「月刊全生」の目次散歩(21)

「月刊全生」1968.3(通巻第49号)

出発点は体の調子

潜在意識教育 質問に答えて 思春期の問題

 思春期 第二の独立期

 恋愛の時期 思春期の次にくるもの

 嫁と姑の関係 お化粧する知恵を

整体協会の在り方

 体癖を看板とせず(古川英吉)

 セイタイ・フランスと整体協会の在り方(鈴木さく)

捻れ型

 排尿・強情・行動力

パリのサムライ(津田逸夫)

演奏の身体運動論(柳田利昭)

 

*入会者に石川達三の名がみえる。

「月刊全生」の目次散歩(19)~(20)

「月刊全生」の目次散歩(19)

「月刊全生」1968.1(通巻第47号)

根深くして葉繁る

体力とは何か

人体の左右のアンバランス

我家の父と母(真峰克己)

体癖(癖探会)

誌上討論会 整体協会の在り方

わが心の風土 カザルスの音楽この道〟を磨いて

中心と全体(津田逸夫)

 

 

「月刊全生」の目次散歩(20)

「月刊全生」1968.2(通巻第48号)

自分が変れば世界は変る

整体操法初等講座 

 生活している人間

・・・ 生活している人間というものを全然見ないで、異常があればすべて肉体の病気だと思っている・・・(しかし)生き、そして生活しているのが人間なのです・・・だから生活しているということを抜いて、生きている機能をみているだけではどうしようもない。私たちの観察の視野というものをもっと拡げなければ、生活している人間を見ることは出来ない。人間は意識によって動くだけでなく、すべて感情を通して動いているからです。

 体に現れる生活の変化

・・・三側にはその人の生活もっとも敏感に反映しています。たとえば腰椎6番の三側が硬くなっていたら胃袋が働かない状態、また不愉快なこともあったな、というようにすぐ判ります。気のとがめるようなことをやるときには胸椎8番の三側が硬くなっているし、大胆な事を言っても胸椎の三番が硬直していれば不安がある。そういう感情の僅かな動きも三側には敏感に反映しているのです。だから当人の気づかない生活事情をとらえるにも三側の観察は非常に重要になってくる。

 そしてその感情を、彼ははたして頭ではどのように感じているのだろうかとか、彼の頭の働く速度はどうなっているだろうかとか、ということについては一側でみます。

一側の硬直状態で彼の頭の働き具合を見るのです。行き過ぎがあるとか、反対に頭が働かないとかを観て、それに三則の観察をプラスしてその人の生活状態を観察するということを行います。

・・・生活している人間の状況観察には三則と一側の観察は不可欠で、特に三則は感情状態が素直に反映しています。・・・

セイタイ・フランス発足(津田逸夫)

アジス便り(木下正文)

現代人にふさわしい自己創造の哲学(星野武男)

A.C.S. Christmas party

討論会 今後の整体協会の在り方

誌上討論会 整体協会の在り方(柳田利昭、佐藤佑治、中部左内)

 

 

 

 

「月刊全生」の目次散歩(14)~(18)

「月刊全生」の目次散歩(14)1967.6(通巻40号)

 

A.C.S.特集号

体癖修正

潜在意識教育 意識以前にある自分

A.C.S. family party

katsugen undo a go-go

野口先生にエレキダンスの感想を聞く

親と子の体癖

色と体癖

A.C.S. だより

A.C.S.記録帳から

 

「月刊全生」の目次散歩(15)1967.7(通巻41号)

病気で寝ている人の為に

体癖修正

整体学会 連想と体癖

体癖オリンピック

十一種・十二種体癖

整体操法中等講習会(星野武男)

整体学会

 

 

「月刊全生」の目次散歩(16)1967.9.(通巻43号)

 

背骨で呼吸せよ

活元運動の体験

二次動作の観察

我家の体癖(星野弥栄子)

