野口整体を愉しむ(再録56)整体操法の基礎を学ぶⅡ(48)体を弛めるということ

整体操法の基礎を学ぶⅡ(48)体を弛めるということ

「月刊全生」1965.10月号の野口氏の「誕生会」での氏の謝辞には、整体操法の思想の根幹がよく表現されている。野口氏は、整体協会を立ち上げたからには、公共の為に心血を注がなければならないのは十分承知の上で、それでもなお自分は眼の前の一人ひとりに向き合い、そこに自身のすべてを傾注することしか出来ない自分を見つめなおしている。
自分にとっては、大衆とか公共とかいったものはどうでもいい、眼の前の現実にいる一人ひとりに向き合うことしか出来ないのである、と。
これは、野口整体法、とりわけ整体操法の本質に係っている。決して野口氏が謙遜して自らの偏狭さを表現したものでは全くない。野口整体という思想や技術の主戦場は一対一の人間の関係の中で生じる何者かであって、公共とか社会とか共同性といったものが主たる対象にはならない、ということの表明でしかない。
個人が活き活き溌剌と生きることが出来るために、整体操法は何ができるのか。この問いの前では、それらは本質的な意味を持たないのではないか。そのように氏が表現していると、私には読めるのだ。
実際、個人が自然的身体としてのみ生きることなど出来ない。そうした自由を抑圧しているのは、しばしば共同性とか組織とかいったものによっている。人間が共同性のなかで、共同の利益を獲得し、その構成員でその恩恵を共有するために、個人の自由がいくばくか削がれたとしても、それによって個人も組織も生きながらえることが出来るのである以上それは必要なものである。
しかしそのことは、人間が作り上げた共同性やその論理や観念(幻想)という、第二の自然ともいえる環境の中で、様々な歪みを個々人の自然身体に変容を迫る面があるのは事実だろう。もちろん、それを感受するそれぞれの個人的感受性によって、その変容のしかたも百人百様ではある。その一人ひとりに真正面から向き合い、全力を投入して好ましからざる変容があるのなら、それを何とか解消できないものか、そう自らに厳しく問うているのが、野口晴哉その人であったと私には思われる。
そんな思いを抱きながら、講習の記録を続けてみます。

