2021-01-01から1年間の記事一覧

野口父子の対話(10)

裕之氏が真っすぐに向き合っているものが、晴哉氏の整体操法そのものであることは確かだろうと私には思われる。 晴哉氏が、整体操法の技術と思想は、一人の人間が意識的に他のもう一人の人間に働きかける方法としてはほぼ完成したものであると言い、しかもそ…

野口整体を生きる

はてなブログ「アルダブラゾウガメ玄の生活」(2021.10.31)による野口整体記事紹介に触発されて、野口整体の思想を自分の生き方に取り入れるということについて、思うところを少し書いてみたい。 「病とは治療するものにあらず」──全生を説いた体育家・野口…

「七の日講座」ピックアップ(6)

今回から見出しを<「七の日講座」ピックアップ>と変更して、前回のメモの続きを始めます。従ってこのブログのシリアル番号は(6)となりますが、原典にはこの番号はついていません。またこのブログは、講義記録から任意に抽出し私的にまとめたもので忠実…

野口父子の対話(9)

裕之氏が何とかして直接触れたいと思っている<生命>というものとは何なのか。裕之氏はこの<生命>として名指される対象そのものを、どうにかして直接自らの実感を通して感得したいと言う。そしてそのことが飽くなき<内観的身体>の模索を可能にしたとも…

野口父子の対話(8)

裕之氏が、父晴哉氏の触れていたであろう身体を<内観的身体>と表現したとき、われわれが一般的にイメージしている生理・解剖学的知見に基づく<客観的身体>はどのようなものと位置けられることになるのだろうか。 少なくとも私の理解してきた晴哉氏の整体…

野口父子の対話(7)

裕之氏の整体思想を、現在の私の理解の及ぶ範囲で整理しておきたい。 まず晴哉氏の整体技法の世界が、晴哉氏とその技法を受ける個人との一体一の関係性の中で成立する世界であることが前提としてある。 そして父親の体現し構築したその卓越した技術と思想を…

野口父子の対話(6)

裕之氏の言葉を辿っていくと、<優しさ>という思想が私の裡に湧き上がってくる。裕之氏は<優しさ>という言葉を一言も使ってはいないのだが、整体をする者と整体を受ける者とが<互いに整い合う道>を模索しているという意味で、そう感じるのだ。 整体する…

野口父子の対話(5)

以前にも触れたことがある「独鬼」創刊号の、裕之氏の「形見」(月刊全生にも再掲されている)というしみじみとした美しい文章がある。裕之氏が亡き父の書斎を整理していく中、そこに見出したのは愛娘を失った父親の慟哭ともいえる文章だった。そこには裕之…

野口父子の対話(4)

裕之氏の独自な世界を、今の私の理解の届く範囲で描くとどうなるか。裕之氏が父晴哉氏と口論し、整体協会を飛び出し、死の床にある父に再開するまでの期間、裕之氏が呻吟し格闘したものが何であったかを見届けられればそれは可能だろうが、それは簡単に出来…

野口父子の対話(3)

このブログの読者の方にはおわかりかと思いますが、私は人間の現象を、次の三つの領域に分けて理解するよう努めています。というのも、この便宜的な区分けによって、日常の様々な現象や問題を比較的混乱しないで理解しやすくなると思うからです。 たとえば、…

野口父子の対話(2)

裕之氏が身体教育研究所として我々に伝えようとしていることは何だろう。私がこれまでに知り得た限りで、とは言っても極めて限られたこの研究所や裕之氏の発信した文章等の一部からのものに過ぎないが、それは<原点に回帰する>という方法にあるのではない…

野口父子の対話(1)

野口晴哉氏が亡くなったあと、整体協会は一方で三男の裕介氏が整体指導者の育成と会員の指導を、他方で次男の裕之氏は晴哉氏の整体技術を理論体系化する役割を担って、二人の本部講師体制をとった。 その後、裕之氏は本部講師を辞め、研究所を整体協会内に設…

コロナ禍に考える

コロナパンデミックから一年以上が経過した。三密を避け、不要不急の外出を自粛し、マスクを着用や手洗い等が習慣化し、マスコミやネット情報にも目を配る日々である。 このコロナ禍の日常で、特に私が強く関心を抱いているのは、ウイルスが私たち人類にとっ…