関西体癖研究グループの報告

潜在意識教育 

 己れに背くもの

 質問に答えて 希望と要求の違い 離乳期の問題

科学は正確に非ず 故に科学は存在す(津田逸夫)

 

*入会名簿に臼井吉見氏の名がみえる。

 

「月刊全生」の目次散歩(17)1967.10(通巻44号)

 

血は水よりも濃いか

ムチウチ症と被害者心理

お祝いと感謝の会(星野武男)

討論会 サマンサとダーリンの体癖

セイタイ・フランスへの努力(津田逸夫)

活元操法について

 

*入会名簿に土門拳氏の名前が見える。

 

「月刊全生」の目次散歩(18)  1967.12(通巻46号)

錯覚を正せ

潜在意識教育 あべこべの健康教育

質問に答えて

静かなアメリカ人

第18回 日本体育学会に出席して(柳田利昭)

体量配分表の見方

家族の体癖(木下政子)

学問の年輪(星野武男)

 

 

 

 

 

 

野口父子の対話(16)

裕之氏の内観的身体の研究は、触れがたい他者の身体にいかにすれば真に触れることが可能となるかを追求する、実践的かつ野心的な試みであると言える。

整体操法という一対一の人間が出会う場で、<直(じか)に>相手と触れあうということが、いかに困難なことであるかは、少しばかり整体操法をかじったに過ぎない私にも容易に想像できる。

整体操法という場においては、そのことが決定的な課題となるのは明らかだと思うが、私たちの日常生活の場においても、本当はとても重要な課題であるはずである。

じかに相手と向き合い、じかに相手を理解し、互いに共感しあうことができれば、それほど素敵なことはない。

しかし実際には、自分にも相手にも互いに見えない防御の壁が幾重にも重なりあっているために、そのような至福の時間を容易に手にすることが出来ない。

このことは、対象が人間であっても動物や植物や自然や宇宙であっても、基本的には同じで、私たち人間が意識をもち、様々な観念や幻想を行使して対象に対峙しようとする限り、ある意味で必然の事である。

言い換えると、私たちは自己が持ち至った固定観念のフィルターを通して対象を知覚し理解することに慣れ親しんでしまっているからだ。

だから<じかに>対象に触れ、<じかに>対象を感受するという行為が、日常生活のうえでは極めて稀にしか訪れない。

ヴァーチャルな世界が、リアルな現実を幾重にも覆い隠し、そのことでリアルな現実はここに来て再生困難な状況さえ呈しはじめている。

百年前のパンデミックも、百年前の戦争も、過ぎ去りし話しとして終焉してしまったのでないことは、日々のニュースが伝えている。

つまり人類は膨大な知を蓄え、自由と民主主義を標榜し、多くの富や幸福を手にした優れた存在になり得たと言えるとともに、しかし未だに多くの無知と飢餓と暴力と疫病という不幸をも併せ持つ哀しき現実世界のなかに同時に生きているわけである。

人間とは何か、人間いかに生きるべきか。自然とはなにか、いかに自然と共存していくべきか。そのためにどのような社会を構築していけばいいのか。

崇高かつ愚かな人間の歴史は、何度も何度もこれらの問いに引き戻され、そのつどさまざまな答えを見出しながら歩き続けている。

ひとりの人間においても、この崇高さと愚かさは常に併存しており、たいした存在でありつつ愚かしい存在でもあることから殆どの人間は免れることができない。

自らを他より優れたものとし、他者は教え諭すべき愚かなものであると自分勝手に枠づけし、他者への想像力を見失ってしまったとき、私たちから<寛容さ>が失われるのだろう。<寛容さ>を失った世界や社会のなかでは、伸びやかに歌ったり踊ったり、笑ったり、深々と呼吸したりが難しくなってしまう。そんな息苦しく窮屈な毎日が現実のものとなっているのに、私たちの多くは、そうした上から目線でべしべからずばかり言う強権的存在を怖れ、忖度し、自らを防御するためと信じて口ごもりがちとなり、うつむきかげんとなって現実から逃避する。

