自分との対話

「月刊全生」(令和元年11月号)の「自分との対話2」(野口晴哉)は、示唆に富む内容だった。

他人の中に入って行くためには、<他人の特性をつかまえる>必要がある。それを可能にするための一つの方法として、<自分で自分を良く知るための自分自身との対話>が有効だ、と言う。

野口氏の<自分との対話>とは、具体的にどうするのかと言うと、意識が芽生え始めた頃の自分から始まって、今ある自分に至るまでの、無数に存在する<自分>の一つ一つと、あたかも他人に対して行うように対話をしてみる、という事だと理解できます。

その場合の対話は、当然のことながら相手が自分だから、何らの遠慮も見栄も不要である。思うように疑問を発することや批判も出来るし、逆に称賛も出来る。そこでの対話は、他人との対話のように、なかなか気が通らない、ということからは比較的免れ易いものとなる。一般に、対話というものの前提には、相互に気が通っているという事がなければならないが、相手がもう一人の自分である以上、それが比較的自在になるということである。

そして、そういうもう一人の自分との対話を重ねていき、より微細な段階にまでそれを深めていくと、少しずつ、本来の<他人>との対話というものが比較的容易に出来るようになってくる。

さらに、次の段階では、そこまでの自分との対話が現在の自分の<意識>の領域でなされてきたのだが、より深い段階、つまり<無意識>の領域にまで踏み込んでの対話も出来るようになってくる。

<意識>と<意識>との対話の段階から、<意識>と<イメージとしての自分>との対話ということが可能になる。

そうなれば、いつの時代の自分とでも、その<思い浮かべた自分>を対象として対話することも出来るようになる。

なぜあの時の自分は、あのような行動をしてしまったのか、といった思い出したくもない自分とも、気取りや見栄を取り去って向き合い、話し合うことも出来る。

忘れ去ってしまいたい自分、そこから逃げ出したくなるような自分と出会って真っすぐに向き合い、話し合うことが出来るようになって初めて、<意識>だけで対話してきた自分との対話の段階から、<無意識>と呼ばれる領域へと歩を進めることが出来る。

自分との対話の面白い処、肝の部分が、そうした場面に至って初めて展開できるようになる。

 

野口氏のこの講義録を読んでいると、その言葉使いや、話の展開が、きわめて周到に準備された、実践的な課題を、潜在意識教育という視点から組み立てられていることに気づかされる。

というのは、野口氏は、胎児期、乳幼児期の原初的な欲求や衝動が、自我の発達にともない、徐々に社会的現実的要請から変容、変質していき、当初の初期的な前意識の段階を経て、倫理的、意識的に振舞うように大人になっていく過程を、<自分との対話>というものを通じて、その逆コースを辿るようにして自分の原初的な欲求や衝動に足を踏み入れようとしているのが、この講義録の趣旨だと、私には思えるからだ。

 

このように自分との対話を通して、自分自身を深く知るようになっていけば、現実の他人との会話は、自分との対話よりも容易となるし、他人を知るということ、他人の特性を理解するということも比較的容易に出来るようになる。

逆に言えば、そういう訓練を自分に課していかない限り、真の意味での整体指導ということも行えないはずだ、というのがこの講義録の中心課題であると思う。

 

ぜひ、野口氏のこの全文をお読みになっていただきたく、紹介させていただきました。

 

以上