体を弛めるということ
体を弛めるということは、体の快復力を呼び起こす一番大事な条件である。火事や地震の時、思わず重いものを持って飛び出したり、それまでヨボヨボしていた人が俊敏に立ち振る舞ったりするが、それを非常力が出たからだとか、一種のアドレナリン現象だとか言っているが、自分の体に火事や地震が起こった時にだって、同じようにそういう非常力を取り出して処理すればいいわけである。
それを病気になると、寝て棚からぼたもちが落ちてくるような恰好をして、ボーっとしている。非常力を働かすどころではない。それでは普段出せる力まで働かなくしてしまっている。
我々は体力を呼び起こすということをしようとしているわけですから、そういうときにこそ非常力を取り出せる方法を考えなければならない。
そのためには、体中の力を抜いてしまって、弛めきると、その働きが出てくる。
自分で何とかしよう、治そうと知恵を絞って、いろいろ細工している時にはなかなか働かないが、そういう細工をし尽して、ポカンとしているときに、却ってそれが働き出す。
それなら初めからポカンとしていた方がいい。初めから緊張をさせないで、体中を弛めてしまうと非常力が働いてくる。いろんな知識的なわずらいの為に、力を発揮できないということの方が多いのです。
意識を捨ててしまって、無意識に任せきってしまうと、そういう力が出てくる。処が人間は、なかなかそういうことが出来ない、意識を持っているからです。
そこで、意識というものを自分で閉じて、無意識に委ねるというのが一番良い方法で、活元運動などはその良い例である。
活元運動を出そう出そうとすると出ない。ところが体じゅうの力を抜くと出る。欠伸でもくしゃみでも、むしろ体が弛んだ時に出る。
こういうように、体に異常があったら、体の力を抜いて、ポカンとして、体の自然というようなものに任せてしまう。こういうことを、他人が誘導していこうということは難しいが、前回練習した尾骨操法によって肋骨を拡張したり、肋骨内の空気の量を多くすると、頭が弛んできて深く眠るようになる。つまりより弛んでくる。そうすると快復力が誘導されるのです。
東洋には昔から、頭をポカンとさせる積極的な方法として様々な呼吸法があった。息長の術とか、導引法、吐納法、錬丹術、明治に入ってから正坐法とか調和法というものもあるが、これらはみな腹式呼吸法で、これを行なうと血がお腹に集まって、頭は無意識になる。吸い込んで、耐えて吐く。呼吸を深くする。ヨガにも天台の止観にも、お釈迦様の呼吸法もある。みな呼吸を数える方法を行なう。そしてお腹でl呼吸し、呼吸量を深くしていく。それが健康法にもなっていく。
息を長くするということは、お腹に血が集まるということである。お腹に息を吸いこんでいくと、意識が朦朧としてくる。それがこの呼吸の目標である。白隠禅師の夜「遠羅天釜」に書いてあるのも要するに深呼吸法である。
お茶でもお花でも書でもスポーツでも、その秘訣はお腹の力をどう使うかということにある。上手な人はみな、腰が決まっている。
ところで、整体操法に於いて、相手の力を呼び起こす上で、つまり相手の非常力を取り出していくうえで最も大事なものが、腹部操法なのです。
腹部は体力の元である。お腹の操法をすればそれでいい。そうして変化を待つ。特に急な病気の場合には、体自体の力がもう働き出している。どんどん働き出している。吐いたり下痢をしたりと体が正当防衛をして本来の機能を発揮している。その時に、雑念を持ってその働きを妨げることをするよりも、雑念を断ってポカンとしている方が、その働きが増してくる。だからお腹の急性症状の時は、お腹の操法をするだけでどんどん回復してくるのです。これは急性の時でなくても、子供の病気や回復要求の強い人たちの病気やケガで、異常を異常として感じている状態の時には、お腹の呼吸を整えると、どんどん回復していくのである。老人だとそれだけでは難しいが、若い人や体力のある人なら、どんな異常にもこれだけでいい。

腹部操法は、これまで何度もやってきましたね。仰臥で、生命の元である延髄のところに左手を当て、右手を臍の上に当てる。相手が息を吸いこんできたら少し放す。吐いたら押さえていく。相手の吐くより少し余分に吐かせてから手を戻していく。そうすると相手は余分に吸ってくる。そうしたら又吐かせる。また同じように吐かせる、そして吐かせる。
これを二、三回くり返すと、呼吸によって手を押したり緩めたりしているはずが、逆に、こちらの手を放すと相手の呼吸がついてきて、押すと呼吸が逃げていく。そうしながら、だんだん呼吸を深く深く誘導していく。上手に放すことが出来るようになると、相手の抵抗を少しずつ残しながら放すことが出来る。そうしていると、相手の呼吸がだんだんゆっくり吸いこんでくる。
子供の場合はそれだけで十分ですが、大人の場合は、みぞおちに右手を当て、左手は頸を下から受ける。はじめは右手人差指でみぞおちに息を導いていく。みぞおちに息を導いたら、今度はその息をお臍のしたまで持ってくる。手を徐々に反らすように持ってくる。それから臍を中心にやって、それから下腹に持っていく。右手で押す時に、当てた左手で頭を上げたり下げたりすると早く呼吸の誘導ができる。

体の変動を治すための操法の場所は、体中いろいろあるが、それらを突き詰めていくと、全ての技術は腹部操法の一点に集約できると言っていい。
やりかたは簡単なので、触手療法の人でも誰でもやれるが、それを本当に活かして使える人は少ない。腹部操法だけでいい、などとはとても思えなくて、ついいろんな事をしてしまう。特に相手が重病だったり、死にかけているとなおそうなってしまう。そのときに、どんな操法をするかと言えば、腹部操法だけなのです。それ以外何もしない。そうするとみな治っていくのです。

