野口父子の対話(9)

裕之氏が何とかして直接触れたいと思っている<生命>というものとは何なのか。裕之氏はこの<生命>として名指される対象そのものを、どうにかして直接自らの実感を通して感得したいと言う。そしてそのことが飽くなき<内観的身体>の模索を可能にしたとも。

一体われわれは、<生命>あるものと、<生命>なきものとの違いをどのように理解しているのだろうか。

おそらく、生きて活動していた生物が、その活動のすべて停止し、一つの物的な塊りになった現象をみて、そこにかつて存在していた<生命>と呼ばれる何ものかが消滅し、それを<死>と呼び習わしてきたと言っていいだろう。

われわれはその個体を構成するさまざまな部分や、それら部分の有機的な機能の<働き>を、それぞれの活動という<現象>を通して理解してきたと言える。

つまりわれわれは<生命>といわれる対象そのものを、その<現象>や<働き>を通じて間接的に理解してきた、と言える。

対象を理解するということは、あくまでも<意識>というものを媒介として対象に関わっていくことであって、本質的に間接的な<心的>行為であり、対象そのものに直接到達することではない。つまり、対象そのものをまるごと過不足なく実感するということは、それが<意識>による限り不可能に近い。

<意識>によらないで対象そのものを実感するということが可能となるとすれば、それは唯一<意識>を捨て去り、心的活動を停止させ、身体そのものとして生きることでしかないだろう。

このことは、<生命>という抽象度の高い言葉について言えるだけでなく、<身体>という言葉にも、また<人間>という言葉にも、さらにいえば人間が命名したすべての言葉についても同様に言えることだ。

裕之氏が触れたいという<純粋な身体そのもの>、<成長そのもの>あるいは<生命そのもの>といった対象は、実際は<意識>の直接的な対象とはなりえないのではないか。

なぜなら<〇〇そのもの>というものは、必ずある<現象>を通じて<意識>によってしか我々の前に立ち現れてこないはずのものだからだ。

このように考えてみると、整体操法の場で、われわれの目の前にいる個人を十全に、欠けるところなく理解し実感し、技術によって何らかの働きかけをして<整体>しようとするときに、もっとも妨げとなるのは<意識>だということになる。

晴哉氏が、繰り返し整体指導者に言っていた極意のようなものも、いかにしてそうした意識を打ち消すかという一点に絞られていることと深く関係していると思える。

言うまでもなくそれは、相手を良くしようとか、早く何とかしようとかいった意識的計らいが、結果として相手の身体の自然性を混乱させ、余分な遠回りを来たし、相手の身体の本来の働きを阻害するという認識が、晴哉氏の裡に強く存在していたからだ。

愉気(法)>という行為が、意識を閉じて<天心>の状態になったときはじめて十全な働きを実現するとされるのも、それと同じことを言っているわけだ。

 

私たち人間が共同性を形成し、互いに他者を支え合って生きることを生存戦略としたのも、私たちが個体としてではなく対として、さらには共同として生き延びようとする存在だからであり、またそうしたことが可能な能力を獲得しているからにほかならないだろう。

 

ところで、われわれの意識は、ある対象(心的なものも物的なものも)に注意を向け、その集注の度合いを高めることに応じて、より多くの意味や内容をその対象から引き出してくるという性質を持っている。

このことは、心的な内容も、身体の生理的内容も、それぞれに固有の重層的な構造を持っ我々に対していることを示唆している。

幸いなことにわれわれは、目の前の個人の身体を対象とするとき、ある特殊な状況に置かれている。それは私自身が相手と同じような生理的身体をもっており、私の意識はこの生理的身体を意識の対象とすることが出来るだけでなく、同時にこの身体を私自身が<生きている>、という二つの面を持っている事である。

だからこそわれわれは、他者の身体を前にして、私が私の身体を対象化しつつ同時にその対象自体を生きている、という特殊な経験を活かして理解できるということである。

そしてこの幸運な経験こそが、共感とか共振とか感応と呼ぶ現象を引き寄せるもとになっていると言えるだろう。

ここで私が言いたいことは、私たちの意識は、目の前の身体という対象に対して、単に客観主義的に理解しているだけでなく、私の身体を同時に生きてもいるということであり、それ故に他者の身体をも共感を持って生きていける存在だということである。

さて、翻って晴哉氏の偉業がどこにあったかと考えてみると、氏が<生命>が持つ働きへの絶対的信頼をもとに、<病気>や<健康>という概念を一旦相対化したことがあげられる。この相対化を可能としたのは、氏の卓越した「触印象の言語化能力」であり、従来の視覚や聴覚の知覚を介した知見に、新たに触覚という生命にとって本源的な知覚による知見を圧倒的に拡大したところにあったと私には思われる。

生きて行動する人間を、自らの鋭敏な手指を通して、徹底的に解読したことにおいては当時も今も晴哉氏を凌駕しえた存在は見当たらない。

 

裕之氏によれば(「白誌」掌編・草編18号)、晴哉氏は二歳から十代前半までの少年期を病気による後遺症で言葉が話せなかったという。そして言語による他者とのコミュニケーションの欠落は深刻で、それゆえに言語への異様なほどの飢餓感のなかで呻吟してきた。十二歳で丁稚奉公に出された時期に、この病を克服しようと奉公先の近くにあった松本道別(ちわき)氏の霊学道場の門を叩いたという。その修行の過程で気合術を習い、気合をかける術を習得した瞬間に声が出た。そしてさらに修行を重ねて十七歳で自らの道場を開いたという。

この少年期の晴哉氏についての貴重なエピソードについて語る、裕之氏の軽妙かつ滋味溢れた語り口は類をみないほどのもので、会員限定の雑誌とはいえ、是非多くの整体研究者に読んで戴きたいものと思う。

そして信じられない程の高みにいる父親を身近に持ち、その父の偉業を背負わざるを得なかった裕之氏の生き様を想像するだけで、裕之氏のことばに息づく射程の広さ深さには驚嘆を禁じえない。

 

本来であればこのブログで、裕之氏の打ち立てようとしている<内観的身体技法>とその思想について、私なりにきっちりと理解し、それなりの記述を行わなければならないはずだが、この二人の天才を前にすると、どうしようもなく言葉を失ってしまう私自身の情けなさと、私の野口整体の愉しみ方の限界も浮き上がってきて困惑してしまう。

ま、もっと時間をかけて「野口父子の対話」をこれからも続けていくことしか私には出来ないだろう。(グシュン・・・)