野口父子の対話(17)

 裕之氏の内観的身体論を、何とか自分なりにでも理解したいと考えながら、その糸口さえ見つけられないまま、時間だけが過ぎ去っていく。

「白誌」誌上に刻印された裕之氏の緻密で芳醇な言葉が指し示そうとしているものが、野口晴哉氏の整体思想についてであり、整体の技法についてであることは確かだと私には思えるのだが、晴哉氏の世界にすら十分に辿りつけないままの私が、その世界を踏まえてなお先に歩を進めようとしている裕之氏の後ろ姿を見失わないように追い求めることに困難さが付き纏うのは当然と言えば当然であろう。

 しかしそんな私にも、愉しさだけは依然として健在である。それは晴哉氏が為そうとしたこと、また為そうとして為しえなかったことなどが、どの様なものであったかを、裕之氏が見事に言語化し私たちに提示してくれているからだ。

 裕之氏の言説は、一見すると晴哉氏の言説とは随分異なったもののように感じられることがしばしばあるが、よくよく考えなおしてみると、それらは主として野口父子二人の感受性の違いや、時代背景の相違によるものであって、異なった世界に集注した結果ではないことが分かってくる。

 操法の場において、他者に触れるとはどういう意味を持つものなのか。自己と他者が真に出会うとはどういう事態を指すものなのか。同調を可能にする方法とは何か。自発性を誘導するにはどうすればよいか。他者に対する操作性を可能な限り排除していくにはどのような覚悟が必要となるか。自己と他者が相互に触れ合う時、どのような集注世界が立ち上がってくるのか。そもそも人間とは何か。生命とは何か。私たちはどこから来てどこに向かうのか。

 こうした捉えがたい難題に、果敢に突き進んでいく野口父子の姿そのものが、私には喩えようもなく魅惑的で、愉しみを喚起してくれる、有難い存在でありつづけている。