処を、ちょっと速度を速めて押さえますと、首が上がるのです。それに乗じて持ちあげればちっとも重くない。

それから、「レーダーを出して」といきなり言ったので。少し難しかったようですが、やはり一つひとつ押していった方がいいようですね。そうやって押していく場合には、相手に息を吸いこませておいて押さえることで、強く押してもそれが害にならない為の要領になります。息を吸わせていない状態で押すと、あとでそこに痛みが残ることがありますので、吸わせて押さえ、また吸わせて押さえる、という要領を覚えて下さい。
ただ、吸わせるためには、その一瞬手前で手が当たっていないと出来ない。そうでないと、どこを触っても力が入らないですから、一瞬手前に押さえてから、すぐに吸わせて、それから押す。そういうつもりでやって下さい。

今やった事を、次は「お臍」の周りでやってもらいます。臍の周りだと、今やったよりももっとハッキリ判ると思います。
やり方は同じ要領ですが、押さえる幅は、もっと少ない。
そこで、確かめるのは頸椎ではなくて胸椎二番に当てて行ないます。胸椎の二番は胃袋の急所となっています。臍の真上と、臍の左右の三か所が胃袋の急所ですが、左手の指を胸椎二番に当てて、ちょっと動かしてみる。すると、いつでも臍のまわりの三か所に影響があります。
胸椎二番の<一側>か<二側>、時に<三側>に指を当てて調べます。今は<二側>に指を当てて、その指をちょっと立てるようにすると、その影響、変化がもっとはっきりしてきます。
では、二番に指を当てて、この三か所にどういう変化があるのかを調べ合って下さい。

終わったら、相手が、お腹のどこで呼吸をしているかを確かめておいて下さい。
「腹部操法」は、操法直後の呼吸が、どこでまとまるか、ということを見ることが重要で、むしろそれを見るためにお腹を操法すると言っていいぐらいです。
これはお臍の周囲のどこかでまとまれば、それが標準です。お臍のさらに下で呼吸しているなら、それは非常にコンディションがいい時です。腹部第二より上でなら、少し落ちている状態。みぞおちで呼吸している時は悪い状態の時です。
右肋骨下で閊えている人は、下手をするとみぞおとから上で呼吸するようになる人です。
みぞおちから腹部第二にかけて閊えている人は、みぞおちから上で呼吸することになるので、その場合はみぞおちを押さえますと、弛めば呼吸がスーッと下へ行きます。そして臍の上か下で呼吸するようになります。

はい、どうどおやめ願います。
いま、上手に押さえたのに、呼吸が下に来ないでみぞおちに行ってしまったとか、呼吸が斜めに行ってしまったという人がありましたが、それらで多い原因は、その人の腰椎二番と三番が捻れている人です。その場合は必ず相手の片方の脚が短くなっていますので、その脚を引っ張っておきます。アキレス腱側をグッと引っ張って、そのまま上をグーっと引っ張ると伸びてきます。伸びてくると一緒に、呼吸も下に下がって深くなってきます。そうなった時に放せば、伸びたのが保たれます。
それからもう一つの原因は、首が曲がっている場合とか、腕の使い方の異常によるものです。その場合には、首の位置を変えるとか、腕を上げるとか伸ばすとかしてみて、首や腕の位置を決めて、つまり呼吸の深く入る位置を見つかれば、どこが原因であったかが 判ります。

「腹部操法」をする大きな目的は、相手の体力状況を測定することにあって、だから私の操法では、それだけは略すことはありません。体力が消耗してくるにしたがって、下腹の呼吸がみぞおちに、さらにそれが胸に息、さらに肩に行き、鼻翼にまで行く。
鼻の先で呼吸を始めたら、物騒なのです。呼吸は下の方でしているのがいい。

体に異常があった時に、腹部第二調律点を境にして、それより下で呼吸していればそれは回復傾向にあります。第二より上の場合は、戸惑っている状態。
第二付近で呼吸が下に下がらない時は、先ほどのように、みぞおちに呼吸が閊えているのですから、そこを押さえるとスーッと下がってくる。
下腹で呼吸して、みぞおちが<虚>の状態になり、第三丹田のところが<実>の状態であれば、それが我々の言う<整体>の状態です。

