日常 2023/04・13

 桜が散り、孫の入園式も済んで、私は近隣の大学図書館の貸し出しカードを作成して、学生の殆どいない静かな書庫をゆっくり見て回った。さすがに曹洞宗系の大学だけあって、他の図書館では手にすることの出来ない仏教書が所狭しと並んでいる。貸し出しは図書のみ、三冊、二週間ということで、早速お借りしてきた。

 

 『ブッダとは誰か』高尾利数著 柏書房

 『仏教は宇宙をどう見たか アビダルマ仏教の科学的世界観』佐々木閑著 化学同人

 『三人のブッダ立川武蔵著 春秋社

 

 かなり前のことになるが、エリアーデの『ヨーガ』を翻訳された立川先生を名大の研究室にお尋ねして少しお話を伺ったことがあり、それ以降先生の書かれたご著書には時々目を通してきたが、この本の事は存じ上げなかった。

 本書は、武蔵氏の歴史的仏教理解の総括と言えるもので、空の思想を核として、釈迦、阿弥陀仏、そして大日如来三者の思想を統一的にとらえ、現代の諸課題に真正面から向き合うという立場を宣言したものとなっている。そしてその立場の中核にあるのが、三人のブッダが説き示してきた「否定の手」です。

 つまり、特にこの二、三世紀我がまま、欲するがまま他を顧みることなく突き進んできた末の人類の危機に対して、「欲望の抑制」という否定の方法を手に、ラジカルに、根本的にそして地道に努力することによってでなければ、<生命本来が持つ生き延びようとする志>を実現することはできないのではないか、と問いかけています。

 

 

あるがままの自然と生命(2)

 森田真生氏の岡潔の<情緒>観について、もう少し『数学する身体』(新潮社)から引用してみたい。

岡潔が「情緒」という言葉を好んで使った背景にはそれなりの理由があった。心には本来、「彩りや輝きや動き」がある。ところが、「心」という言葉はあまりにも使い古されてしまっていて、そのままでは「何だか墨絵のような感じ」を受ける。そこで、心の彩りや輝き、動きをもっと直截に喚起する言葉として「情緒」という表現を使うのだと、エッセイに中で繰り返し説明している。

「情緒」は「情」の「緒(いとぐち)」と書く。「情」と書いて「こころ」と読ませることもあるが、「情」という日本語には独特のニュアンスがある。

情が移る、情が湧く、あるいは情が通い合う。情はいとも容易く「私」の手元を離れてしまう。「私(ego)」に固着した「心(mind)」とは違い、それは自在に、自他の壁をすり抜けていく。

 しかも環境の至るところに「情」の動きの契機となる「緒」がある。そんな「情」と「緒」との連関としての「情緒」を、日本人は歌や句の中に詠み込んできた。

 

 うちなびく春来るらし山の際の遠き木ぬれの咲き行く見れば

 

遠くの山に、桜がぱあっと咲いている。すると、その姿がそのまま自分の喜びになる。花の咲く姿を「緒」として、人の「情」が動き出す。

「情」と「情緒」の表現で言えば、岡はある時期からこれを、意識的に使い分けるようになる。一口に「情」と言っても様々なスケールがあって、「大宇宙としての情」もあれば「森羅万象の一つ一つの情」もあるというのだ。それを使い分けるために岡は、前者を「情」と言って、後者を「情緒」と呼び分けるようになる。

 自他の間を行き交う「情」が、個々の人や物の上に宿ったとき、それが「情緒」となるというのである。

「情」や「情緒」という言葉を中心に据えて数学や学問を語り直すことで、岡潔は脳や身体という窮屈な場所から、「心」を解放していこうとした。情の融通を礙(さまたげ)る一切のものを取り払い、自他を分かつ「内外二重の窓」を開け放って、大きな心に「清冷の外気」を呼び込もうとした。

 岡潔は確かに偉大な数学者であったが、生み出そうとしていたのは数学以上の何かである。彼は数学を通して心の世界の広さを知った。心の広がり、彩り、自由闊達な動きのあることを知った。そうして狭いところに閉じ込められた心を、もっとはるかに広い場所へと解き放っていこうとしたのである。

 森田はこうした岡潔の言葉や思考方法の基礎となったとされる、芭蕉道元の言葉を引きながら、人間が根源的な問い、つまり「自然があるとはどういうことか」、「1とは何か」、「自分とは何か」という根源的な問いに向き合うにはどうしたらよいか、どう心を用いればよいかを、岡の言葉から導き出そうとする。

