野口父子の対話(6)

裕之氏の言葉を辿っていくと、<優しさ>という思想が私の裡に湧き上がってくる。裕之氏は<優しさ>という言葉を一言も使ってはいないのだが、整体をする者と整体を受ける者とが<互いに整い合う道>を模索しているという意味で、そう感じるのだ。

整体する者が、身を削るようにして他者を整体する、ということの異様さを、いかにして払拭できるのかと考える裕之氏の視点の先に、野口整体法の未来のあるべき姿を夢見る裕之氏の生き様が、私にそうした<優しさ>を感じさせるのだと思う。

私たちの多くは体の不調をきっかけに、整体指導者の門を叩く。「すみません、調子が悪いのでちょっとみてくれませんか」と。

しかし、そう言われた指導者にとっては、「はいはい、ちょっとみてみましょうか」と言うわけにはいかないはずである。それこそ、全身全霊で相手の人間そのものに向き合わざるを得ないその指導者にとって、不調を訴える相手のそれまでの人生そのものの重みに向き合わざるをえないのが野口整体法の思想や技術なのであってみれば、大仰に言えば命がけの集中を相手に投入せざるを得なくなることは明らかだからだ。

裕之氏から見た晴哉氏の生き様とは、おそらくそうした捨て身覚悟の父親の姿ではなかったか。そして父親の弟子たちも、同様の覚悟で整体指導にあたり、多くは傷みつつその使命を全うしてきたのだと思う。

裕之氏の言説には、そうした父を含む指導者たちの気高さを尊びながらも、そうしたある種の不幸を救済し、整体するものとされる者がともに幸せに生き、ともに整え合う道が存在するのではないか、というところに裕之氏の生き方の原基があり、意思があり、内観的身体技法があるのではないか。

そのように見てみると、それは整体指導者のみならず、整体法を学ぼうとするもの、それを受けようとする者を等しく救済しうる方法の模索と言えるだろうし、それは<優しさ>そのものと言えるように私には感じられるのである。