野口父子の対話(15)

心とは何だろう。私たちは心的現象について、あるときは<心>と呼び、またあるときは<精神>と呼び、<意識>と呼ぶが、私の中ではこれらの言葉に明確な区別はなくかなり曖昧なまま使っていることが多い。

今日このブログで取り上げようと思うのは、解剖学者三木成夫(しげお)氏の『内臓のはたらきと子どものこころ』(築地書館)と『胎児の世界ー人類の生命記憶』(中公新書)の二冊だが、三木氏はこのブログの冒頭で私が書いた、私の抱いてきた疑問にたいして、大きな示唆を与えてくれるものだと思える。そして、できれば裕之氏の内観的身体を私なりに考え理解していく手掛かりの一つにでもなればとも思う。

 

結論から言えば、三木氏は<こころ>とは「内臓感覚」を土台に生じるもの、ということになる。以下に詳しく追ってみる。

 

三木氏はまず、人間の手足や脳とともにからだの外側を造っている部分を「体壁系」と呼び、からだの内側に文字通り内臓された部分を「内臓系」と呼んで両者を区別する。

次にこの「内臓感覚」について膀胱感覚、口腔感覚、そして胃袋感覚の三者を例に具体的な<こころ>の発生について語っていく。

膀胱は直腸と共に、中身が詰まると収縮する。この感覚は尿意・便意となって意識に上るが、おしめのとれた幼児たちは、それを自分で覚えるまでに失敗を積み重ねてゆく。この中身の刺激による内臓筋の収縮は、内臓感覚の一方の柱をつくるが、これを素直に受けとめる感受性は、この時に養われる。・・・

ふつう内臓は物が詰まってきて、それがあるところまでくると、グッと収縮する。たまればたまるほど、この内圧に対する‘’逆圧‘’が増してくるわけです。それでだんだん充満して、だんだん逆圧が強くなる。このプロセスが、いわゆる「不快」といわれる状態です。これに輪をかけるのが括約筋ですね。この括約筋が収縮しているものですから、出ていかない。こうして、その極限にきたときに、括約筋がホッとゆるむ。この緊張がとれていくプロセスが「快」の状態です。

この快・不快の内臓感覚は、唇や舌の口腔感覚においても同じで、これら顔の尖端部の構造は、食べ物を選別する精巧無比の触覚となっている。この機能は乳児期の正常な哺乳によって日々訓練されてゆき、全てを舐めまわしながら、将来の『知覚』の成立に備えていく。

乳児に母親の乳房を吸わせ続けることによって、内臓感覚を鍛えるかけがえのない出発点になっている。

胃袋の内臓感覚は、尿や便のそれとは違って、中身が空っぽになってすぐに食物を催促するというようにはなっていない。朝・昼・夜とか春・夏・秋・冬という大きな宇宙的な要素、つまり太陽系における天体相互の運行法則にきちんと従っている。内部の日リズムだけでない年リズムも色濃く反映している。

すべての生物は太陽系の諸周期と歩調を合わせて『触と性』の位相を交代させる。動物では、この主役を演ずる内臓諸機関の中に、宇宙リズムと呼応して波打つ植物の機能が宿されている。原初の生命球が‘’生きた衛星‘’といわれ、内臓が体内に封入された‘’小宇宙‘’と呼びならわされるゆえんである。

植物のからだには「感覚・運動」にたずさわる器官が最初から欠落している。言い換えれば、植物は「宇宙リズム」とのハーモニーに、まさに全身全霊を捧げつくしている。

体壁系も宇宙の運行とともに波動するリズムは見られるが、動物に特有の感覚・運動器官が備わっていることで、天体の動き以上に身近な環境変化にいちいち反応しているために、「卵巣」を除けば植物のように純粋に反応できないため、しばしば自然のリズムは乱されがちとなる。

三木氏によれば、<生命の主人公>は、あくまでも食と性を営む内臓系であって、感覚と運動にたずさわる体壁系は、文字通りの手足に過ぎない。我々の日常は、目につきやすい体壁系にばかり注意を注いで、あまり顔を出さない内臓系をついおろそかにしがちである、ということになる。そしてこの三木氏のいう「内臓の復興」こそが人間の「心情の涵養」につながっていく、と論が続けられる。現代に希求されるべきは