「腹部操法」は<体力測定>といいましたが、それだけではなく、<体力発揮>という面でも、相当な働きをするものでもあります。
ですから、極端に言えば、お腹だけ操法していれば、間違いなく良くなる、とまで言えるのです。
この異常はあと幾日で治るとかいうことも、そこで<度>を見ていくわけです。厳密に言えば、体周期の問題や、体癖の問題をしてからでないと、正確な<体力測定>といったものはできないわけですが 、三日や四日の誤差があっても構わないという大雑把な測定であれば、「腹部操法」の観察で可能です。

 

整体操法高等講座 5」(1967.5.15)
(以下の引用は、これまでと同様、原文からかなりの変更を加えて、私なりに編集し直したものであり、小見出しや<>等やそこでの表記、あるいは句読点も、原文にはないものとなっています。その為に原文の意味のとり間違いや、誤った省略、ニュアンスを正確に伝えきれていなことなども多々あると思います。それらは、全て引用者・要約者である私の責任ですので、お気づきの点など是非ご指摘下さい。直ちに訂正させていただきます。)

「相手の力の使い方」(3)
前回は「一点の手抜き」、つまり<急所を外す>とか<一瞬息を遅くする>といったことでした。吐き切ったところをショックするそれを、吐き切って吸ってきたところを、一つ吸いを残す。それは急所の刺戟法として効果を遅くするのです、下手な時は。
これを徹底的に鍛錬して、その急所にピタッと、呼吸の間隙に押さえていくというようにしなければならない。
中等講習ではもっぱらそれをやりましたが、急所を間隙にピタッと押さえていくということは、料理で言えばレストランの料理である。普段に常用する技術ではない。

<一瞬手抜きをする>、<一瞬遅くする>、<一瞬、ちょっと急所を外す>。上手になってきたら、そういうように力を使うものです。
そうしないと、まず<反動>が大きい。また、相手の力をいつもフルに使うということになる。それでは相手の力に<余裕>がない。それをあっちもこっちもキチっと押さえてしまうと、相手の力を発揮する余地がなくなってくる。
この<一瞬の手抜き>、<ちょっとした急所の外し>をしていながら、なお急所をピタッと押さえたのと同じ効果をあげられるようになれば、そこには相手の力が何らかの形で働いていたということになる。

<勢い>
相手の力、というときに一番大事なのは<勢い>というものです。以前にも説明しましたが、同じ三の力でも、一、二、三という時の三には力がありますが、五、四、三の三には力が抜けています。加えているときの力と、抜いていくときの力とでは同じ三とは数えられない。行きと帰りでは違う。

人間というのは、全部<勢い>で行動している。
スタートの時だけではない。<勢い>でズーっと生きている。その<勢い>というものを使うことを考えるようになると、<一瞬手を抜く>ことをすることで、相手の<勢い>によって、抜いたところを埋めていく、そういうことが出来るのです。

私達のやりかたの殆どが、そういう<勢い>の使い方に尽きていると言っていいぐらいで、抜いたり外したりしたところを相手の<勢い>で補っていく。
急所をピタッと押えることが出来るがゆえに、それが外せるわけで、そのことがこちらの<余裕>になってくる。言い換えると、それが出来ることで、<技術の幅>が厚くなったと言える。

叱言でも<含み>と言いますか、相手の逃げ道を一つ作っておくと、そこに相手の力が逃げ込んでいく。知っていて知らない顔をしている。相手の弁解できる余地を残しておく。そうすると、言った叱言の力は残ったまま、相手を方向づけることが出来る。完全に囲い込んでしまうと、強く反発して、言った叱言の力まで無くなってしまう。

操法でも同じことが言えるのであって、ちょっと外して逃げ道を作り、相手の逃げる方向を決めて、それによって相手の全体の動き、力の方向を決めていくのです。

私も昔は、相手が病気だというと、完璧に相手に付き添っていないと<不安>でした。
今は相手の様子を聞くぐらいで、あとは殆どその人の体の力に任せている。その人の体の力がずれている時には、ほんのわずかな力でそれを正すことをする。むしろ急所は使わないで、出来るだけ相手の力で治っていく方向に向ける。
できれば相手自身が、自分自身で気づいて、力を発揮できるように、相手に決める余地を与える。そうすると、治った後に無理が無くて、再発するとか毀すということは滅多に起きない。つまり、相手の力で治るというのが一番自然なので、操法というもので完璧に治すというようなことは、やってはいけない、ということです。
もちろん、このことは高等技術としてそう言っているので、間隙をピタッと押さえられないうちにそういうことは出来ない。技術に幅がでてきて初めてできることで、そうでなければ役には立たないと思います。
呼吸は外していい、などと思いこまれては困りますが、ピタッと掴まえてそうして外す、これが出来ないと、相手の体を本当に丈夫にすることが出来ない。

