野口整体を愉しむ(再録85)「整体操法高等講座」を読む(1)体を動かすもの

整体操法高等講座」を読む(1)体を動かすもの

整体操法高等講座を読む」と題して、野口晴哉氏の口述記録を始めたいと思います。このブログで「整体操法の基礎を学ぶ」と題して70数回の講座の記録を紹介してきましたが、それらはI先生宅での研究会の様子を、I先生が作成した資料に沿って記録したものでした。だから、その資料には当然I先生のバイアスがかかったものになっていましたが、しかしその元資料は、I先生が直接経験した講習会の度に手にした野口氏の口述記録であったろうと推測しています。(I先生は、出典について語られなかったし、われわれもそのことについてお聞きする機会を持てませんでした。)
今回は、かなり以前に、たまたま手にした「整体操法高等講座」十数冊の冊子のコピーをもとに進めますが、「整体操法の基礎を学ぶ」シリーズとちょうどうまく接続できるものとなっていると思います。

今回のシリーズに<読む>と題して、<学ぶ>としなかったのは、私がこの記録をただ<読む>ことしか出来ないという理由によっています。I先生のような指導者を介在して学ぶことが叶わなかった以上、私は私自身のために、この口述記録を丁寧に読み進めていきたいと思います。本来なら、そのまま全文を記載できればいいのでしょうが、それは著作権上の問題にもなると思いますので、私なりの引用や私なりの省略や私なりの言い換えや解釈を行っていくことになると思います。そうした要約には、当然危険がつきまといます。なぜなら、野口氏の<語りことば>を私なりに解釈することは、私の稚拙な視線から、野口氏の思想や技術を狭く切り分け、縮めることにしかならないのは確実だからです。読者の皆様には、ぜひそのことを念頭に、冷めた目で眺めていただきたいと思います。もしこの要約に、問題や間違いがあれば是非ご指摘下さい。その責任はすべて要約者、引用者である私の責任ですから、よろしくお願いします。

整体操法高等講座1 体を動かすもの(1967.4.5)

(<間>を活かす)
これから整体指導法の高等技術を説明しますが、高等技術には手でやる技術は殆どないのです。手でやる技術というのは高等技術を会得しない人が一生懸命やることで、そういう技術をどんなに使っても治らないものが沢山にあるのです。いや、そういう技術を使わなければよくなってしまう場面もまた多いのであります。従って高等技術を会得しているかいないかということは、何もしないという<間>を活かせるか活かせないかという問題に連なり、<間>を活かすということが高等技術の根本になっております。・・・
私達のやっていることは、体運動を調整することがその目標でありますから、人間の体運動の起こるもとは何だろうかということを一応確かめておきたい。・・・