内臓感受性の復興であり、それが<こころ>の豊かさの復活に直結する、というわけである。

あたまとこころはいかにも対照的です。切れるあたまとは言うが、切れるこころとは言わない。また温かいこころはあっても、温かいあたまはない。つまり前者の「あたま」というのは判断とか行為といった世界に君臨するのに対して、後者の「こころ」は、感応とか共鳴といった心情の世界を構成する、一言で言えばあたまは考えるもの、そしてこころは感じるもの、ということです。

三木氏の語り口が魅力的なのは、その自由奔放さにあるだけでなく、氏の解剖学者としての広い知見やその見据えている時間軸の射程の長さにある。

なんとそれはヒトの胎児が母親の胎内で演じる、人類の生誕から現在にいたる壮大な歴史の再現であることを詳細に記述しているのである。

氏はそれを、我々誰もが持っている<生命の記憶>と呼び、胎児が演じた<夢の再現>とも呼んで、母性というもの、母から子への<いのち>のつながりの凄さや素晴らしさを深く賛美している。その思いや優しさが、氏の文体に滲み出ている。

 

さらに氏の文体の魅力を加えると、人間を<「大宇宙」に共鳴する「小宇宙」>と表現する空間的広がりを内臓感覚、内臓波動を媒介に巧みに描くその手法であったり、氏自身の子供さんの深い観察を基礎に、畳を舌で舐めまわしたり、うんちやおしっこの姿に人類の歴史を<おもかげ>として二重写しに記述したり、なぜ人間は不定愁訴に見舞われるのかをバイオリズムと眠りのメカニズムから記述したり、とにかく多様で豊饒なのである。是非、一読をお薦めします。

 

さて、今回の一応の締めくくりとして、私が特に興味を惹かれた部分を以下に引用してみます。それは三木氏の仏教についての記述です。

仏教に十二縁起観というのがあります。人間はみんな、生老病死という苦しみがあります。中には、もっともっといろんな苦しみを抱え込んだ人間がある。

いったい、この苦しみは、何を「縁」として「起」こるのか、その縁を求めて、だんだん遡っていくわけですね。そして十二階段を上りつめて、最後に行きついたところに「無明(むみょう)」がある、というのだそうです。・・・

この「無明」の本来の意味は・・・内臓感受にとって、好ましからざる状態をいったもの・・・あの膀胱の壁が、刻一刻と張りつめてくる、そのj状態を思い浮かべればいいわけです。要するに「内臓不快」ーーこれが人間苦の究極の‘’引き金‘’だというのです。

これはものの本質をついていると思います。何もむずかしいことを言う必要はない。お腹がすいたときに、本当にお腹がすいた、そして、なにがどれくらい不足しているかがわかって、それにふさわしいものを食べることができたらそれでいいんですから・・・

私たち凡俗は、仏の教えによりますと、けっしてそうはいかない。

空腹が「縁」となって、それこそ百八煩悩が、夏雲のように湧き上がってくるという。

まったくもって、どうしようもないですね。

もっとも、‘’百八‘’などとややこしいこという必要はない。‘’四つ‘’ーーあの「四煩悩」だけでもう十分ですね。「生老病死」「愛別離」「怨憎会」「求不得」ーーよくもまあ、いやなことばかり並べたものですが、要するに、こういったいやなことが、たとえば‘’お腹がすいた‘’というそれだけの引き金でもって私どもの頭の中にムクムクと湧きおこってくるというのです。

もちろんこれだけではありません。その時の体調しだいで、今度は、ありもしないことが、頭では分かっていながら、どうしようもなく気になりだす。

自分は無能力者であるとか、相手を傷つけてしまったとか、これは不治の病であるとか・・・

専門用語で貧困妄想・罪責妄想・心気妄想などと呼ばれていますが、だいたい陰にこもって来ますとだれでもこんなものですね・・・。

私どもの人生というのは、言ってしまえば、この煩悩・妄想との明日亡なき戦い、と言っても言い過ぎではない。振り払っても振り払ってもハエのようにまとわりついてくる。もう考えまい、と心にきめた、その下から同じことを考えている。あの堂々めぐりというものですが、こうした厄介きわまりない出来事が、そうした「無明」を縁として起こってくるというわけです。・・・

ふつう、このような宗教・哲学の高尚な問題と、まあ、いってみれば‘’ハラ減った‘’

などという生理の問題を結びつけるということじたい不謹慎と言われるかも知れない。しかし、これだけはいくら否定しようとしてもまず無駄でしょうね・・・

つまり、このからだの構造には、そのようにならざるをえないひとつの‘’しくみ‘’と申しますか‘’からくり‘’が秘められているわけですから・・・(23~28頁)