「七の日講座」ピックアップ(6)

今回から見出しを<「七の日講座」ピックアップ>と変更して、前回のメモの続きを始めます。従ってこのブログのシリアル番号は(6)となりますが、原典にはこの番号はついていません。またこのブログは、講義記録から任意に抽出し私的にまとめたもので忠実な転載ともなっていませんこと、ご理解ください。

 

 

「七の日講座」1958.11.17

つわり

悪阻の人は、L5が飛び出していつも硬くなっている。そこでその両側を弛めると一時は楽になるが、また繰り返す。

観察を重ねていくと、そういう状態が生じるのは、そのひとの体がいつもそこに力が集まってくるような姿勢をしている。だからそこに集まってしまうものを他の場所に移すことが出来れば、悪阻のたびにそこを押さえていなくて済むはずだと気づいた。

一般に重心はL3と腹部第三調律点の中間にある。妊娠するとそれがL5に下がってくるのです。妊娠して二日後に下に下がることを発見した。

普通はL5に重心が下りる前に、いったん前方に、つまり恥骨の方にかかります。

それがなくて、すぐにL5まで下がった時に悪阻になる。

そこで、L5に集まった力、重心を恥骨の方に戻してみると、悪阻の現象がなくなってくる。

ではその操法をした母親から産まれた子どもは弱いかと確かめると、すでに私は二十年間、一万人余りの子供をお腹にいるときから見てきたが、皆悪阻なく産まれ、しかも普通より丈夫なんです。

わたしには妊娠・分娩に関する知識がありませんから、悪阻についても、人間の無意識の運動状態としてとらえ、その運動状況を変化させるとどうなるか、悪阻という運動現象を取り除いたときどうなるのか、という事だけに興味をもって観察してきた。

だから悪阻はあって当たり前という考えかたは必ずしも事実とは言えない。体の問題はいつでも事実が真理なんです。

悪阻をなくす操法は簡単で、集まった力を一時脇にどかし、そのどかしている間に腸骨を拡げるだけなんです。

苦しんでいるのを臨時に楽にするときは、腰椎の5番から腸骨に沿って、その硬くこわばったところを弛めるように丁寧に押しさえすればいい。

 

悪阻をこのように無意識の運動現象ととらえ、体の運動要求がうまく実現できていない状態というように理解することで、その解消をめざしたわけです。

 

これは悪阻の現象に限ったことではなくて、さまざまな病気についても同様に言えることで、どんな病気でも治っていこうとする働きがあって、それが無意識の運動要求、<体の調整運動の要求>というものになっている。私は、この運動要求にだけ集注して、その面からだけで対処してきたんです。

そうやって万病に処してまいりましたが、それで難しかったとか、その運動要求が見つからなかったとかいったことは一度もなかった。

 

その人の中の動きたがっている部分、体の無意識にあるこう動こうとする要求、それを掴まを動けるようにした。それだけのことで、病気を治したわけじゃない。

多くの人は人間の運動を<意識>だけで考えているから、人間を観察すると言っても非常に妙味が少ないけれども、人間の行動の中に、<無意識>の領域があって、その無意識に動こうとする働きを見ていこうとすると、観察というものが非常に面白くなってくる。

悪阻と同様に、いろいろな病気といわれる現象も、治ろうとする運動要求とか、その部分以外の他の異常の代用をしようとしての運動要求であったりとかがあって、そういう働きが無意識に行われている。

そしてそうした要求が果たされると、病気といわれる現象もなくなってしまう。

 

今日人間をいろんな視点から細かく分割・分析してきていますが、「一人の人間は一つの細胞から発展してきたもの」であるという視点が欠落しているために、ある部分の現象の全体像を捉え対処することが非常に難しいものとなってしまっている。

母親は身籠った子どもの成長を<意識>によって育ててきたのではない。子どもは母親の<意識>とは関係なく自ら成長していく。体は自分の無意識の要求、無意識の運動によって自分を作り上げてきたのです。

無意識の運動というものは、自分の体を作り上げる名人なんです。

だからこの要求、この運動そのものを用いていく以上、そとからの

材料を必要としない。人間が自らの体を作り上げてきた力、その無意識の働きに直接働きかけるというのが私の唯一の方法であるわけです。

私たちの体のなかで、<生きている>ことに直接関係する器官の大部分は<不随意筋>です。<意識>で干渉出来ないようになっている。

だから食べたもの飲んだものは、それらの諸器官が栄養にしたり血にしたり排泄したりと無意識のうちに上手く働いてくれるし、しかも同時に不随意筋どうしで体全体の働きの調和まで保つようにいてくれている。内臓同士でいつのまにか全体のバランスをとってくれている。

 

ところが、その同じことを<意識>によって外側からやろうとすると、とてつもなく複雑で難しいことになる。しかも、どうしても見えている部分や、それまでわかっている部分のみへの働きかけになってしまい、<全体の調和>というものからは外れて行ってしまう。そのため、治療という一つの刺激が、余分な刺激となってしまい、他の新たな病気を作り出してしまったりすることになる。

 

<意識>でもって<不随意筋>に働きかけるということは干渉であり、そのこと自体が間違いである。

結局人間の体の中の問題は<不随意筋>、その働きに任せなければならない。

実際、私たちはこの<不随意筋>の働きによって体が営まれていることが有難いことなんです。

私は「体の働きの調和をはかる」とか「体の無意識の運動要求を果たさせるようにする」とか言っているわけですが、これらのことは明らかに<不随意筋>に対する働きかけであり、確かに<干渉>であります。

しかしこの<干渉>は、<不随意筋>の無意識の営みがあってのものなんです。

体がある要求を果たそうとしている、体が全体の調和をはかろうとしている或る瞬間にショックを与える、それだけで体の要求そのものは、そのままずっと続いていくのです。悪阻の対処法のところで触れたように、瞬間に重心の位置を前なり上なりに移しておいて、腸骨をちょっと開いてやるだけで、あとは何もしなくていいんです。

その瞬間の干渉だけで、悪阻はなくなってしまうし、全体の調和は保たれたままで済んでしまう。

つまりその干渉は、運動要求を果たさせるためのきっかけを作っただけで、そのきっかけさえ作れれば、その異常はなくなってしまうのです。

 

以上。