野口父子の対話(18)

 裕之氏の世界を理解出来るようになるために私に欠けているものは、身体の内側に深く分け入っていくことだろう。そしてそのための前提として、いわゆる客観的身体といわれる生理的、物理的身体構造の理解もまた必要だと思える、

 裕之氏の言説に照らして自分を顧みれば、私には内観的身体のみならず客観的身体についてもあまりにも無知であることを思い知らされる。

 たとえば裕之氏の言説には、しばしば日本の伝統武術についてのものもみられるが、私にとっての武道と呼べるものは、二十代後半に二年間ほど習った少林寺拳法ぐらいのものである。合気道については、思想家の内田樹氏の武道論を介して読み物として接してきた程度で、実際に学んだことはなかったし、習ってみたいと思ったこともなかった。

 ところが、この半年ほど、いろんな機会に合気道について目にすることが多くなり、youtubeでいろいろ検索していく過程で、塩田将大氏や岡本眞氏のチャンネルに出会い、合気道合気柔術に強く惹かれるようになった。

 特に岡本氏のチャンネルには、彼が合気(合気柔術)という世界について極めて簡明に、客観的言語を駆使して、その秘伝とされる不思議な世界について丁寧に説明されていて、他の合気関連の動画に多く見られる、投げたり飛ばしたりすることが中心のものにはない強い魅力が感じられる。

 懐手して文字面ばかり追っかけていた私にとって、そうした岡本眞氏のyoutubeチャンネルは、かなりの衝撃であった。そして河野智聖氏や他の整体指導者が、合気道に打ち込んでいる事の一端をも思い知らされた気がした。

 河野氏によると、野口晴哉氏が合気道の始祖植芝盛平氏と何らかの交流があったということや、整体協会フランス支部の津田逸夫氏が、植芝盛平氏と合気道での交流があったということを話されていたが、興味をそそられる。

 『季刊全生』(1970早春号)の津田逸夫氏(エールフランス航空)の「植芝翁を悼む」(117)には、次のような二人の間柄を特徴づける対話内容が語られている。 

 私は整体操法で気の問題を齧っていたから、その意味で興味があった、気、呼吸、空想の面で、大変教えて頂いた。合気道は結んで放つことだと再三いわれた。これと呼吸がどういう関連にあるか、僕自身でいろいろ実験してみた。簡単に言うと次のようである。

 結ぶというのは我と彼が合体することである。互いに無関心でつっ立っている限り、結びはない。相手が我に関心を持ち、行動を起こす時、結びがある。整体操法でいえば礼といえるだろう。結ばれた時、相手の気を導いて、放つ所まで運んで行く。そこで彼は我から離れる。相手が打ってくるのを待っているのではない。こちらから進んで迎えに行くのですともいわれた。

 迎えに行くために、僕は仙椎で気を吸うよう実験を重ねた。これは現在中々面白い効果が上がっている。他の処で吸っても何も起らないのに、仙椎で吸うと、相手はフッと体が浮いて眼に見えぬ糸で引きよせられるように寄ってくる。後は導いて吐き、放つだけである。とばされた相手は不思議だと頭をかしげているが、気の研究をしていれば、別に大して不思議でもない筈である。

両手の働きは頭、両脚の働きは腰にあるといわれた。仙椎の他に、延髄を中心にする上頸も気を吸うポイントであると思われる。翁の言霊(ことだま)の話が始まると、皆閉口しているようであった。何の話だか見当もつきかねる様子であった。判ろうが判るまいが頓着なしにイキナリ出てくる話なので、面くらってしまうのである。

 だが、コトダマの中心はスの声、スのヒビキであると思う。これは気の発端の響であろう。

 翁の時間空間に関する考えこそは最も興味のあるものであった。この中に魄の武道から魂の武道に発展した翁の思想の根柢がある。翁亡き後、こんな話をする人はもう再び出てこないような気がする。だが幸いに僕は直接に聞い一人であり、これは僕の中に醗酵を続けるであろう・・・

 

 私が岡本氏や津田氏の言説に強く惹かれるのは、そこに<気>による自己と他者との結び、言い換えると真に他者に<触れる>とはどういう事態か、ということについて示唆していると思えるからにほかならない。

 津田氏は早々に<気を結ぶ>と表現し、一方の岡本氏は極力<気>と表現することを抑制しながら、自己の身体が他者の身体と一体化し(つまり合気が掛かった状態となり、自己と他者が一つの構造体としてバランスをとり、ミラーリングが生じている状態)てはじめて、相手を自分の意識によって崩したり放ったり出来るようになる、と述べている。