満腹になるとそれ以降は味がなくなってしまう。そして満腹の不快だけが残る。満腹になる手前で、一口慎んでおけば、次の空腹時まで美味しさが続いていく。
全ての中にある<勢い>というものを使っていこうとする場合には、この<一瞬の手抜き>ということが大事であって、それは手が抜けてしまうのではない。敢えて抜く。自分からわざと外す。この外す度合いが操法する時の急所といえるもので、そこに<技術>というものがある。

相手の<力>というものを考える場合に、一番大切なものはもちろん相手の体の持っている<体力>ですが、それだけではなく、<気力>とか、相手がそれまでに積み重ねてきた<教養>とか、<記憶>とか<知識>、<観念>などあります。
われわれが目標とするのは、相手の持っているそうしたいろんな力を、さっと体の力が発揮できる方向に向けられるようにする、ということですから、相手の心の中にあるそれらのものを知って、その人がどういう心の状態になった時、サッと心がまとまって、体の方向を変化させるかを知っていくことが必要になる。
毀誉褒貶がそういう体の力になる人もいれば、好き嫌いというものがその力になる人もいる、あるいは利害得失がその力になる人など、人によって随分違うし、時代によってもそれが異なります。お国の為などという表現で自分を満足させる人が多い時代には、そういった表現を上手く使うと、力がさっと取り出せるということもあった。戦後は利害得失に敏感に反応するということも多い。いまは大分種族保存的になって次世代の為にと言う人も増えてきた。他人の為、大勢のためということにサッと体の向きが変わるという人が増えてきた。まだ皆がそうなっているわけではないし、自分の体まですっとその方向に向くというまでは行っていないが、これからは自分や自分の家族の為だけでなく、もっと多くに人の幸福の為にと、さっと体が動くようになっていくかも知れない。もっとも、そういうものも、ある意味では利害得失の一種であるといえるわけで、時代の中にまだ利害得失が働いているわけですが、これからの時代が、種族保存的なもの代わるかもしれない。

いま、私たちは、それまでおこなわれてきた<養生>という一般の考え方を否定するということをしています。毀れた体に合うような生活を奨励するなどというのは、裡にある回復要求を殺すようなものだ、だから「不摂生しろ」、その方がはるかに力を呼び起こすのに効果があるのではないか、と言って。
それは、過去に蓄積されてきた<養生>というものへの愛着、薬への愛着、他人に寄りかかる事の喜び、そういうものを利用して、それを壊すことをもって、新しい自分というものによって治っていこうとする<勢い>を引き出していこうとしてやっているわけです。
それは過去に「安静が養生だ」、「他人より余分に栄養を摂ればばいい」、といった考え方があるからであって、そういう考えを持たない人にいくらそんなことを言ったって意味をなさない。問題はそういう考え方を身につけて、それを実行していくことが、やがてやり過ぎるようになり、そのために害が生じてくる、そうなった時にわれわれの言っている<否定>が使えるということです。
文明化していないところの人には、整体操法をやるよりは、ピカピカした金の針を打つ方が効果があるかも知れない。一人ひとり押さえるなどということも野暮なことなのかも知れない。問題は、その人が心の中に蓄積してきたもの、そういうものを、どういう角度でつかまえることができれば、相手の体を一瞬にして動かす力に方向づけ出来るか、ということにあるわけです。
どういう角度で刺戟を与えれば、相手の持っている<心>の方向を、サッと体の力を発揮できる方向とか行動に向けさせることが出来るのか。それは<心の力>というものではなくて、相手の心に過去から蓄積し溜めてきたもの、それを引っ張っていく。<心>が体を動かす方向に引っ張っていく。