(<要求>について)
人間は生きているから動くわけです・・・生きていることは物質と比べて非常に弱い存在です。ちょっと空気が切れても、ちょっと食べ物がなくても、ちょっと体をぶつけたというだけでも死んでしまうことがある。・・・だから人間は自分の体を護るために、いつでも無意識に<適>に向かって動いている。・・・<適>を得ることがなければ死ぬよりほかない。もっとも、死ぬこともまた生き物にとっては<適>です。人間なら百年を待たずに死んでしまう。同じ存在としては続かない。そこで積極的に繁殖という方法で、種の存続を果たしている。生き物は個体が<適>によって身を護る事(個体維持の要求)と、<繁殖>によって種として存続する(種の保存の要求)という二つの動きを、その<要求>として持っているのです。つまり、人間を動かしている一番の元は、この<要求>というものと言える。・・・
生き物はすべてこの二つの<要求>によって動いているが、生き物の構造の違いによって蛇はにょろにょろし、蛙はぴょんぴょんする。関節構造や運動系の構造が違うからです。要求としては同じでも、表現様式は異なってくる。・・・
人間の場合は、立って手を使って行動するというのがその運動様式の特殊性です。・・・この二本脚で立つということは、安定を保つ上ではかなり不利な条件である。だから人間の動きは、バランスをとる働きによって運動する、という面が多いわけです。そのため、四足動物に比べて関節のわずかな左右の違いが、激しく動作に影響してくる。関節の異常が、他の動物とは比べものにならないほど身体全体に影響を及ぼす。
中等講座で腰椎の一、三、五の治し方をやりましたが、腰の痛いのは一番、動けないのは三番、脚に響いて痛いのは五番。ところがレントゲンで撮るとみな四番が狂っている。それを見て四番を治そうとすると大抵失敗する。一、三、五以外のところに手を出すと治らない。
壊れた処を、つまり四番を直接いじくるような操法をしてしまうということがなぜなされてしまうのかといえば、操法する人が「人間の体の<要求>を活用する」、ということを考えていないからである。言い換えると、その操法は今言った二つの要求を果たそうとする生命の働きを活用するという視点がないということです。
繁殖に向けて進む生命のエネルギーというものは凄まじいもので、そのエネルギーによって<死>を無化しようとしている。それが<性欲>と言われるもので、このエネルギーが人間の一定期間の体の動きに転換していく。このエネルギー転換として最も多いのは「エネルギーの大脳昇華」というもので、若い人がくだらないと思えることにもゲラゲラわらってみたり、騒いでみたりするということがおこる。最近出来たACS(註:整体協会内に出来た若い会員の研究グループ、アラーム・クロック・ソサエティ。I先生もここのメンバーだったということです。)の人達の録音テープを聞いてみると、初めから終わりまで皆笑い通しです。ところがこの高等講座のテープを聞いてみると森閑としていて、まるで私が墓地で話をしているようである。比べてみると吃驚するのですが、こちらの会は一定年齢に達した、エネルギーが大脳昇華しなくなった人達、言い換えればあの世が近くなっている人達の集まりであり、ACSのメンバーはあの世が遠いとも言えるわけです。そんなように性エネルギーが余ると、まず感情が激しくなり、同時に激しく動くようになる。ですから、彼らは会がある時は毎晩午前三時四時まで体癖について質問に来たりする。そして私が寝るまで頑張っている。ですから私としてもなかなか大変なのですが、それぐらい飽きることなく追求する。私が喋ったことをそのままにしないで、すぐに確かめていく。そういうのはみな性エネルギーの大脳昇華現象である。
この現象は、時に特殊な心理現象を引き寄せて、<嫉妬>とか<怒り>とか<悩み>とか、さらには<深刻な不安>といったものになる。生理的には、<心悸亢進>とか<胆石>とかを起こしたり、ひどい場合には<がん>をつくったりというように、いろいろな体の異常を作り出します。そのため、病気の中には性欲のエネルギーの転換によるものが多く認められる。また、子どもがざわざわしたり、非行に走ったり、喧嘩をしたりというのも、このエネルギーの過剰によることが多いのです。
こうした過剰となったエネルギーを皆持て余しているだけですが、それを使いこなせないものだろうか。
たとえば、<苦痛>というものを考えた場合、人間が何か体の中に「必要な変動」というものを求めている場合には、<苦痛>といってもその中に<快感>があるのです。
性欲の中にはマゾヒズムのように苦痛を受けることを快感とする側面がありますが、それは誰のなかにもある。自分より力のある強い存在に頼ろうとするのもそうしたのの一つと言える。
そういう面から言えば、病気の<苦痛>をそのまま<快感>に転じるということも、決して不可能なこととは言えない。
苦しいことを除こうと足掻いたり、それを何とか防いでいこうとしたりすることだけを考えたりして、かえって体を鈍くしてしまうという行き方は本当とは言えないのではないか。その逆に、<苦痛>というものを、体のエネルギーの働きと考えて、そのエネルギーを活用していこうとすることは出来ないものだろうか。
それは技術さえあれば、決して不可能なことではないはずである。
今言った人間の裡の二つの<要求>、それを活用すればそれは可能です。個体を維持しようとする<要求>よりも、もっと激しいのが種の保存の<要求>ですが、その繁殖のエネルギーを、体を強くする為に利用するという技術を使えば、それが楽に行えるようになるのです。
苦しんでいるから何とかその苦痛を除いてやる、というのも整体指導ですが、苦しいということそのものを快感に変えていくというのも整体指導なのです。いや、そういう指導がなくては、本当には苦しみは無くならないのです。
モルヒネをいくら使っても、借金の苦しみは抜けないのです。煩悶に対していくら鎮痛剤を与えても、それは誤魔化しでしかなくて、煩悶が消えるわけではない。
信仰というのは多分に性エネルギーの大脳昇華を利用するという面がありますが、それは今の医術的な痛み止めに比べれば、少しは進歩した面もないとは言えませんが、それはたまたまそういう緩和をつくり出しているだけで、偶然そうなっているにすぎません。そうではなくて、<技術>としてそれを作り出していく。
それが出来れば、過剰エネルギーというものもそれほど問題では無くなるのです。性エネルギーの過剰はいろんな病気の原因であったり、病気からの回復を邪魔するものであったり、他人に迷惑をかける働きだったりするということだけが問題にされているけれども、たとえば非行に走るエネルギーをそのまま勉強するエネルギーに変えるということは不可能ではないのです。
病気の苦痛においても、そういうエネルギーを転換することで、耐えられない苦痛を快感にしたり、それを耐えられるように体力を呼び起こすということがあっていいわけです。
異常の場合の体の働きを高めていく場合には、そういうことが出来ないようでは、技術無しと言わなくてはならないと思う。
ですから、壊れているからそこを治す、苦しんでいるから苦しいんだ、というような考え方で接しているうちは、私はその人が技術者だとは思いません。
壊れているところがあっても、そこに手をつけないで治せなくてはならない。
苦しみ悩んでいれば、苦しみ悩んでいることそのものをエネルギーとして、それを体を回復するに必要な力として使いこなすことが出来なければならない。

