野口父子の対話(8)

裕之氏が、父晴哉氏の触れていたであろう身体を<内観的身体>と表現したとき、われわれが一般的にイメージしている生理・解剖学的知見に基づく<客観的身体>はどのようなものと位置けられることになるのだろうか。

少なくとも私の理解してきた晴哉氏の整体操法の技術は、体自体の領域でもなく、また心自体の領域でもない、<心身>があたかも融合し合い、相互に影響し合っているように見える領域に働きかけるものであった。

つまり、この<心身領域>を想定し、一方で潜在意識教育によって身体を、他方で主として手指等によるある種の物理的働きかけによって心を<整体>という状態に導くものである、というふうに整体操法の技術を理解してきた。

ところが、裕之氏の<内観的身体>技術は、その技術の出発点で<客観的身体>そのものを技術の対象から外すことに注力しているように私には読めるのである。

私の理解では、晴哉氏は確かに裕之氏の言うように、<内観的>な身体に触れていたことが事実だったとしても、あくまで身体の表層部分に働きかけることを契機にして具体的な個々人の心身領域を意識的に整えようとしていることは確かであり、またそれ故に<客観的身体>そのものを変化させうることを可能にしてきたのではなかったか、と思うのである。

われわれが、晴哉氏の操法技術を身に着けようとしてその難しさを感じるのは、目の前の個々人はその感受性においても、体運動の傾向においても百人百様で、その相手をどこまで具体的に認識でき、その相手に最も相応しい度合いや、間や機会を得て操法出来るかにあると思える。

そして晴哉氏にとって、相手の訴えている現在の苦痛や悩みがどのようなものであり、それらが人間一般に共通する生理的異常やその異常感のもっている<整体的意味>を、相手の認識に届かせるように言葉によって説明するとともに、手指を用いた技術によって、相手の生理的身体的実感として<整体>という体の状態を理解できるようにしていると思える。

 

すこし話がずれるけれど、<生命>と名指された現象に対し、真正面から向き合い、意識によってそれを解明しようとする人間的な営みが、たとえ見果てぬ夢の世界のように思えようと、人間の知的関心は決して醒めることはないと思う。

人類が四足の状態から立ち上がり、言葉を見出し、知を積み重ね文化や社会を形成することは、人間の存在の原形のなせるわざであり、そのこと自体を否定することは出来ないはずである。それは人間の貴重な成果としての科学の発展を止める事や否定することが出来ない事とも同じである。

また、どのような技術も、その運用の仕方によって功罪が異なってくるのは当然で、その功を導き、罪を抑制していくのもまた人間の<知>によってしか成しえないはずと思える。

つまり私にとって重要だと思える事は、ある知識の存在のしかたが、唯一絶対的なものであると措定した瞬間、その知識は独善的となり、他に多様に存在するはずの知識を排除しようとし、<罪>に転化するということを決して忘れてはならないということだ。

人間の意識や知によっては決してその実質、その全体には辿りつけないものが人間の周りには数限りなくあることへの謙虚さと、それでもなおその対象に肉薄しようとする好奇心とを失わない事。

晴哉氏の整体法は、意識化できることは徹底的に意識化し、そうでないもの、たとえば<生命>に対しては徹底的に謙虚に<礼>をもって身を委ねること、そういう両面を持っているところにその素晴らしさがあり、またそれゆえに広く一般の人々にも届く魅力があると思う。

 

こうした考え方や整体法理解をしている私に、裕之氏の<内観的身体>論やその技法が上手く理解できるかどうか、今の私には正直言って自信がないと言わざるをえない。

そして裕之氏のことばが、主として整体指導者に対しての高い倫理観を要請するためのことばであると理解するならば、明らかに私のこの「父子の対話」シリーズは、ピント外れの頓珍漢なものでしかないだろうと思う。