野口父子の対話(3)

このブログの読者の方にはおわかりかと思いますが、私は人間の現象を、次の三つの領域に分けて理解するよう努めています。というのも、この便宜的な区分けによって、日常の様々な現象や問題を比較的混乱しないで理解しやすくなると思うからです。

たとえば、関係性については、①個人・・・ 自分が自分と関係する心的領域、②対(つい)・・・ 個人と他の個人とが一対一で関係する心的領域、③共同・・・ 個人が社会といった共同性に関係する心的領域、といったようにです。

 

たとえば野口整体と表現する場合、この<野口整体>という言語は、それを語る個人の言語表現の内容を表現したものですから、その言葉を発する個人の思想や心情や経験内容、その個人の心的傾向や感受性の傾向、その個人の社会生活上の属性、その個人の生きている時代の要請や雰囲気など、さまざまな条件によってそれぞれ異なった内容やニュアンスを伴ったものになるのは明らかです。

従って、たとえば晴哉氏の名指そうとした<身体>という表現が、今日の生理化学的<身体>と、その指し示そうとする内容とで何がどの様に異なったものであるかを明確にしていくことはとても重要な整体法理解の方法となります。

裕之氏が身体教育研究所で行っている公開講座も、こうした方法の一つであることは言うまでもありません。

つまり、整体法を学ぶということは、われわれが生きている今日という時間的・空間的背景と、晴哉氏が生きた時間的・空間的背景との差異や、私という個人の実体と、晴哉氏の実体との間の差異とを明らかにしていない限り、正確に晴哉氏の名指そうとした対象に至りつけない、ということになります。これは他者を理解することの困難さを物語ってあまりあることです。

しかも、晴哉氏が発した言葉が、操法という一対一の関係性のなかで発せられたものか、講習会のような多くの個人の集まりに向けて発せられたものかによっても、その内容は大きく変容を受けざるをえません。

整体法では、徹底的に意識によって詰めていく領域と、それとは全く逆に意識を徹底的に稀薄化していく愉気法や活元運動の領域とが併存していますが、整体操法を指導している場面での晴哉氏の発語内容と、愉気法講座で用いられる同一の言語では、当然その指し示す対象に内容の差異が存在することは当然でしょう。

整体法を学ぶという時に、何よりも困惑するのは、その差異を正確に理解し、晴哉氏の実感をわがものにすることの難しさです。

自分だけの理解で、その実感を自分サイズに縮小して満足できるというのであれば、誰も苦労はしなくて済む。しかしそれは独りよがりの独善となる以外に道はありません。