体のエネルギーが頭のエネルギーになったり、頭のエネルギーが体のエネルギーになったりして、ぐるぐる巡って生きていることが、生物の中で特に大脳の発達している人間の特色でありますから、頭の働きだからいつまでも頭の働きのままにしておくとか、体の働きだからいつまでも体の働きにしておくというような区別をしなくてもいいはずなのです。それらは同じ一つのエネルギーだからです。
そういうつもりになれば、大脳に昇華するエネルギーも、大脳から体に及ぼしかけるエネルギーも、同じように使いこなせる。

(<間>を使いこなす)
頭のエネルギーや体のエネルギーを使いこなすために、それらエネルギーが働く余地として<間>というものを使いこなしていく。
<間>というのは、単なる空間といったものではない。<間>というものは、<心理的エネルギーの身体支配>やその逆の<身体的エネルギーの心理的支配>というものをスムーズに行う為の時期を意味しています。

人間の体運動の基にあるものは、そういうエネルギーの問題だけではなく、ほかにもいろいろあります。
たとえば<感受性>の問題もそうですし、<意志>の問題も体運動の基になる。あるいは<潜在意識>の問題も同様です。
われわれが、人間の運動調整を考える為には、それらのもの全てをひっくるめて、積極的に使いこなしていくということがなされないと、本当の意味での運動調整は出来ないのです。
そういったいろいろな要素の中で、初等技術では「関節構造の調節」がテーマとなり、中等技術ではその関節構造の調節を行う為の「感受性の使い方」というものが付け加わり、最後の高等技術では「潜在意識の問題」および「性エネルギーの昇華傾向」の使いこなしということを問題にしているのです。

高等技術では、関節構造に対する働きかけというのは少なくなっている。人間の要求のもとにあるエネルギーを動かして、相手の裡に「自発的に回復していこうとする要求」を引っ張り起こす、ということに主体をおいているわけです。

回復要求を引っ張り出すと言っても、<意識>が対象になっているのではない。異常の状態というのは、そういう要求が働いていないから引っ張り出そうとするわけですから、<意識>の問題ではない。<意識>はそういう状態の時はただ「早く治したい」と焦るだけです。そういう時の<意識>というのは無力なのです。
ところが、一旦その回復要求が動き出すと、途端に焦りなどなくなってしまう。

