野口父子の対話(11)

晴哉氏と裕之氏との対話と題しながら、殆ど前に進めない自分がいる。何故だろう。一言で言えば、私の理解力では二人の言説世界に手を届かせることが困難だからと言うほかに理由が見つからない。

それでも私の好奇心は絶えることなく「野口整体を愉しむ」ことに向かっている。

 日常のなかで、私の理解の範囲での野口整体理解によって、あれこれ判断し、時に上手く対象を射抜くことが出来ることもあれば、とんでもなく見当違いの結果に反省を強いられることもしばしばである。

 野口整体についての中途半端な理解による生半可な判断が、私の家族や友人知人に対して発する私の言説の悪しき影響を感じさせられるたびに、私は落ち込み、無口になっていく。

自分自身のためだけの愉しみなのだから、私の家族や友人、知人に結果としてであっても、その愉しみを強要するようなことがあってはならない。

そのことを強く実感させられたのは、妻が尿路結石で七転八倒の痛みに苦しんだ時、私に出来た事といえば愉気やI先生から教わった幾つかの整体操法技術に過ぎなかった。数年おきに生じてくる結石による妻の激痛と出血、その都度慌てふためく私自身の不甲斐なさ。その痛みの原因が腎臓に幾つも生じていた結石であったことは、病院でのレントゲン診断の結果はじめてわかったことである。結石が尿路を下り落ちるたびに、激しく痛み、それを何度も繰り返して、その石がやっと体外に排出される。するとそれまでの痛みや苦しみが嘘のように去って、晴れやかな日常が戻ってくる。

 また、私の娘と孫の予防接種について話が及んだ時、娘から「小学校の時、予防接種やレントゲンを受けないことで先生や友達からいろいろ言われて辛かった」と初めて聞かされ驚いた。

私はといえば、職場での健康診断を長いこと受けてこなかったし、病院で受診したことも薬を飲むこともしてこなかったので、職場の産業医や総務部や看護師から何度も強く検診をするよう諭されても、あまり気にすることもなくやり過ごしてきたのだった。

しかしその時の娘の「辛かった」という言葉は、今更ながら私の「押しつけ」を意識せざるを得なかったのである。

同様の事は、私の息子においても感じさせられた。彼は私とは正反対で、以前から自身の不調の際には積極的に医師の門を叩き、その指示に従って受診し、薬を飲んでいる。息子は今年の暮れあたりから、強い倦怠感と息苦しさに悩まされ、コロナ感染かもと病院に行き、検査結果は陰性。しかしその病院の検査で、異常個所がみつかった。

この数か月、息子の体調不良とその不安について、電話やメールで頻繁にやりとりしてきたのだが、私が息子に言えるのはいつも抽象的なことばかり。なんの慰めにもならないことに終始してしまう。ところが数日前、少し詳しく検査をした結果、非常に明瞭にその原因が医師から伝えられたと言う。その内容を息子に聞かされて、私は深く納得することが出来た。そしてその具体的な治療法と、その予後についても納得が出来た。

 

こうした私の家族にまつわる経験は、<整体を愉しむ>などとお気楽な趣味に漬かっているような現在の私に、とても重要な課題を突き付けてくれている。

つまり私は、野口整体を気楽に、つまり無責任に語ることがますます難しくなってしまっている。

こうした私が、このブログを書いているということを、改めて読者の皆さんにお話ししておきたかった。もうすでにご存じのこととは思いますが・・・