野口父子の対話(16)

裕之氏の内観的身体の研究は、触れがたい他者の身体にいかにすれば真に触れることが可能となるかを追求する、実践的かつ野心的な試みであると言える。

整体操法という一対一の人間が出会う場で、<直(じか)に>相手と触れあうということが、いかに困難なことであるかは、少しばかり整体操法をかじったに過ぎない私にも容易に想像できる。

整体操法という場においては、そのことが決定的な課題となるのは明らかだと思うが、私たちの日常生活の場においても、本当はとても重要な課題であるはずである。

じかに相手と向き合い、じかに相手を理解し、互いに共感しあうことができれば、それほど素敵なことはない。

しかし実際には、自分にも相手にも互いに見えない防御の壁が幾重にも重なりあっているために、そのような至福の時間を容易に手にすることが出来ない。

このことは、対象が人間であっても動物や植物や自然や宇宙であっても、基本的には同じで、私たち人間が意識をもち、様々な観念や幻想を行使して対象に対峙しようとする限り、ある意味で必然の事である。

言い換えると、私たちは自己が持ち至った固定観念のフィルターを通して対象を知覚し理解することに慣れ親しんでしまっているからだ。

だから<じかに>対象に触れ、<じかに>対象を感受するという行為が、日常生活のうえでは極めて稀にしか訪れない。

ヴァーチャルな世界が、リアルな現実を幾重にも覆い隠し、そのことでリアルな現実はここに来て再生困難な状況さえ呈しはじめている。

百年前のパンデミックも、百年前の戦争も、過ぎ去りし話しとして終焉してしまったのでないことは、日々のニュースが伝えている。

つまり人類は膨大な知を蓄え、自由と民主主義を標榜し、多くの富や幸福を手にした優れた存在になり得たと言えるとともに、しかし未だに多くの無知と飢餓と暴力と疫病という不幸をも併せ持つ哀しき現実世界のなかに同時に生きているわけである。

人間とは何か、人間いかに生きるべきか。自然とはなにか、いかに自然と共存していくべきか。そのためにどのような社会を構築していけばいいのか。

崇高かつ愚かな人間の歴史は、何度も何度もこれらの問いに引き戻され、そのつどさまざまな答えを見出しながら歩き続けている。

ひとりの人間においても、この崇高さと愚かさは常に併存しており、たいした存在でありつつ愚かしい存在でもあることから殆どの人間は免れることができない。

自らを他より優れたものとし、他者は教え諭すべき愚かなものであると自分勝手に枠づけし、他者への想像力を見失ってしまったとき、私たちから<寛容さ>が失われるのだろう。<寛容さ>を失った世界や社会のなかでは、伸びやかに歌ったり踊ったり、笑ったり、深々と呼吸したりが難しくなってしまう。そんな息苦しく窮屈な毎日が現実のものとなっているのに、私たちの多くは、そうした上から目線でべしべからずばかり言う強権的存在を怖れ、忖度し、自らを防御するためと信じて口ごもりがちとなり、うつむきかげんとなって現実から逃避する。

地球環境の悪化、パンデミックや世界的貧困、格差の拡大、寛容さの減衰、想像力の枯渇などの今日的困難さを前に、これからわれわれ人類はどのような方途を導き出していくのだろうか。

 

私には到底その正解を持ち得そうにないのだが、たとえ途方もなく遠い道筋を辿らざるを得ないとしても、まず私の身体や目の前の他者の身体、身体を取り巻く自然環境に<じかに>向き合い、<じかに>触れ合ってみることからしか前に進むことはできないのではないかとは思える。そのとき、私や私たちの身体は、意識によってはまだとらえきれていない無限の可能性を語り始めるに違いないと思えてならない。

だから裕之氏の<内観>という方法も、晴哉氏の<気>による整体操法という方法も、私たちがまだ気づき得ていない私たちだれもが秘め抱いている無限の可能性への貴重な道しるべであることは確かだと思えるのだ。