人間の体を治す際に、息せき切っている相手に、さらに駆け足をさせるようなことは無駄なことです。だからひとまず相手を落ち着かせる。あいてのバタバタしている心を一旦脇にのけておく。
「早く、早く」と焦る心に道筋をつけて、他所へ流すように誘導すれば、生きている限り、死ぬ間際まで楽しく生きるということができるのです。ゆったりした気持ちに誘導できれば、回復する動きがひとりでに出てきて、自然に回復してしまう。
イライラして焦っているうちは、エネルギーが頭に昇華するばかりで、回復の要求が起きないばかりか、むしろそのことで回復を阻害してしまう。そして手っ取り早く過剰となったエネルギーを鬱散させるために、<適>に向かうことよりも、体を壊す方向に向かってしまう。なぜそうなるかといえば、過剰エネルギーを<壊す>方に向ける方が、手っ取り早く鬱散させることが出来てしまうからです。<意識>による焦りというのは、そういう働きに加担してしまう。

高等講座では、「要求が表に現れてくる傾向」といったものを観察していく、ということが話の中心になっている。
一昨日から花が突然咲いてきれいになっていましたが、その前日はまだ蕾の状態で、少しふくらんで赤みを帯びてきたかなと思えるぐらいだったのに、それが突然のように咲き始めたのですが、それだって要求が裡にあって、咲いてきたのです。
人間の要求も同じで、裡にある要求は必ず実現してくるのです。実現の過程が細やか過ぎて見ても分からないような変化ですが、その見えない様な状態をジッと観察して、それが感じられるようにならないと、相手の裡にある要求というものはつかまえ出せないのです。動きが見えないからといって、それを空想するのではない。ジーっと観察していないで、時々見るだけで、自分の空想でそれが見えたと錯覚している人がいますが、私たちはそういうことではなく、自分の手で相手に触ってそれを感じとっていくのです。われわれの<要求>の観方というのは、必ず手で触って見ていくのです。
繰り返しますが、高等技術では練習することは非常に少ない。会得すべき手の使い方というものは殆どないと言っていい。もっとも全然無いというのでは見物になってしまう。我々がやっていくのは、あくまでも相手の<意識>や、相手の体の<知覚>を経由してのものであるから、高等においても相手に触れて、言葉をかけながら<心>を連ねていく。そうやって、相手の裡にあるエネルギー、相手の潜在意識に直接触れていく、それが高等の技術です。
しかし、中等の技術と同じように相手に触れ、言葉をかけていく際に、中等の時の技術よりもさらに内輪の使い方をしていく点が異なっている。
相手の裡の変動がまだ表面に現れないような段階で、その兆しを受け取って、それをそのまま拾い上げていく。
相手の関節が動かなくなってしまってから治すというのが中等で、高等では関節が動かなくなりそうな段階で治してしまう。
つまり高等の技術とは、中等の時よりもっと相手の細かな動きや変化を見て取ることが必要であり、したがってもっと細かい処理でその変動に対処していく。だから技術としては簡単に見えるが、非常に微細な対象を微細に処理するための繊細な技術が必要になる。
そうした技術というのは、極端に言うと、こうした講習会のシステムで身につく様な問題ではないのです。
しょっちゅう相手の傍にいて、何か変化がある度に見ていく。たえず一つことにずーっと集注していって、集注し抜いたときにポツっと分かってくる。そういうものです。
こういうことを会得できた人というのは、一心に打ち込んで、「分からない、分からない」を何年か繰り返して、ポツっと分かってくる。いつから分かったか、それも分からない。分からないの極端まで行って、フッと分かってくる。教えた経験から言うと、分からないということが分かっている人が一番早く分かるようになる。
分からないということを強調するつもりはないが、結果から言うとそういうことになって、ある処まで行くとスッと開けるのです。
これは個人差が大きい。それは精神集注の密度の差によるからです。

まあ、何回か、何人かの人をやっていくと、細かなことがだんだん見えてきます。小さな動きに敏感になり、その動きを見逃さないような目をつくることが、高等技術習得の基本であります。

以上が、第一回の講座の要約です。