野口整体を愉しむ(再録80整体操法の基礎を学ぶⅢ(72)愉気法と整体操法の基本的な違いについて)

整体操法の基礎を学ぶⅢ(72)愉気法と整体操法の基本的な違いについて

「整体とは何か」、「整体操法とは何か」という問いに対して、野口晴哉氏は一般の人向けの回答と、整体指導者向けの回答の二つを示してくれています。臨機説法ではないですが、これらの問いに野口氏がいかに真摯に、かつ率直に、何ごとも包み隠すことなく、赤裸々と言えるほどに、言葉を尽くして示されています。「先生、そこまで言っちゃって大丈夫ですか」とチャチャが入りそうなほど、<秘伝>とさえ言えそうな事柄が語られている。もちろんそこには、野口氏の冷徹な視線や、学ぶ者への周到な配慮が籠められてもいるのでしょうが、われわれ素人からすると、「えっ」と驚くほどの内容に思えるものです。とりわけ今日の講習内容には、そういった表現がいくつも見て取れるのです。野口氏にとっては、<整体操法には秘すべきものなど何もありはしない。あるのは要点であり、コツであり、秘訣であって、誰にでも出来るものであり、すべて意識的になされる問題です>とでも言わんばかりのものに違いありません。
これは言い換えれば、野口氏の絶対的な自信の表明であり、整体操法が完成されたものであることの宣誓とでもいえるものであって、それゆえわれわれは、野口整体法の持つ魅力に、ますます惹きつけられることにのになるのではないかと思います。
では、講義記録を始めます。

I先生「今日は整体操法講座の第七回目です。愉気法と整体操法との基本的な違いについて説明します。」

愉気法の愉気というのは、相手の症状が重いほど効果がある。死にかけている時に愉気をすると、的確に効果がある。それは下手でも上手でも出来る。しかし、意識でやる操法というのは、やはり初めは軽いのでないとうまくいかない。愉気法の愉気のような奇跡的な効果は得られない。分相応の、下手なら下手なりの、上手なら上手なりの操法の効果しか得られない。意識していちいち設計してやるのだから、その上手下手で決まってくる。押さえ方の上手下手ということ以外に設計の上手下手というものもある。
そういうようなことで、実力だけの効果しか得られない。効果があった場合は、実力だけの効果しか得られない。そのかわり効果があった場合は実力があったということになる。
幸い整体法では、愉気ということは誰にでも出来るから、難しいところは愉気でやって、やさしいところは操法でやる、当分はそういうようにやっていくといい。

