生き方としての野口整体

前回のブログから一か月以上が経ってしまいました。

このブログ作成の私なりの作成意図は、手元にある野口整体関係の膨大な資料を、私のなかでそれなりにすっきりとした一つの輪郭のものとして描けないか、という個人的な思いから始まったものでした。

ところが、作成を始めてから、何度も壁に突き当たった感じに陥るのです。

特に整体操法の技法に関する記述に対して、私がいつも感じてしまう壁は、野口氏の示そうとする技術の、ほんの入り口にさえ至り得ていない私自身に対する不甲斐なさといったものです。

整体操法の思想と技術をI先生から具体的に学び、家族や身近な人たちへの操法の真似事を行っていく過程で、私なりの確信のようなものが得られ、積み重ねられたものはあるのですが、それらはどこまで行っても素人の域を出るものではあり得ない。野口氏の講義記録や著書に示された言葉が、そのことをいつも私に突き付けてくるのでした。

整体指導者という存在は、ある<覚悟>がなければなり得ない。

I先生は私に、その<覚悟>を、さりげなく常に求めて下さっていました。

私はその促しを、いまだ肚に決めかねたまま、曖昧な時空に漂ったままでいるのです。

 

私のこの中途半端な立ち位置は、格好をつけていえば、信と不信のはざまにある宗教者のようでもあり、態度を一旦保留する現象学者のようでもあり、両価価値の併存を愛好する好事家のようでもありますが、いずれにしても曖昧であることだけは確かなままなのです。

そうした私が逃げ口上として好んで使うのが、<素人>という言葉であり、<愉しむ>という言葉であることは、ブログの読者ならすでにご存じのことと思います。

そしてその<素人>としての私に辛うじて出来うることは、「野口晴哉かく語りき」という視点からの講義記録の紹介だったわけです。

ところが、その紹介ということが、当初の思いとは裏腹に、極めて困難な作業であることが、実感として判ってきました。というのは、自分の経験的な裏付けがない言葉は、たとえ引用として取り出してみても、結局のところは魂が抜けてしまう、という当たり前の事実に直面せざるを得なくなってしまうのです。

そうなると、いったい自分は何をしているのか、というところに、つまり振り出しに戻ってきてしまうわけです。

野口氏や、現在も指導者として肚を決めて一人一人に真摯に向き合っておられる先生方に対して、こうした私の曖昧な態度が、いかに無礼な行為であることか、思い知らされる、そうしたことが常に頭をよぎって離れないのです。

 

それから、私が感じるブログ継続の困難さのもう一つの大きな壁は、標準医療と整体的言説との関係についての壁です。講義録にはしばしば<治る>とか、これこれの病気といった近代医学が使用する<病名>といったものが頻繁に登場します。

言うまでもなく、野口整体は広義の意味での<体育>であって、決して医療ではありませんし、代替医療でさえもありません。

身体や心身の意味付けが、標準医療の文脈からは大きく逸脱したものですし、極めて特異な言葉で表現されており、その意味では、両者を同一の文脈で論じる事自体が難しいものです。したがって、<病気>とか<治癒>とかいう概念が、標準医療のものとは全く異なっている。

<整体>という概念も、標準医療での<健康>という概念とはまるで異なった概念です。

ところが、野口氏の講義録には、<治る>という言葉が頻出しています。

この野口氏の<治る>という表現が、標準医療の文脈での<治癒>の概念と決定的に異なっているのは、科学的根拠(エビダンス)が殆ど提示されていないところにあります。

野口氏にとって<治る>とされる事態が、他の指導者にとっては必ずしも保証されていない。つまり、<治る>という表現は、野口氏にとっては当然のことと考えられているとしても、それを誰がやっても同じ結果を導き出すとは限らない、ということが、科学的根拠、誰が行っても同じ結果を導き出すという科学的根拠になりえないという問題を絶えず引きずってしまうのです。

このことが、野口氏の言説を講義録から引用しようとする場合、もっとも厚い壁として私には感じられるわけです。

「じゃあ、お前がやっても治せるのか」、と問われれば、答えに窮する以外にはないのです。

 

まあ、そんなわけで、何度もなんども壁にぶつかりながら、立ち止まり、悩みつつ、このブログにつまらない愚痴をまき散らしているわけです。

そんな私のかすかな希望は、それでも野口整体を私なりの生き方に結びつけたい、という変わらぬ想いがいまも沸々と湧き上がってくるということでしょうか・・・。

 

(おわり)