整体操法の中には病気を治すという技術も含まれてはいますが、それは便宜上の方法であって、本当は治すのではない。そうではなくて、治っていく。治っていくように方向づける。それが腹部操法なのです。ところが、余りに簡単なのでかえってやれない。練習しないで、お腹に愉気をしていたら、それで良くなるだろうと思っている。しかし、呼吸の誘導が出来なければ駄目なのです。
相手の呼吸についていって、ちょっと押さえる。そして放すが如くして、ちょっと押さえ押さえして、呼吸を押さえながら深く吸わせていくということは、やってみると大変むずかしいものであることが判る。方法だけ知っている人、方法だけ習った人は、自信が持てない。だからよく練習をすることが必要となる。まず、慢性の人よりも急性の人に使ってみるといい。
幸い操法を受けたいと思って来る人は、病気を治したい人ばかりである。病気を治したいのは何故かというと、病気が苦しいから、辛いからである。なぜ辛いかというと、体が痛いとか痒いとか、下痢をしているとかを感じるからである。何を感じるかというと、異常を感じるのです。だから突然重い病気になる人に比べれば、体はずっといいわけです。そういう人を相手にしている限りは、今言ったやり方でいい。
胸で呼吸をして、お腹に来ないうちは、まだ悪い最中で、肩で息をしているなんていうのは、病気の方が強くなっている。
自信がないと、あっちこっちやって、お腹で呼吸していたものが、押さえたためにもとの胸の呼吸にもどってしまうことになる。それでは、押さえたことが無駄になってしまう。
そこで、まず急性病の人を対象にやってみる。そして自信がついてきたら、いつでもその方法で済ます。最終的にはそこまでいかなくてはいけない。
いま、いろんな方法を練習しているのも、最後には腹部操法だけですべてに対処できるような自信、あるいは心構えというものを作っていくための方法と言えるのです。いろんなテクニックを身につけて、それを使わなくてもいいようにする為に、一生懸命練習をするのです。
お腹の操法というのは簡単な為に自信をもってやれない。簡単なために一生懸命練習しない。いろいろ操法を学んできた人には、そろそろそういう事も判ると思いますが、骨を骨折した、どうするか。分娩が重い、どうするか。今死にかけている、どうするか、そういう場合に、お腹だけで押し通せるようにならなければ本当ではない。押し通せるように準備するために、とりあえず急性病の人、特に子供の急性病の場合にこれをやって、大人に対してもそれが出来るようにしていく。
それが上手にできるようになり、微妙な変化が読めるようになったら、あとはどんな場合においてもそれだけで処理する。
そういうことに慣れるようにするため、もう少しこの腹部の呼吸調整という問題を練習してみたいと思います。