誰でも、元気であろうとして、病気を治そうとして、あるいは失敗から立ち直ろうとして気張ります。しかし、気ばかり焦って、実が伴わないというのは、<気力>が無いと言える。ある方向に向かっていて、それが一体どこまで続くか分からないで、結果を出すまで同じ力で進んでいく、そういうのは<気力>があると言える。
こういうものも、相手の力として使っていく。使う時には、やはり<一瞬外す>という技術を使うと、足りない処に相手の力が集まってきて、自分の力でそれを補おうとするのです。
前回説明したのは、そういうことですが、どうもうまく伝わらなかったようです。<一瞬の手抜き>とか<一瞬外す>という技術が出来るようになって初めて、相手に害を与えることなく、相手の力を引き出せるようになる。その前提になるのは、急所をピタッと押えることが出来るということなのですが、それで足れりとしてはいけない。そこが高等の技術の入り口であって、相手が自分の力で自分を動かしていけるように指導するということがわれわれの目標であって、整体指導の基本もそこから始まるのです。

それが出来ないと、全部を自分の技術で果たしていこうとして、相手に技術を押しつけるということになる。そうなると、どこまでいっても相手の異常との戦いになってしまう。われわれは、相手の異常に敵対関係で臨むのではない。相手の力を呼び起こそうというのですから、友好関係でなくてはならない。
相手の力を使う、ということを解さないうちは、相手は意外にも、悪くなろうという方向をこちらに指示してくるのです。養生はしない、肝心なところで不摂生をする。こちらの言うことは聞かない、そして同情だけを求めようとする。病気をもっと重く見られたいという要求が強くなってくる。口では丈夫になりたいと言いながらである。
そうなると、こちらもムキになって、相手を屈服させるつもりで押さえるようになる。だから<戦い>になってくる。
私もそういう時期があって、操法は真剣勝負だと心得て、自分の隙を全く見せず、相手のどんな隙も見逃さないで、戦争をみずから望んでいるような気分で操法していた。いまは、友好関係でやっています。
こちらに余裕があると、相手にも余裕が出てくる。余裕なく、相手の力を使い切り、自分の技術も使い切る気持ちでやっていると、相手は早く治ろうと焦り出してくる。

前回やったのは、相手の力を使おうとする時に<手抜きをする>、<呼吸を一つ遅くする>ことが、相手の<気力>を強くしたり、体を丈夫にするうえで大事なことだと言った意味なのです。体や心に働きかけるときに、一つの余裕を持ち、一つの<間延び>があるために、相手の体がそれを埋めようと自ら動いてくる、つまり、相手の勢いとか力といったものを呼び起こす手段としてそれをやっているのです。

今日は、そういう問題をさらに一歩進めて考えてみましょう。

(体力とは何か)
相手の体力を使いこなす場合に、相手の体力がどういうものか判らないのでは困る。<体力>というのは<加えられた刺戟に対して反応する力>のことです。
加えた力が、刺戟として相手の中の反応や<気力>を呼び起こさないようなものは、<体力>を使ったとは言えない。
相手の<体力>を構成しているのは、<刺戟に反応する速度>や、<刺戟に反応する度合い>や、<刺戟への反応が持続する状態>であって、<体力>に働きかけるということは、それら<体力>を構成する速度、度合い、持続状態を変化させることを意味している。
<体力>というのは、それを本人も、操法する側も、相手がそれを使いこなせないうちは、<体力>とは呼べないのです。
大きな体をしていても、小さなものを運んですぐに疲れるというのは、大きい体格であっても<体力>はないと言っていい。<体格>では<体力>は測れないということです。
何らかで取り出せる、そういうものが<体力>です。
取り出すための手段は、その人のもっている技能とか、教養とか、気力とか、心の働きとか、心の中に溜まっているものとかいろいろですが、「取り出せる力だけを<体力>と呼ぶ」のです。
刺戟に対して反応できる力、反応できる働き、それを<体力>と考えるのです。

