あるがままの自然と生命

迎春。

 暮れからお正月、そして今日まで、野口整体をめぐっていろんなことを考えたり、本を読んだり、孫と遊んだり、久しぶりに帰ってきた息子と話し合ったりと、あっという間に豊かな三週間が経った。

 その間に読んだ本のなかで、森田真生(まさお)氏の『数学する身体』(新潮社)は特に印象深かった。

 それは森田氏が、数学という、人間の身体からはほとんど疎遠ともみえる領域に沈潜し、氏が師と仰ぎ見る岡潔(おかきよし)氏を媒介として、ありのままの自然との間に、見事な架橋を、その卓越した文章力によって、実現していると思えるからだ。つまり最高に純粋なロゴスとしての数学が、最後にはありのままの自然(ピュシス)を引き寄せてしまう、その面白さによっている。

 これを私なりの言い方にしてみると、<心的世界をその極北まで追い詰めていくと、その先から、あるがままの自然と、そこに現象する生命(岡氏や森田氏の言う「情緒」)の世界が否応なく滲み出てきてしまう>ということになる。

 森田氏はこの著書の最終章で<情緒>について次のように言う。

「岡は心を論じるときに、野菜の皮より、種子を語った。種子は育ち、大きくなる。その変容する力に種子の生命がある。玉ねぎを生んだ種子。その種子を包み込む土壌。玉ねぎの本質はその空間的「中心」よりも、むしろその外、その過去の方にある。心の外。心の過去。物理的な肉体の中に閉じ込められない、心の本来の広がりを取り戻そうと、岡は「情緒」という言葉に、新たな意味を吹き込もうとした」と。

 

 岡氏や森田氏の言う<情緒>の内容については、今後私なりに探求していきたいと思うが、<身体や生命そのものへの理解>という古くて新しい課題に、これまで何人もの多くの古今東西の先達が挑み逡巡し、言葉にしようとしてきた歴史と、しかしなおそれを果たしえていないという隔たりのなかで、諦めずに向き合い続ける姿に、ある種の美しさを感じざるを得ない。