地球環境の悪化、パンデミックや世界的貧困、格差の拡大、寛容さの減衰、想像力の枯渇などの今日的困難さを前に、これからわれわれ人類はどのような方途を導き出していくのだろうか。

 

私には到底その正解を持ち得そうにないのだが、たとえ途方もなく遠い道筋を辿らざるを得ないとしても、まず私の身体や目の前の他者の身体、身体を取り巻く自然環境に<じかに>向き合い、<じかに>触れ合ってみることからしか前に進むことはできないのではないかとは思える。そのとき、私や私たちの身体は、意識によってはまだとらえきれていない無限の可能性を語り始めるに違いないと思えてならない。

だから裕之氏の<内観>という方法も、晴哉氏の<気>による整体操法という方法も、私たちがまだ気づき得ていない私たちだれもが秘め抱いている無限の可能性への貴重な道しるべであることは確かだと思えるのだ。

 

 

 

 

野口父子の対話(15)

心とは何だろう。私たちは心的現象について、あるときは<心>と呼び、またあるときは<精神>と呼び、<意識>と呼ぶが、私の中ではこれらの言葉に明確な区別はなくかなり曖昧なまま使っていることが多い。

今日このブログで取り上げようと思うのは、解剖学者三木成夫(しげお)氏の『内臓のはたらきと子どものこころ』(築地書館)と『胎児の世界ー人類の生命記憶』(中公新書)の二冊だが、三木氏はこのブログの冒頭で私が書いた、私の抱いてきた疑問にたいして、大きな示唆を与えてくれるものだと思える。そして、できれば裕之氏の内観的身体を私なりに考え理解していく手掛かりの一つにでもなればとも思う。

 

結論から言えば、三木氏は<こころ>とは「内臓感覚」を土台に生じるもの、ということになる。以下に詳しく追ってみる。

 

三木氏はまず、人間の手足や脳とともにからだの外側を造っている部分を「体壁系」と呼び、からだの内側に文字通り内臓された部分を「内臓系」と呼んで両者を区別する。

次にこの「内臓感覚」について膀胱感覚、口腔感覚、そして胃袋感覚の三者を例に具体的な<こころ>の発生について語っていく。

膀胱は直腸と共に、中身が詰まると収縮する。この感覚は尿意・便意となって意識に上るが、おしめのとれた幼児たちは、それを自分で覚えるまでに失敗を積み重ねてゆく。この中身の刺激による内臓筋の収縮は、内臓感覚の一方の柱をつくるが、これを素直に受けとめる感受性は、この時に養われる。・・・

ふつう内臓は物が詰まってきて、それがあるところまでくると、グッと収縮する。たまればたまるほど、この内圧に対する‘’逆圧‘’が増してくるわけです。それでだんだん充満して、だんだん逆圧が強くなる。このプロセスが、いわゆる「不快」といわれる状態です。これに輪をかけるのが括約筋ですね。この括約筋が収縮しているものですから、出ていかない。こうして、その極限にきたときに、括約筋がホッとゆるむ。この緊張がとれていくプロセスが「快」の状態です。

この快・不快の内臓感覚は、唇や舌の口腔感覚においても同じで、これら顔の尖端部の構造は、食べ物を選別する精巧無比の触覚となっている。この機能は乳児期の正常な哺乳によって日々訓練されてゆき、全てを舐めまわしながら、将来の『知覚』の成立に備えていく。

乳児に母親の乳房を吸わせ続けることによって、内臓感覚を鍛えるかけがえのない出発点になっている。

胃袋の内臓感覚は、尿や便のそれとは違って、中身が空っぽになってすぐに食物を催促するというようにはなっていない。朝・昼・夜とか春・夏・秋・冬という大きな宇宙的な要素、つまり太陽系における天体相互の運行法則にきちんと従っている。内部の日リズムだけでない年リズムも色濃く反映している。