 本来不安定な二本足で<立つ>という人間的行為が、自分以外の他者と<触れ合い>一体化して、二人で四本足の構造として相互に依存しながらバランスをとろうとすることによって、合気の前提が生じてくる。だから自分が一本足で立とうと試みた瞬間に、一体化したその構造の安定性が崩れ、新たな安定を実現しようとして相手の状態が変化し崩れてしまう。そうした流動的構造に持ち込むことが、合気道の基礎となっている、と岡本氏は説明している。

 また、実際そういう状態を映像で示唆しているわけです。そして、この状態さえ獲得できれば、自分の裡の物理的な<力>だけでなく、摩訶不思議な働きとされる<気>も、自分の意識の赴くままに移動させることが出来、相手に浸透させていくことも可能となることを、さまざまな動画によって伝えようとしているわけです。

 

 裕之氏の内観的身体論が、こうした合気道の理合と関係があるのか、関係がないのかは私には分からないけれども、岡本氏が示唆する<合気>の理合が、<気>という世界の一つの表現方法として考えることは可能だと私には思われる。また、どこまでが客観的身体であり、どこからが内的身体かという便宜的な区分があって初めて、一律に<気>と表現されて全てがバーチャルなものとしてリアルを見失ってしまう苦しさからも少しは解放されるのではないか、と強く思わずにはいられないのである。

 

参考(岡本氏のホームページより引用)

 合気の定義は流派、会派によって様々であり、明確な定義がない。それは惣角が自分がやれる不思議な現象を全て「合気」の一言でくくり、それらを引き継いだ高弟たちがそれぞれ勝手に語ってきたことに由来する。 とは言え、逆に言えば見ても理由の分からない現象でないと「合気」の名に値するものでなく、いわゆる「合気上げ」の中でも単純に相手を持ち上げたりすることや、見れば理屈がわかるようなものは違うということになる。 他方、いわゆる「触れ合気」と言われるものにも、柔術由来のものと、合気の術由来のものがあるが、どちらも見ただけでは原理は分からない。 普通、触れ合気をかけるには、相手に手首を持たせた状態からかけるが、実践の場において手首を掴まれる状況はあまりに考えにくい。手首を掴まれないと掛けられないでは、何の役にも立たない。

  私のユーチューブを見ていただければわかるように、合気の意味が分かっていれば、自分の指が相手に触れただけでも掛けられるし、もっと言えばどこかが相手に触れていれば、また相手の着衣をつまむだけでも掛けられるのである。 

 そこで「合気」が掛かった状態とはどのようなものを言うのか。それは相互の「重心の共有」「軸の同調」「動きのミラーリング」とでも言う状態が成立していることが最低条件である。それらがない状態は、とても合気が掛かっているというレベルに達していない。 

 どうやればそのような状態になるのか。ひとつのキーワードは「脱力」であり、もう一つは「瞬時のシンクロ」である。 「脱力」もまた、定義が曖昧の状態であるが、単純に言えば「筋力」を使わず「靭帯や腱」だけでエネルギーを出す技術を言う。よく「力を抜け」という指導者はいるが、何の力を抜くのかという明確な指示ではないため、単純にエネルギーを出さないことと勘違いをし、何もできないという当たり前の結果になる。

 相手に何らかの効果を与えるためには、最低限のエネルギーは必要であるが、そのエネルギーを筋力で発生させると、相手の下位脳はそれを「攻撃」と解釈するので、防御か反撃行動に出て、「同調」という現象は起きない。

 逆に靭帯や腱のエネルギーを感じるだけだと、相手は筋肉の収縮の予備動作と捉え、次の筋肉の発するエネルギーに対処するために、下位脳が「いわば聞き耳を立てている」ような状態になり、同調が始まるのである。

 しかし、ただ同調が始まっただけでは不十分である。それにより重心や軸が「共有・同調」し続けることが必要であるが、そのためには立っている状態や体幹を維持する深層筋群のパワーダウンが必要となる。それにより相互が「お互いに支えあう」関係を作り、身体力学的には無理のある「二足歩行」状態から「四足」状態に移行し、そのままそれを維持しようとする無意識の「もたれ合い」構造を作ることになる。

 それを可能にするのが自分の身体を「溺れる者は藁をも掴む」状態にすることで、このために「立つことをやめる」脱力(と言うよりは消力)の技術の稽古が必要である。 つまり合気の技術とは、筋力の否定と、瞬時に相手の重心や軸と同調する技術ということになる。 そして、そのための接触技術が「手の内」の技術であり、それは剣術の基礎である「刀の持ち方」なのである。ぐい呑みの手」「朝顔の手」「猫の手」など、大東流には手の内に関する口伝がたくさんあるが、それは茶道の「茶巾絞り」に通ずる、手掌腱膜の高度な使い方である。

 その使い方を覚えれば、それを関節や腰などの身体の各所に転写し、どこでも合気が掛かる状態を作れるようになるのである。