はてなブログ「アルダブラゾウガメ玄の生活」(2021.10.31)による野口整体記事紹介に触発されて、野口整体の思想を自分の生き方に取り入れるということについて、思うところを少し書いてみたい。
「病とは治療するものにあらず」──全生を説いた体育家・野口晴哉の思想と実践・後編 | DOZiNE (hagamag.com)
これは芳賀書店の三代目辻陽介氏が、野口晴哉氏の孫の野口コーキ氏(45歳)にインタビューしたもので、辻氏の直截な問いに対する野口氏の爽やかな受け答えが強く印象に残った。
整体操法技術を全く学んだことのない野口氏が、生活の中でごく自然に<じっちゃん>と呼ぶ野口整体創始者、野口晴哉氏の思想を生きている、その姿がくっきりと浮かび上がってくる。
野口整体とは生き方である。そのことが、これほど自然に、何の意図や作為もなく語られるのを読んでいると、私自身の生き方さえもが照らし出されるようで、整体を語ることが恥ずかしく思えてならない。
辻氏の質問はこんな風に始まる。
野口さんはこれまで病院に行ったことはあるんですか?
予防接種もうけたことない?
それは家族の方針だったんですか?
野口さんのお爺さん、野口晴哉がどういう人物だったのか、あらためて教えて下さい。
「全生」とはどういった考え方なんでしょうか?
治療を捨てる・・・すると、野口晴哉はその後は何をしていたんです?
「体育」と言ってみても、それは一体、どういうことなんでしょう?
それは今日で言う「未病」や「無病」などの考え方に近いんですかね?
野口晴哉は病にはどう向き合うべきだと考えていたんでしょう?
しかし、さっき野口晴哉は人が自分で生きていけるように「体育」を志すようになったと言ってましたよね。それもまた自分の意思によって生命をコントロールすることではないんですか?
すると「体育」とは一体何をすることを指すんでしょう。不介入こそが正しいのであれば、もはやすることがないじゃないですか。
治療の否定が介入そのものの否定だとすれば、そこではある種の「手付かずの生命」のような幻想が描かれているように思える。しかし、今の話を聞いて、それは違うということが分かりました。野口晴哉の問題にしていたのは、介入の是非ではなく、介入の仕方なんですよね。
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なんだか野口晴哉を「身体のアナキスト」とでも呼びたくなってきました(笑)
野口家は死というものとどう向き合っているんでしょう?たとえば病によって早死にされてしまうような人がいた場合、その事実をどう捉えるのか?
野口さんはワクチンについてはどうされるつもりですか?
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当意即妙に答える野口コーキ氏の姿を是非確認してみてください。
そこには整体を生きるということの、ひとつの回答が示されていると思います。
(以上)