すべての生物は太陽系の諸周期と歩調を合わせて『触と性』の位相を交代させる。動物では、この主役を演ずる内臓諸機関の中に、宇宙リズムと呼応して波打つ植物の機能が宿されている。原初の生命球が‘’生きた衛星‘’といわれ、内臓が体内に封入された‘’小宇宙‘’と呼びならわされるゆえんである。

植物のからだには「感覚・運動」にたずさわる器官が最初から欠落している。言い換えれば、植物は「宇宙リズム」とのハーモニーに、まさに全身全霊を捧げつくしている。

体壁系も宇宙の運行とともに波動するリズムは見られるが、動物に特有の感覚・運動器官が備わっていることで、天体の動き以上に身近な環境変化にいちいち反応しているために、「卵巣」を除けば植物のように純粋に反応できないため、しばしば自然のリズムは乱されがちとなる。

三木氏によれば、<生命の主人公>は、あくまでも食と性を営む内臓系であって、感覚と運動にたずさわる体壁系は、文字通りの手足に過ぎない。我々の日常は、目につきやすい体壁系にばかり注意を注いで、あまり顔を出さない内臓系をついおろそかにしがちである、ということになる。そしてこの三木氏のいう「内臓の復興」こそが人間の「心情の涵養」につながっていく、と論が続けられる。現代に希求されるべきは

内臓感受性の復興であり、それが<こころ>の豊かさの復活に直結する、というわけである。

あたまとこころはいかにも対照的です。切れるあたまとは言うが、切れるこころとは言わない。また温かいこころはあっても、温かいあたまはない。つまり前者の「あたま」というのは判断とか行為といった世界に君臨するのに対して、後者の「こころ」は、感応とか共鳴といった心情の世界を構成する、一言で言えばあたまは考えるもの、そしてこころは感じるもの、ということです。

三木氏の語り口が魅力的なのは、その自由奔放さにあるだけでなく、氏の解剖学者としての広い知見やその見据えている時間軸の射程の長さにある。

なんとそれはヒトの胎児が母親の胎内で演じる、人類の生誕から現在にいたる壮大な歴史の再現であることを詳細に記述しているのである。

氏はそれを、我々誰もが持っている<生命の記憶>と呼び、胎児が演じた<夢の再現>とも呼んで、母性というもの、母から子への<いのち>のつながりの凄さや素晴らしさを深く賛美している。その思いや優しさが、氏の文体に滲み出ている。

 

さらに氏の文体の魅力を加えると、人間を<「大宇宙」に共鳴する「小宇宙」>と表現する空間的広がりを内臓感覚、内臓波動を媒介に巧みに描くその手法であったり、氏自身の子供さんの深い観察を基礎に、畳を舌で舐めまわしたり、うんちやおしっこの姿に人類の歴史を<おもかげ>として二重写しに記述したり、なぜ人間は不定愁訴に見舞われるのかをバイオリズムと眠りのメカニズムから記述したり、とにかく多様で豊饒なのである。是非、一読をお薦めします。

 

さて、今回の一応の締めくくりとして、私が特に興味を惹かれた部分を以下に引用してみます。それは三木氏の仏教についての記述です。

仏教に十二縁起観というのがあります。人間はみんな、生老病死という苦しみがあります。中には、もっともっといろんな苦しみを抱え込んだ人間がある。

いったい、この苦しみは、何を「縁」として「起」こるのか、その縁を求めて、だんだん遡っていくわけですね。そして十二階段を上りつめて、最後に行きついたところに「無明(むみょう)」がある、というのだそうです。・・・

この「無明」の本来の意味は・・・内臓感受にとって、好ましからざる状態をいったもの・・・あの膀胱の壁が、刻一刻と張りつめてくる、そのj状態を思い浮かべればいいわけです。要するに「内臓不快」ーーこれが人間苦の究極の‘’引き金‘’だというのです。

これはものの本質をついていると思います。何もむずかしいことを言う必要はない。お腹がすいたときに、本当にお腹がすいた、そして、なにがどれくらい不足しているかがわかって、それにふさわしいものを食べることができたらそれでいいんですから・・・