 

数学において人は、主客二分したまま対象に関心を寄せるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ。

「なりきること」が肝心である。これこそ岡が道元芭蕉から継承した「方法」だからだ。芭蕉が「松のことは松に習え」と言い、習うというのは「物に入」ることだと言ったのも、これである。

 道元禅師は次のような歌を詠んでいる。

 

 聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水 

 

外で雨が降っている。禅師は自分を忘れて、その雨水の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識にのぼらない。ところがあるとき、ふと我に返る。その刹那、「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが本当の「わかる」という経験である。岡は好んでこの歌を引きながら、そのように解説をする。

自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。これが岡が道元芭蕉から継承し、数学において実践した方法である。

 なぜそんなことができるのか。それは自他を超えて、通い合う情があるからだ。人は理でわかるばかりでなく、情を通わせ合ってわかることができる。他(ひと)の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。

ところが現代社会はことさらに「自我」を前面に押し出して、「理解(理で解る)」ということばかりを教える。自他通い合う情を分断し、「私(ego)」に閉じたmindが、さも心のすべてであるかのように信じている。情の融通が断ち切られ、わかるはずのこともわからなくなった。

 そうしたすべての根本にあるのが、「自我」と「物質」を中心に据える現代の人間観であり宇宙観である、と岡は考えた。

 森田の上記の解説によって、岡潔の言う「情緒」の内容が、私にはとてもよくわかるようになったと言える。そしてこれ以上今の私に何か付け加えるべきものを何も持ち合わせていないので今日はこれで終わります。

 

 

  

日常 2023/02・20

 月日の流れが速くて、気づけばもう二月も十日程を残すばかり。前回のブログからはや一月。

 この速さの感じの源は、毎日お昼ごろにやってきて、夜九時ごろま遊んでから帰っていく三歳半になる孫との時間が大きいと思える。著しい成長・変化の只中にいる彼は、天真爛漫かつ傍若無人で、疲れ果てて寝転がる<爺じ>を、何とか引き起こそうと画策する。妻は、時にする私の嫌そうな、鬱陶しがるような冷たい孫への素振りを見つけると、立ちどころに私を見咎めてくる。すぐに後悔するが、あとの祭り。

反省、反省の日々とも言える。

でもそんな日々が、たとえ様もなく愉しくもある。

 

そんな日常のなか、「野口父子の対話」をどう進めようかと悩んだり、裕之氏の内観を私なりに試してみたり、図書館で借りてきた岡潔氏の「春宵十話」を読んで氏の言う<情緒>に思いを巡らしたり、量子物理学や宇宙の有様を仏教哲理と結びつける空想をしてみたり、薬師寺寛邦氏のネット動画「般若心経」のいろんなバージョンを観たり、手元にある仏教の<空>の意味を探索したり、YouTubeの安富歩氏や佐藤章氏の講義を聞いたり、養老孟子氏や内田樹氏、あるいは吉本隆明氏の講演動画を観たり。

そして気分転換に自転車に乗って遠出。お釈迦様の真骨が眠る舎利殿にお参りに行き、帰り道の紅茶専門店でチャイとアールグレーを買ったり、近くのいろんなスーパーマーケットで買い物をしたり、書店に立ち寄ったり、お昼だと大好きな、ニラがらしと擦りおろしニンニク入りの濃厚とんこつラーメン、ライスとお新香つきを食べたり、月に一、二回のぺースで娘家族のために、私が妻の実家から習い覚えた中国人直伝の<手作り水餃子>を振舞ったり。

iPadを片手に孫や娘のために電動ミシンを四六時中操っている妻を横目に、ネットの囲碁対戦に夢中になってみたり、はたまたウクライナやコロナの問題のことなどを考えたりと、せわしくとりとめがない。

これが私のありふれた日常です。

 そして不夜城かと思えるほど一日中エアコンと電灯の消える時がない我家です。案の定、電気料金の請求書をみてびっくり。

あるがままの自然と生命

迎春。

 暮れからお正月、そして今日まで、野口整体をめぐっていろんなことを考えたり、本を読んだり、孫と遊んだり、久しぶりに帰ってきた息子と話し合ったりと、あっという間に豊かな三週間が経った。