練習
歯が痛いといって、顎の下を押さえるのは一時の方法である。また痛むかもしれない。ところがお腹の操法をしておくと繰り返さないのです。
痙攣する、上頚を押さえて止まる。しかしその後で、お腹の操法をしておかないと、また繰り返す。最終はいつも腹部の問題で、そのやり方は、相手が自然に息を吐いたのよりもう一つ吐かせる。それから放していくと吸ってくる。吸ってくる頭のところでちょい、ちょいと押さえながら、いっぺんに吸ってこないように、うーんと長く吸わせるようにする。吸わせたところで、ちょっと押して堪えさせる。
吸わない吐かない、止める、それから弛めていくと、吐いていく。吐きはじめたら、その吐く速度で押さえていく。強く押さえると止めてしまう。止めないように押さえて行って、普通に吐くのに乗じて、それよりもう一つ深く押さえてしまう。それからまた押さえて、吐かず吸わずという状態をつくってやると、前より深く吸ってくるようになる。大人の場合は、その時ちょっと頭を持ち上げるようにすると、もっと深く吸ってくる。放すともっと深く吐く。頭を持ち上げる時は、相手にそれが気づかれないように上げる、また下げる。頭というのは意外に重いものなので、持ち上げにくい時は、お腹をちょっと押さえるとすぐに上がってくる。右手と左手とがうまく一緒に動くようにすれば、軽く自由に動かすことが出来る。
お腹に呼吸を誘導することに成功すれば、ほとんど何の異常でもこれで治っていく。実際の火事で非常力が出るのは、びっくりして緊張したときであるが、体の中の火事、異常になった時は、その逆で弛緩したときに非常力を取り出せるのです。そういう事が理解出来れば、腹部操法ですべてに対処できるという意味が判ってくると思う。
練習では、慎重を期してやってください。簡単に見えてもそうではありません。
頭を持ち上げる時、相手がそれを意識しないように出来るようになれば、押さえていても愉気がピッタリ行われる。頭が重い時にお腹を押さえる時は、臍の周囲を臍の中心に向けて押さえます。
野口先生にとってこの腹部操法というのは最も得意とするものであったのですが、誰もその真似すらもすることが出来ませんでした。一見簡単に見えるので、それで出来るように思ってしまう人も多くいました。どうか慎重に練習して下さい。
胸での呼吸がみぞおちに移り、さらに下腹で呼吸が行われるようになればいい。そうなるように誘導していく。受ける側は、ポカンとして目をつむって相手にまかせる。
やったあとで、頸が硬くなったり、肩が凝ったりするようならうまくいってなかった。頭がすこしボンヤリしてくるような感じがするくらいがいい。お互いに交替してやりあって、呼吸の変化を確認してください。一度で覚えようとしても無理である。
やっていって、お腹に呼吸が入って来ない場合、お腹のどこかに力の入らない処があります。その内側に固まっているものがある。大体お臍のまわりにあるのですが、そこを一旦緩めてから、もう一度腹部操法をします。
呼吸が入ってくるようになればそれでおしまいです。そのとき、終わってすぐに起き上がらせてしまうと、元に戻ってしまうことがあるので、とどめとして腸骨の角に指を入れて押さえておくと、手を放した後も下腹まで入った呼吸が保たれます。そしてそれが戻らないような体に変わっていきます。
この腸骨の角は、体を若返らせる急所でもあります。
練習の最後に、頸椎二番、上頚の処を押さえて終わります。

この腹部操法は、頭の中の停滞や、頸の停滞を取るのに有効です。特にムチウチ症状のいろんな徴候、どこに後遺症が出るかわからないような時に、それを治すのに最も有効である。これをやっておくと、あとで異常を起こすことはほとんどない。

そのほかにも腹部操法にはいろんなことがある。たとえば、一般の異常の場合でも、お腹で呼吸できないうちは、たとえ症状の兆候がなくなっても、治ったとは言えない。呼吸が出来るようになると、今は痛くても四、五日経つとすっかりおさまってくる。それを今何とか早く無くそうと、その兆候がなくなるまで押さえようとするのはいけない。急いではいけない。操法は間をおくことも大事です。十日とか一週間の間隔をあけます。その逆に、間を開けることだけ覚えていると効果が出せなかったり、こわすこともあります。今日練習でやった方法の要点を会得できれば、その調整も出来るようになります。
今日やった腹部での呼吸を深くする方法は、誰がやっても間違いなく効果が得られます。だから積極的に練習して下さい。
やって呼吸が深くならない場合の理由に、相手の頭の中で何らかのこだわりがある場合がある。それも、お腹の操法を上手に行なうとフッと抜くことが出来るようになる。
頭の中のこだわりを、話しかけで、言葉によって行うべきだという人があるが、それは言葉の過信です。お腹を見ていれば、こだわりがある場合にはかならずどこかに固まりが見つけられる。何らかの不安、イライラ、病気に対する焦りといったものが、その固まりを弛めるとなくなってくる。呼吸がフッと入ってきて弛めば、焦りなどを忘れているのです。言葉で焦りなさんな、といって無くなるものではない。
焦ったりイライラしたりというような心の動きは、みな無意識の動作と言えるもので、それに対して愉気をして体を弛めると、おさまってくる。そういう無意識的な心の動きと、腹部の状態とは非常に関連が深い。そういうことを知ってお腹を観察していくと、腹部操法を一種の心理指導の求心的な方法として活用することもできる。特に子供などに対しては、そのことがよくわかってきます。
もちろん、自分のお腹でも、イライラしたり焦っている時、硬い処がある。それをジッと押さえていると落ちついてくる。それと同じで、相手の体の変化の裡にある、無意識のこころの動きにも関心を持って、丁寧に観察し、愉気していくようにしてください。
今日の講義をこれで終わります。