私たち凡俗は、仏の教えによりますと、けっしてそうはいかない。

空腹が「縁」となって、それこそ百八煩悩が、夏雲のように湧き上がってくるという。

まったくもって、どうしようもないですね。

もっとも、‘’百八‘’などとややこしいこという必要はない。‘’四つ‘’ーーあの「四煩悩」だけでもう十分ですね。「生老病死」「愛別離」「怨憎会」「求不得」ーーよくもまあ、いやなことばかり並べたものですが、要するに、こういったいやなことが、たとえば‘’お腹がすいた‘’というそれだけの引き金でもって私どもの頭の中にムクムクと湧きおこってくるというのです。

もちろんこれだけではありません。その時の体調しだいで、今度は、ありもしないことが、頭では分かっていながら、どうしようもなく気になりだす。

自分は無能力者であるとか、相手を傷つけてしまったとか、これは不治の病であるとか・・・

専門用語で貧困妄想・罪責妄想・心気妄想などと呼ばれていますが、だいたい陰にこもって来ますとだれでもこんなものですね・・・。

私どもの人生というのは、言ってしまえば、この煩悩・妄想との明日亡なき戦い、と言っても言い過ぎではない。振り払っても振り払ってもハエのようにまとわりついてくる。もう考えまい、と心にきめた、その下から同じことを考えている。あの堂々めぐりというものですが、こうした厄介きわまりない出来事が、そうした「無明」を縁として起こってくるというわけです。・・・

ふつう、このような宗教・哲学の高尚な問題と、まあ、いってみれば‘’ハラ減った‘’

などという生理の問題を結びつけるということじたい不謹慎と言われるかも知れない。しかし、これだけはいくら否定しようとしてもまず無駄でしょうね・・・

つまり、このからだの構造には、そのようにならざるをえないひとつの‘’しくみ‘’と申しますか‘’からくり‘’が秘められているわけですから・・・(23~28頁)

野口父子の対話(14)

孫の子供の日のプレゼントにと、蔦屋書店で「ピタゴラスイッチ」のおもちゃを買い、そこで見つけた中沢新一の『レンマ学』(講談社)を同時に購入した。

このところずっと野口裕之氏の『白誌』誌上の哲学的な日本文化論や裕之氏独自の科学論や、なかんずく野口整体における身体論などについて、私なりに考えを巡らしてきて、頭の中がいささか混乱し、疲れてもきていたので、ちょっと一休みという感じもあったための購入だったと思う。

この中沢新一の『レンマ学』は、一言で言ってしまえば人類が築き上げてきた<知>について、西欧的な<知>を東洋的な<知>に対峙させ、後者を土台とした新たな<学>を再構築しようとする、無謀とも言える壮大なアイデアを提起しようと試みられたものと言える。

中沢氏の言う「レンマ学」とは、かつて鈴木大拙井筒俊彦大乗仏教の縁起の論理を土台に、仏教論理による新しい学を構築しようとした彼らの挑戦を受け継ぐものだと言い、ロゴス的思考に対比される非因果律的、非線形的な思考であると言う。

さらに、量子力学人工知能の急速な発展によって、従来のロゴス的思考の不完全さが露わになりつつある現代に、この世界を構成する事物をまるごと全体的に直感して捉えるレンマ的思考の重要性が浮上してきたと言う。

仏陀以来、仏教は世界を構成するあらゆる事物が「縁起」によって相互に繋がりあっているという認識を出発点にした。科学は因果については認識できるが、事物どうしが「相即相入」することによって生起するという<縁起>については理解できない。

中沢はこの<縁起>的認識を次のように説明する。(同上書 p.25)

なぜ個体性をもった事物が他の個体的事物とつながっていくことができるのかというと、あらゆる事物が空(くう)を本体としているからである。個体性は空から生じ、空が個体性を包み込んでいる。それゆえに、あらゆる事物は空に基づいた同じ構造をしていて、その共通構造をもって他の事物と「相即」することができる。