或る一点に加えた刺戟によってどういう変化が生じるか、その変化の現れる状態によって<体力>を見るということが正当な見方です。
<体力>がある状態だと、外界からの刺戟に敏感に反応している。胃が悪ければ胸椎の六番に硬結が現れる。胃潰瘍なら八番か十番に圧痛点が現れる。十二指腸潰瘍なら五番に硬結が現れる。
ところが癌の場合は、そういう反応が非常に弱いのです。異常というものが背中にハッキリと現れていない。いくら探しても硬結が見つからないのに、実際は悪いというのは、<治りにくい体の変動>を背負っているとも言えるわけです。
だから、相手の<体力>の状態を見る時には、一定の処に刺戟を加えてその反応を見るとか、自然に加わった刺戟に対する反応が、背中にどのように表現されているか、ということを見れば判る。
<体力>の有無を知る指標は、まず<筋肉の弾力>と<椎骨の弾力>です。弾む力、動いているものは全部弾力を持っている。それらの<弾力>は、相手の体の<勢い> を現しています。弾力があるというのは、刺戟に対して敏感に動いて、すぐに元の状態に戻ってくる、中心に帰ってくるという力のことである。これは、人間の体で言うと、「人間の中心を保つ力」とでも言えるもので、最終的には<お腹の力>によっています。

(体力の象徴としての腹部)
腹部の弾力の有無を調べる時は、まず<頸>を刺戟します。<頸>を刺戟すると、<鳩尾(みぞおち)>に変化(硬直)を起こす。次いでその変化が<臍の周り>に移ります。この一連の変化は生理的なもので、普通の変化です。体力の有無には関係がない。
<鳩尾>(腹部第一)に移ってきた硬直は、腹部第二を押さえていると、腹部第三に移っていきます。
この一連の経過が、二呼吸以内に行われれば、弾力のある状態である。それが三呼吸以上しても移ってこない場合は、刺戟に対する感受性はあるけれども、弾力というものが無い状態で、体に異常を抱えている人は、第一までは早く移行するけれども、その先の第三に移っていかない。
このようにして、相手の体の<刺戟に対する感受性>の状態を観察します。

その次に、<臍の周り>を押さえて刺戟します。すると<首>が変化してきます。<首>の変化は、<頭皮>の変化を引き起こします。これは生理的な普通の変化です。ただ、首の変化が<頭皮>の変化を引き起こすということは、外から与えられた刺戟を、自らの力として受け入れた、つまり吸収したということでもあるのです。
<臍の周り>の刺戟に対して、<同調>したということです。
そういうことを見ることで、外からの刺戟に対して、相手がどのように反応し<同調>するかということを検査する指標となるのです。

練習
まず最初に<膏肓(こうこう)>の<湿気>の状態を見ます。体力が無くなると<膏肓>が乾いてくる。これが乾いている人は、<臍の周り>の力も無くなっている。
湿気を見る時は、直接肌に触れないと判らない。しかし、直接触れると汗ばんでいることは分かっても、すぐに空気で乾いてくるので判りにくい。だから少し離して湿気を確かめます。
普通は<臍の周り>が硬いのはよくない。何処かに体力が働いていないところがある。その硬いところを刺戟して柔らかくなってくると、体力が働いてくる。それまで体力があっても遊んでいたのです。体力があって、それが頭の働きになっているような時は、<臍の周り>には弾力があります。こういう場合は頭部第二を刺戟すれば硬いところも柔らかくなってきて、体力も復活してきます。
ところが、第一が柔らかいのに弾力が無い状態で、そこが乾いている、湿気が無い。そしてそこに<無気力な(硬い)処>が、一、二か所あるというのは、それが現在の異常で苦しんでいるところなんです。そして、その<無気力な処>が消えれば、もう死ぬのです。だから<膏肓>が乾いてきて、その硬い処(禁点の硬結)が消えるまでは、生きていて、いまの苦しみが続くと言えるのです。

<膏肓>を調べたら、次は第二を押さえているうちに、第三に硬直が移行し転換していくかどうかを確かめます。
お腹を見る時に、まず第一を右手で押さえます。その時、左手は相手の首を持ち上げます。動くのは頸椎の七番です。それを可動範囲でちょっと上に挙げます。そして放す。次いで第二を押さえ、放す。そうしながら、変化が移行していく状態を確かめる。変化が早く起こってくれば体力ありとみる。首の上げ下ろしの前と後の第一の変化をそうやって確認する。

お腹は、そういうように相手の体の力が働けるようになっているかどうか、働けるはずなのに、どこかで閊えて働けなくなっているか、というようなことを見ていく場所なのです。難しいですが、今の段階からそういうことに慣れていく。三年くらい練習して判れば、それが標準です。練習ではなかなか判らないが、実際の場面で触ると、病気が重い人ほどそういう変化が判りやすい。練習している人同士で湿気があるかないか調べても、それはあるに決まっている。帰りに電車にぶつかって死ぬという人は別ですよ。しかし、そういう場合は湿気が薄れています。病気で死ぬという場合は、完全に湿気がなくなっています。
まあ、どんな場合でも、一応相手の体に変動があったというときは、お腹を確かめる、第一の湿気の有無を確認するということをやってみて下さい。
では、今日はこれだけで終わります。(終)