 その間に読んだ本のなかで、森田真生(まさお)氏の『数学する身体』(新潮社)は特に印象深かった。

 それは森田氏が、数学という、人間の身体からはほとんど疎遠ともみえる領域に沈潜し、氏が師と仰ぎ見る岡潔(おかきよし)氏を媒介として、ありのままの自然との間に、見事な架橋を、その卓越した文章力によって、実現していると思えるからだ。つまり最高に純粋なロゴスとしての数学が、最後にはありのままの自然(ピュシス)を引き寄せてしまう、その面白さによっている。

 これを私なりの言い方にしてみると、<心的世界をその極北まで追い詰めていくと、その先から、あるがままの自然と、そこに現象する生命(岡氏や森田氏の言う「情緒」)の世界が否応なく滲み出てきてしまう>ということになる。

 森田氏はこの著書の最終章で<情緒>について次のように言う。

「岡は心を論じるときに、野菜の皮より、種子を語った。種子は育ち、大きくなる。その変容する力に種子の生命がある。玉ねぎを生んだ種子。その種子を包み込む土壌。玉ねぎの本質はその空間的「中心」よりも、むしろその外、その過去の方にある。心の外。心の過去。物理的な肉体の中に閉じ込められない、心の本来の広がりを取り戻そうと、岡は「情緒」という言葉に、新たな意味を吹き込もうとした」と。

 

 岡氏や森田氏の言う<情緒>の内容については、今後私なりに探求していきたいと思うが、<身体や生命そのものへの理解>という古くて新しい課題に、これまで何人もの多くの古今東西の先達が挑み逡巡し、言葉にしようとしてきた歴史と、しかしなおそれを果たしえていないという隔たりのなかで、諦めずに向き合い続ける姿に、ある種の美しさを感じざるを得ない。

 

 

「月刊全生」の目次散歩(24)

「月刊全生」1968.7(通巻第53号)

全生訓

体癖修正法講座

 原色と混合色―ひとりの人の中にある二つ以上の体癖

  二種・五種の混合型

  混合型の指導法

  混合型の観察―体の格好・顔の形・生理的な傾向

アジスアベバ便り(木下正文)

 捻れと珍種

生命だけが生命を守る―如是我聞整体講習―(星野武男)

ローマの休日(津田逸夫)

A.C.S. SPORTS大会

整体学会

 緊張動作と弛緩動作における体量配分移動の分析(宝田隆吉)

 体量配分の長期測定による研究 月経前後の体量配分と体癖(堅田修弘)

 捻り動作の体量配分移動分析(柳田利昭)

 A.C.S.研究部 

  文字と体癖

  運動と体癖

  幼児の比較観察記録

  文学と体癖(ハムレット

 

 

 

 

 

「月刊全生」の目次散歩(23)

「月刊全生」1968.6(通巻第52号)

無題(人間を内側から見る)

体癖修正法講座 

 家族の体癖―接着剤の役割をする二種

 二人以上の体癖の組合せ 一・二種と三種の場合

 組合せの要点は体癖的感受性

 立派な言葉に酔う一・二種、整理の出来ない三種

 二種の感受性特性ー八方美人

 集団を指導するとき無視できない二種体癖の人

 二種の気を抜く方法

 個人の感受性と集団の感受性

理念と感応(津田逸夫)

誌上討論会

 「整体」と私たち (折田朝子)

潜在意識教育講座

 閉じこもったお嬢さん(野口晴哉

 家人とは口をきかない高校生(野口晴哉

西班牙バルセロナにて(真峰克己)

演奏の身体運動論 その三(柳田利昭)

活元会のある日(羽山和江)

 

 

「月刊全生」の目次散歩(22)

「月刊全生」1968.5(通巻第51号)

二人で組んで行う活元運動―活元相互運動―

  環境と体の変化

  意識の学問と意識以前の知恵(*1)

  相互運動とは

  相互運動のやり方

  天心で行うこと

  反応について

人間の本質に迫る整体学(星野武男)

A.C.S.一周年記念パーティー

体量配分表の見方(野口晴哉

活元会 東京一組(津田逸夫)

 

(*1)・・知識はまだ生命を左右するほど進んではいないが、人間の中にある生命の知恵ともいうべきものは、体を完全に健康な状態に保つような働きをもっているし、毀れた時にも、どのように対処したらいいかを知っている。