このとき事物と事物の間に力の出し入れ(力用)が起こる。一方から一方へ力が流れ込む時、一方の事物は力を得て顕在化に向かうが、力を失ったもう一方の事物は隠伏空間の中に隠れていくことになる。これが「相入」の過程で、顕在化した事物のつくる世界の中での変容がつくりだされるのみならず、顕在化した事物が見えなくなり、しばらくして形を変えて隠伏空間から現れて作用をなす、という事態も起こる。このような「相即相入」の複雑な過程をへながら、縁起の全体運動が起こっていく。

中沢はこのレンマ学構築のアイデアを、南方熊楠華厳経フロイトユング岡潔デカルトハイエクなどを縦横に援用しながら、詳細に展開している。私にとっては、『チベットモーツァルト』や『カイエ・ソバージュ』等と同様、とても刺激的なものと感じられた。

野口父子の対話(13)

裕之氏が父親の晴哉氏の生き様やその言葉から学んだことや、そこからわれわれに伝えようとしていることがどのようなものであるかを、『白誌 掌編/草編』に添って以下に引用し記録しておきたい。( )内は引用者による。

 

〇親父の整体の技は、・・・とにかく群を抜いて圧倒的に神業だった。なぜ神業かと言ったら、彼しかできないから。他の弟子や息子の我々には、真似事はできても全くあのようにはできない。・・・(ヨーロッパ講習会終了後にたまたま出会ったサリー姿の老婆の存在感に圧倒され衝撃を受けた後、さまざま考えて気づいたことは、明治生まれの父親の身体と、昭和以降に生まれたわれわれの身体とでは、その成り立ちがまるで異なっているのではないか、ということだった。)・・・僕の親父と僕らの体が違うから、身体をどう扱ったら快感になるか、気持ち良いか、どう自分の身体を扱うべきかの価値基準の全てが違ってくる。・・・僕らは実のところ、親父の身体と共有される身体は全く持ち合わせていない。・・・親父の言っている<力>と、僕らが言っている「力」というのは、全くズレていて互いに分かり合えません・・

そして裕之氏が至りついた場所が<内観的身体>であった。

 

僕は・・・あの(インド人の)婆さんの出来事以来、日本人が失った身体は確実に客観視された身体の世界ではない、とこう確信した。我々が失った身体は何かと言ったら、「私自身が私の体をそう感じている」というところの身体なんです。これを僕は<内観的身体>と呼ぶようになった。

このもう一つの身体、客観的身体とは異なる「感覚経験としての身体」とはどのようなものなのか。

裕之氏はそれを実習のなかで次のように説明している。

わたしたちの顔を見るときに、鏡に映った顔を見るように外側から見るというのが普通だが、そうではなく視点を後頭部の側から顔の表面の裏側に辿り着くように移動させていくと、そこに<容積空間>があることを感覚できる。

今度はその逆方向に、顔の表面外側から後頭部に向かって視点を移動させてみると、先に観た<容積空間>と似た空間を感覚できるのだが、両者の<容積空間>はまるで違った空間であることを実感する。

いずれにしても、この私たちが身体の内部に意識を集注したときに得られたこの<容積空間>のことを内観的身体と裕之氏は述べている。

そしてこの客観的身体とは異なるもう一つの身体である容積空間を持った身体である<内観的身体>にどのような原理や法則性が存在しているかを追求してきたのが裕之氏の三十数年間の身体教育研究所の主たるテーマだと述べているわけである。

さて、このようにして裕之氏の言説を、その言葉の内実を実感できないまま記述しようとしている私は、正直に言ってだだ呆然と立ち止まってしまう、ということしか言えない。

このまま記録として先に進むことは出来ないわけではないが、無謀なことであるというのも私の実感だ。

もう少し、考え悩んでから進め方を決めていくしかない・・・

 

 

 

(つづく)