野口整体を愉しむ(再録118)知以前の知、新しい生き方

知以前の知、新しい生き方

すでに言語化され意識化された対象についての知が、対象が本来持つはずの可能性としての知の一部分でしかないことは言うまでもない。しかし、私たちの身体は、そうした知の対象であるとともに、すでにそれ自体として生きられているという意味で、身体以外の対象とは基本的に異なっている。
現在までのところ、どれほど高度化した人工知能を搭載したロボットといえども、高度化した視覚的・聴覚的感受能力や処理能力を持つ機械でしかなく、我々が生きて存在している身体の全体的能力と対比すれば、極めて偏った対象認識能力しか持たない。
ロボットがさらに高度化し発展して、人間並みの身体能力を獲得したときでなければ、本来の意味で擬人化した人間と呼ぶことはできない。
とりわけ触覚や味覚や嗅覚さらには体性感覚のように、一見原始的ともみえる感覚や知覚が生命と密接に関係しているにもかかわらず、そうした能力をロボット内に組み込むことが容易でないのは、いまだそれらの感覚や知覚が視・聴覚的認識による言語化のようには十分に言語化されていないためである。
宇宙から素粒子にいたるあらゆる対象に対して、より遠くへ(空間)、より早く(時間)到達したいという欲求を強くいだく視・聴覚的な認知特性。それに対してより近くに近接し、対象に同化し微睡(まどろ)もうとさえ欲求する触覚等の認知特性。そうした本質的に異なる特性が、言語化における質と量の差異をもたらしている。
わたしが野口整体に強い興味をいだく理由の一つが、この感覚や知覚が持つ個々の特性や差異の違いを、触覚を主たる方法として自覚的に言語化し、さらに諸感覚のさきに息づく生命を気として把握しようとする、その魅力的な冒険にこそある。
野口整体法が、身体や生命に寄り添い、心を澄ましてそれらに共感し認識しようとする姿勢は、きわめて触覚的な生き方といえるし、未来的な新しい生き方とさえ言えなくはない。
野口整体の思想を野性的な生き方を取り戻すものだ、と評するみかたが理解できないわけではないが、野口氏にとって野性はからだ本来の生き方でしかないという意味では、やや違和感を禁じ得ないものではある。
野口氏は従来の生理解剖学的な身体認識や、物理化学的対象としての身体認識とは異なった認識を新たに付け加えようとしているのであって、従来的認識を否定して野性に帰れと言ってなどいないからだ。
野口氏は、従来の対象化され分節化され言語化された身体についての知に、これまで等閑視され基本的に欠落してしまっていた「生命としてのいまここに生きる身体」についての知を模索し、「新しい身体的知」をわがものとして、がんじがらめになっている従来の身体についての知になにものかを付け加えようとしているのだ。
いいかえれば、言語化され分析された従来の身体知のさきに、秘かにしかし確かに息いている未知の(暗黙の)身体の知恵を、鋭敏な触覚あるいは気の概念を駆使して、あらわにしていこうとしたのだ。
そして、本来の意味で身体的に自立が可能になれば、これまで以上の心の自由や自立も可能になるのではないか。
野口氏はそう言っているように私には思える。