 

野口父子の対話(19)

 晴哉氏の整体法と裕之氏のそれとにどのような違いがあるのか。晴哉氏亡き後、整体協会を存続させるために兄弟で遮二無二尽力し、七、八年経過したころに遭遇したあの衝撃的な経験が、それら全ての尽力を無に帰させるほどの根柢的な変革を強いられることになったという。それからの三十数年は、晴哉氏が本来観ていたはずの身体、触れていたはずの身体、つまり裕之氏の言う<内観的身体>の実験的探究やその言語化に没頭する日々であった。だから私のような気楽で平凡な立ち位置から整体法を眺めてきたに過ぎない者にとってみれば、容易に理解に到達できるような世界でないことは当然であるだろう。しかし裕之氏のその三十数年の尽力による重さや密度が、「白誌」誌上に縦横に展開されているのを見るにつけ、何とかわずかにでも理解し自分のものにしたいという欲求もまた湧いてくるのは私にとって自然なことと言える。

 このブログの読者の皆様には迷惑至極なことには違いないはずだが、お付き合い下されば幸いである。

 次回からのこの父子対話シリーズでは、<調律点>などの、もう少し具体的な領域に踏み込んで、野口父子の整体法を学んでいきたいと思います。

 

野口父子の対話(18)

 裕之氏の世界を理解出来るようになるために私に欠けているものは、身体の内側に深く分け入っていくことだろう。そしてそのための前提として、いわゆる客観的身体といわれる生理的、物理的身体構造の理解もまた必要だと思える、

 裕之氏の言説に照らして自分を顧みれば、私には内観的身体のみならず客観的身体についてもあまりにも無知であることを思い知らされる。

 たとえば裕之氏の言説には、しばしば日本の伝統武術についてのものもみられるが、私にとっての武道と呼べるものは、二十代後半に二年間ほど習った少林寺拳法ぐらいのものである。合気道については、思想家の内田樹氏の武道論を介して読み物として接してきた程度で、実際に学んだことはなかったし、習ってみたいと思ったこともなかった。

 ところが、この半年ほど、いろんな機会に合気道について目にすることが多くなり、youtubeでいろいろ検索していく過程で、塩田将大氏や岡本眞氏のチャンネルに出会い、合気道合気柔術に強く惹かれるようになった。

 特に岡本氏のチャンネルには、彼が合気(合気柔術)という世界について極めて簡明に、客観的言語を駆使して、その秘伝とされる不思議な世界について丁寧に説明されていて、他の合気関連の動画に多く見られる、投げたり飛ばしたりすることが中心のものにはない強い魅力が感じられる。

 懐手して文字面ばかり追っかけていた私にとって、そうした岡本眞氏のyoutubeチャンネルは、かなりの衝撃であった。そして河野智聖氏や他の整体指導者が、合気道に打ち込んでいる事の一端をも思い知らされた気がした。

 河野氏によると、野口晴哉氏が合気道の始祖植芝盛平氏と何らかの交流があったということや、整体協会フランス支部の津田逸夫氏が、植芝盛平氏と合気道での交流があったということを話されていたが、興味をそそられる。

 『季刊全生』(1970早春号)の津田逸夫氏(エールフランス航空)の「植芝翁を悼む」(117)には、次のような二人の間柄を特徴づける対話内容が語られている。 

 私は整体操法で気の問題を齧っていたから、その意味で興味があった、気、呼吸、空想の面で、大変教えて頂いた。合気道は結んで放つことだと再三いわれた。これと呼吸がどういう関連にあるか、僕自身でいろいろ実験してみた。簡単に言うと次のようである。

 結ぶというのは我と彼が合体することである。互いに無関心でつっ立っている限り、結びはない。相手が我に関心を持ち、行動を起こす時、結びがある。整体操法でいえば礼といえるだろう。結ばれた時、相手の気を導いて、放つ所まで運んで行く。そこで彼は我から離れる。相手が打ってくるのを待っているのではない。こちらから進んで迎えに行くのですともいわれた。