整体操法が、愉気より効果が上げられるようになるには、二十年はかかる。二十年を越すと、愉気より断然整体操法の方が、効果をおさめるようになる。
それなら愉気だけでいけばいいのではないか、ということになるが、まさにその通りで、愉気だけでいけばいい。下手なのに、二十年も三十年も辛抱し骨を折って整体操法の技術を磨く理由はない。
ただ、今どれぐらい良くなったかとか、これこれこういう変化が起こっているから、これで良くなった、ということが、指で見ることができる。それだけの為に整体操法の勉強をするのだと言ってもいい。
愉気法だけでやっているうちは、現在の相手の状態が良いのか悪いのか分からない。ただやれば効くのだ、という信仰をもって、遮二無二それをやる。感応したりしなかったりもする。やはり相手が良くなったというまで不安である。
大勢の人をやるようになってくると、愉気をすれば良くなるだろう、でも本当に良くなったのだろうか、と絶えず迷いや不安で寿命をすり減らしてしまう。
整体操法ができるようになれば、ここまで良くなった、あとこれだけだと分かる。しかも、「呼吸」や「度」や「機」というものが読めるようになり、「体周期律特性」が読めるようになってくると、これは幾日間の患いだ、幾日間の毀れ方だ、体周期律特性によって、どの時期に起こった変化で、どの時期に至れば良くなるのだと分かってくる。
その変化を一つ一つ読んでいく。だから見てさえすれば、あと何日と分かる、治さなくても治っていくのです。あと幾日たつと治っていくと見ていると、そして実際に治ってくると、経過を見ていただけなのに、あたかも技術で治したかのように相手が錯覚する。そういう相手の錯覚から「整体のおかげで」、というような評判が立っているのです。
もう一息だ、もう一回苦しめばいいのだ、もう一度熱が出ればいいのだと見ている。相手はたまらないが、そうやってこちらが見ていると、相手もわりに気楽に経過出来るようになる。そういうことを何度も経験すると、相手の潜在意識に対する指導力というものが自然に自分の中に出来てくる。
そういうように効果をあげられるようになるには、整体操法の勉強も大変です。しかしこれを修めると、潜在意識的な指導力も出てくれば、観察力も出てきて、相手を余り心配なく見ていられるようになる。あまり不安にならないで済む。
こういうことが、整体操法でやるということが、愉気法だけでやるということ以上の利益であり、ただそれだけの為に訓練すると言ってもいい。
実際には遮二無二愉気をすることには整体の技術というものはかなわない。良くするだけなら愉気専門の方が良い。整体操法の技術で愉気以上の効果をあげるということは大変なことです。しかし、見て経過することが出来るようになる。
やる人が、愉気をしながら不安でいる、という状態は、やはり健康的ではない。相手が治る前に、こちらの方がずっとくたびれてしまう。
愉気をされて良くなった人は、良くなるとホッとするが、良くなるまでは地獄の苦しみである。している側は、相手が良くなるという確信はあるし、信念もある。だが相手が「良くなった」という言うまでは、良くなったということが分からない。
これは、天心で愉気をするということとはまた別の、緊張や不安がある。こういうことが続くのではやる者の身体にとって良い訳がない。
だから整体操法を始める場合に、相手の体をよく読むということは、まずはっきりと身につけなければならない。
もう一つ、愉気というのは悪い時には効くが、悪くない時には効かない。しかし整体操法は、悪くない時でも悪くならないように使える。悪くなってから治すというような、泥棒を見てから縄をなうというようなことをやらないように使える。
愉気というのは、悪くなった時の手助けにはなるが、相手の力をもっと呼び起こすという点では、何もしないで経過をさせるという整体操法よりも劣る。
また身体の異常、身体の故障を治すという面でも愉気はなかなか難しい。
整体操法の技術を使えるようになると、悪くない処、まだ悪いと感じない処も治せるようになる。それから治るという過程を、身体の修繕にも使える。
病気を治すという考えなら愉気で十分である。愉気の方が効果がある。しかしそれでは病気を利用して、身体をより活発に活かしていくというようなことになると難しい。
だから、整体操法をやろうとする場合に、病気を治すということを目的にしては駄目で、弾まなくなったゴムまりが弾むように、新しいゴムのようにしていく、強ばったゴムを弾力のある状態にしていく、というようなつもりでおこなっていく。
その為には、怪我でも病気でも利用する。相手の中に、潜在している体力を呼び起こして鋭敏にしていく。
こういうように考えていくと、病気を治すという面では愉気にも劣る整体操法であっても、使い方によってはもっと人間を元気にすることができる。
人間を本当の意味で丈夫にするということを行うには、やはり整体操法が他の方法に比べて遥かに的確であると言える。
ただ整体操法の要点は、病気を治すのではなく、その過程を待つということ、自然の経過を待っている。待っていて、その身体の及ばない処を助けていく。整体操法においては、愉気も重要な要素になっているが、しかし愉気法のときのように遮二無二やらないでいい。相手の力のぎりぎりのところを助けて、あとは見ている。整体操法の理想は、何もしないで相手を自然に経過させることにある。ごくわずかな力で補助する。その補助の仕方を通じて、相手の弱いところを強くしていく。整体操法の目的は、あくまで相手を「整体」に導くということにある。病気治療でも健康維持でもない。
健康とか病気とかいっても、どこからが病気でどこからが健康かの線を引くことは難しい。一定の平均的基準を設けても、それをもとにいいとも言えないし、悪いとも言えない。血圧でも基準より高くて何ともない人もいれば、低くても脳溢血を起こす人は沢山いるのだから、何とも言えない。
だから我々はそういう区別を問題にしないで、「整体」を目的にしているのだが、こういうことは、なかなか一般には理解されなくて、そのためにある時代は病気治療としてもてはやされ、またある時代には無痛安産法として、またある時代には体癖の修正法として、最近では健康法としてもてはやされているが、厳密に言えばそういった健康法でもない。
しいて「体力作り」という言い方をしたりすることもあるが、それも適当なものかといえば必ずしもそうではない。
「健康法に非ず、治療法に非ず、体癖修正法に非ず、整体なり」というと、何かわざと難しく、解りにくく言っているように見えるがそうではなくて整体操法をやってきた者から言えば、それ以外に言いようがないからそう言っているのである。
どうかそのことの意味を、そうでなければならない意味を、もう一度しっかり考えてみて下さい。
では、今日はこれで終わります。