野口整体を愉しむ(再録71)整体操法の基礎を学ぶⅡ(63)整体操法を行う立場について

整体操法の基礎を学ぶⅡ(63)整体操法を行う立場について

I先生「整体操法を行うとは、どういう視点に立ってするのか。その為には、操法しようとする自分の考え方、操法する目的、操法する為に必要な立処というものを確立しておく必要があります。そういうものがしっかりしていないと、結局のところ、不安から余分なことをし過ぎてしまい、相手の自然な経過を乱してしまいかねない。よくよく注意して、それらのことを学んでいって下さい。」

整体操法というのは、病気を治すというのではなくて、病気をやっている相手の身体を治すのです。種まきの方ではなく、土地を耕す方なのです。そしてその土地の癖を知って、この土地には育つが、他の土地では育たない、ということを見分ける。その土地の正しい使い方を考えていく。土地というものを無視して、種のことばかり考えてきたのがこれまでの医療です。医学がそのまま治療とならないのも、土地という個々人の身体の性質を無視していたからです。
整体方法がこれまでの治療と異なるのは、身体のなかにある体力、快復力、身体の自律性を見て、それを正していくということを目標にしている、というところにあります。
だから、最初に必要なのは、異常があったとして、その異常を回復していく働きなのです。もし悪い傾向の癖があればそれをまず正さなければいけないし、自律性のひずみがあればそれを正さなければならない。体癖修正ということが必要になってくる。
身体に異常があるから、熱が出たり痛んだりする。異常があるかぎり、それらのことは身体としてみれば正常な状態です。これまで病気の症状だと言われていたことの大部分が、実は身体が回復していく働き、人間の自律作用のひとつの現れにほかならないのです。そうした正常な症状を、身体から切り離して研究してきたために、それらを病気の症状であるかのように言われてきているけれど、実際は体の正常な働きなんです。

熱が四十度出たと言って不安になっているが、我々から言えば、熱がスパッと出す人のほうが、三十七度しか熱が出ない人よりも、よほど気の効いた身体なんです。その証拠にサッと高い熱が出た時にはサッと下がる。われわれはそのことを経験で知っている。だから高熱が出たと言われたら、即座に「よかったですね」と言える。それを四十度も出ちゃったと慌てるというのなら、それは整体操法の立場として操法をやっているのではなくて、現代医学的な知識の延長としてやっている。それでは処が同じで型がきちんと出来ていても、整体操法とは言えない。神経痛の体質を治さないで、痛みだけ止めて神経痛を治したとしても、それは整体ではない。同じ病気を何度も繰り返し、そのたびに治しているなんていうのは、病気を治療する人からいえばいい事であろうが、我々としてはそういう繰り返しがあってはならない。
あくまでも整体操法は体癖の修正なのです。だから整体操法を行う立場というものを我々は、体を耕す、身体を正しくして、身体の力を喚起して、相手の自律性というものをはっきり働かせる、そういう為の技術なのだという、それがはっきりしているなら、そういう場合の一切の戸惑いはないはずです。
整体指導者はどんな病人でも観ます、何もしないで。ところが、素人の人達は、何かしていないと治療しているようなつもりになれない。プロは観ているだけ。それは何故かと言えば、身体のこういう異常は放おっておいて治る、ということを知っているからなのです。どんな人に対しても安閑としているわけではない。心配することもある。こういう体でこういう異常を起したら駄目だ、どう手を尽くしても駄目だということもある。プロは、自分の手に負えないものには手を出さない。出す場合でも、その人の身体の必要な処理だけしかしない。余分なことはしない。
相手が急性病のときに、何もしなくていいように、普段調整する。急性病になったからといって、慌てるなんていうことは、もうそれは、整体操法の立場を知らない。病気は経過するものであって、治すものではない。病気を経過できるような身体を準備する。
こういうことが判れば、一般的に言う病気治療とは全く異なる技術であるということが判るはずである。東洋医学であろうと、西洋医学であろうと、今までの知識の延長として技術をやっても、それは整体操法にはならない。
同じ技術であっても、考えかたが違えば使い方は違ってくる。
病気を治すつもりで操法の技術を使わない。そして相手の体の異常と対立しなければ、その変動に対する冷静な判断が下せるはずです。

胃が痛いと病気だと思う。胃袋は、食べ過ぎてストレスが溜まって、ここがちょっと傷ついたよ、と言っているだけなんです。痛いということは病気ではない。そういう異常で痛みを感じる身体は、むしろ敏感と言える。自分の力で恢復できなくなった頃に初めて痛みを感じだすより、よほど気が利いた身体である。
そうなっても、我々は身体を観ているから、「心配なしに痛がってもいいのだ」「そこが悪いという報せにほかならないのだ」と言って観ていられる。
我々がケロッとして観ていれば、我々を信用している者は、同じように心が安定してくる。我々が不安になって、その不安のあまり、技術を使っていくと、それは整体指導として操法の技術を使っているのではなくて、自分の気持ちの混乱を鎮めるためにあっちこっちいじくるということになる。
病気が重いと訴える病人ほど、日に何回も観ないと不安になる。そうしないと、自分の気持ちが安定しない。自分の気持ちを救済するために何度も観るということになる。そうすることで相手に喜ばれるということもあるが、それは親切でも何でもなくて、自分自身の不安の為に操法しているだけなのである。みんな、先に「怖い」というものがあると、そういう混乱や不安に陥るのです。しかし、体だけを観ていれば、何でもない事である。
みな病気というものにあまりにも首を突っ込み過ぎている。そして余計判らなくなってしまう。
冷静になって、人間の体を健康にしていくためにはどういうことが必要かを観ていれば、必然的にそれが判ってくるはずなんです。そういう立場を身につけていくために、練習会とか講習会とかをやっているわけです。
健康に生きていくためには、どういう体の使い方をすればいいのか、体のどういう変動の時には驚かなければならないのか、変動があっても驚かなくていいのはどういう体の状態の時なのか。そういうことをまず、しっかりと身につけていく。
自分の不安や心配で、相手の体に負荷をかけるようなことはあってはならない。
そして相手に手を出す時機をしっかり掴まえて、はじめて操法を行なうのです。それが操法に於ける嗜みです。

我々が観察するのは体の外側、表面の状態です。体の中を問題にしているのではない。ここに過敏があるからこの内臓に異常があるという類推は可能だし、ボアス圧点によってそういうことは明らかにされているけれども、われわれが問題にしているのはそういうことではなく、体の各部が弛んだか弛まなかったか、完全に弛まない処はどこか、引き締めた時、なお引き締まらないのはどこかということを問題にしている。
あるいは各圧痛点の虚実がどう変化したか、そこにあるのは過敏なのか圧痛なのか弛緩なのか、そこに硬結はあるかないか、それらを観察によって明らかにしていけばいいのです。
練習していく際に大切なことは、相手に対して行気出来るようになること。その為には自分自身に対してまず行気が出来るようになっていなければなりません。
体の異常には、「どうやっても駄目なもの」、「放っておけば治るもの」、「操法すれば治るもの」の三種類しかない。それを見分けられるようになればいい。あとは、相手の恢復速度の問題です。恢復速度の見分けは、脊椎の可動性が正確に区別できないと判らない。

まあ、いずれにしても、次の段階に進むために、ここで述べてきた整体操法するという立場を理解出来るように、興味をもって体を丁寧に観察していくことを何度も繰り返し行ってください。