 迎えに行くために、僕は仙椎で気を吸うよう実験を重ねた。これは現在中々面白い効果が上がっている。他の処で吸っても何も起らないのに、仙椎で吸うと、相手はフッと体が浮いて眼に見えぬ糸で引きよせられるように寄ってくる。後は導いて吐き、放つだけである。とばされた相手は不思議だと頭をかしげているが、気の研究をしていれば、別に大して不思議でもない筈である。

両手の働きは頭、両脚の働きは腰にあるといわれた。仙椎の他に、延髄を中心にする上頸も気を吸うポイントであると思われる。翁の言霊(ことだま)の話が始まると、皆閉口しているようであった。何の話だか見当もつきかねる様子であった。判ろうが判るまいが頓着なしにイキナリ出てくる話なので、面くらってしまうのである。

 だが、コトダマの中心はスの声、スのヒビキであると思う。これは気の発端の響であろう。

 翁の時間空間に関する考えこそは最も興味のあるものであった。この中に魄の武道から魂の武道に発展した翁の思想の根柢がある。翁亡き後、こんな話をする人はもう再び出てこないような気がする。だが幸いに僕は直接に聞い一人であり、これは僕の中に醗酵を続けるであろう・・・

 

 私が岡本氏や津田氏の言説に強く惹かれるのは、そこに<気>による自己と他者との結び、言い換えると真に他者に<触れる>とはどういう事態か、ということについて示唆していると思えるからにほかならない。

 津田氏は早々に<気を結ぶ>と表現し、一方の岡本氏は極力<気>と表現することを抑制しながら、自己の身体が他者の身体と一体化し(つまり合気が掛かった状態となり、自己と他者が一つの構造体としてバランスをとり、ミラーリングが生じている状態)てはじめて、相手を自分の意識によって崩したり放ったり出来るようになる、と述べている。

 本来不安定な二本足で<立つ>という人間的行為が、自分以外の他者と<触れ合い>一体化して、二人で四本足の構造として相互に依存しながらバランスをとろうとすることによって、合気の前提が生じてくる。だから自分が一本足で立とうと試みた瞬間に、一体化したその構造の安定性が崩れ、新たな安定を実現しようとして相手の状態が変化し崩れてしまう。そうした流動的構造に持ち込むことが、合気道の基礎となっている、と岡本氏は説明している。

 また、実際そういう状態を映像で示唆しているわけです。そして、この状態さえ獲得できれば、自分の裡の物理的な<力>だけでなく、摩訶不思議な働きとされる<気>も、自分の意識の赴くままに移動させることが出来、相手に浸透させていくことも可能となることを、さまざまな動画によって伝えようとしているわけです。

 

 裕之氏の内観的身体論が、こうした合気道の理合と関係があるのか、関係がないのかは私には分からないけれども、岡本氏が示唆する<合気>の理合が、<気>という世界の一つの表現方法として考えることは可能だと私には思われる。また、どこまでが客観的身体であり、どこからが内的身体かという便宜的な区分があって初めて、一律に<気>と表現されて全てがバーチャルなものとしてリアルを見失ってしまう苦しさからも少しは解放されるのではないか、と強く思わずにはいられないのである。

 

参考(岡本氏のホームページより引用)

 合気の定義は流派、会派によって様々であり、明確な定義がない。それは惣角が自分がやれる不思議な現象を全て「合気」の一言でくくり、それらを引き継いだ高弟たちがそれぞれ勝手に語ってきたことに由来する。 とは言え、逆に言えば見ても理由の分からない現象でないと「合気」の名に値するものでなく、いわゆる「合気上げ」の中でも単純に相手を持ち上げたりすることや、見れば理屈がわかるようなものは違うということになる。 他方、いわゆる「触れ合気」と言われるものにも、柔術由来のものと、合気の術由来のものがあるが、どちらも見ただけでは原理は分からない。 普通、触れ合気をかけるには、相手に手首を持たせた状態からかけるが、実践の場において手首を掴まれる状況はあまりに考えにくい。手首を掴まれないと掛けられないでは、何の役にも立たない。

  私のユーチューブを見ていただければわかるように、合気の意味が分かっていれば、自分の指が相手に触れただけでも掛けられるし、もっと言えばどこかが相手に触れていれば、また相手の着衣をつまむだけでも掛けられるのである。 

 そこで「合気」が掛かった状態とはどのようなものを言うのか。それは相互の「重心の共有」「軸の同調」「動きのミラーリング」とでも言う状態が成立していることが最低条件である。それらがない状態は、とても合気が掛かっているというレベルに達していない。 

 どうやればそのような状態になるのか。ひとつのキーワードは「脱力」であり、もう一つは「瞬時のシンクロ」である。 「脱力」もまた、定義が曖昧の状態であるが、単純に言えば「筋力」を使わず「靭帯や腱」だけでエネルギーを出す技術を言う。よく「力を抜け」という指導者はいるが、何の力を抜くのかという明確な指示ではないため、単純にエネルギーを出さないことと勘違いをし、何もできないという当たり前の結果になる。

 相手に何らかの効果を与えるためには、最低限のエネルギーは必要であるが、そのエネルギーを筋力で発生させると、相手の下位脳はそれを「攻撃」と解釈するので、防御か反撃行動に出て、「同調」という現象は起きない。

 逆に靭帯や腱のエネルギーを感じるだけだと、相手は筋肉の収縮の予備動作と捉え、次の筋肉の発するエネルギーに対処するために、下位脳が「いわば聞き耳を立てている」ような状態になり、同調が始まるのである。

 しかし、ただ同調が始まっただけでは不十分である。それにより重心や軸が「共有・同調」し続けることが必要であるが、そのためには立っている状態や体幹を維持する深層筋群のパワーダウンが必要となる。それにより相互が「お互いに支えあう」関係を作り、身体力学的には無理のある「二足歩行」状態から「四足」状態に移行し、そのままそれを維持しようとする無意識の「もたれ合い」構造を作ることになる。

 それを可能にするのが自分の身体を「溺れる者は藁をも掴む」状態にすることで、このために「立つことをやめる」脱力(と言うよりは消力)の技術の稽古が必要である。 つまり合気の技術とは、筋力の否定と、瞬時に相手の重心や軸と同調する技術ということになる。 そして、そのための接触技術が「手の内」の技術であり、それは剣術の基礎である「刀の持ち方」なのである。ぐい呑みの手」「朝顔の手」「猫の手」など、大東流には手の内に関する口伝がたくさんあるが、それは茶道の「茶巾絞り」に通ずる、手掌腱膜の高度な使い方である。

 その使い方を覚えれば、それを関節や腰などの身体の各所に転写し、どこでも合気が掛かる状態を作れるようになるのである。

 

  

野口父子の対話(17)

 裕之氏の内観的身体論を、何とか自分なりにでも理解したいと考えながら、その糸口さえ見つけられないまま、時間だけが過ぎ去っていく。

「白誌」誌上に刻印された裕之氏の緻密で芳醇な言葉が指し示そうとしているものが、野口晴哉氏の整体思想についてであり、整体の技法についてであることは確かだと私には思えるのだが、晴哉氏の世界にすら十分に辿りつけないままの私が、その世界を踏まえてなお先に歩を進めようとしている裕之氏の後ろ姿を見失わないように追い求めることに困難さが付き纏うのは当然と言えば当然であろう。

 しかしそんな私にも、愉しさだけは依然として健在である。それは晴哉氏が為そうとしたこと、また為そうとして為しえなかったことなどが、どの様なものであったかを、裕之氏が見事に言語化し私たちに提示してくれているからだ。

 裕之氏の言説は、一見すると晴哉氏の言説とは随分異なったもののように感じられることがしばしばあるが、よくよく考えなおしてみると、それらは主として野口父子二人の感受性の違いや、時代背景の相違によるものであって、異なった世界に集注した結果ではないことが分かってくる。

 操法の場において、他者に触れるとはどういう意味を持つものなのか。自己と他者が真に出会うとはどういう事態を指すものなのか。同調を可能にする方法とは何か。自発性を誘導するにはどうすればよいか。他者に対する操作性を可能な限り排除していくにはどのような覚悟が必要となるか。自己と他者が相互に触れ合う時、どのような集注世界が立ち上がってくるのか。そもそも人間とは何か。生命とは何か。私たちはどこから来てどこに向かうのか。

 こうした捉えがたい難題に、果敢に突き進んでいく野口父子の姿そのものが、私には喩えようもなく魅惑的で、愉しみを喚起してくれる、有難い存在でありつづけている。