「七の日講座」を習う(メモ1)

今回から、私の手元にある野口晴哉氏の口述記録「七の日講座」から、開講順にメモの番号を私的に付して、ピックアップ形式で引用してみようと思う。

<習う>と題したのは、これまで同様に整体法や整体操法に関して、相変わらずの素人の私が、素人なりにそれらを愉しみたいという想いのみで行うことになること必定だからです。第一回目の今回は、1958年5月以前に行なわれた講座ですが、資料に日付が記載されていないので明記できていません。内容は<体癖>についてのものです。

今日の医科学、医療の進歩のなかで、野口整体法の思想や技法がどのような意味や位置づけを持つのかについては、時代が少しずつその答えを出していくことになると思いますが、科学の進歩が後退したり後戻りしたりすることはあり得ないと思うので、今後ますます医科学とそれに伴う医療が発展していくことは間違いないでしょう。

しかし、それは人間の存在についての広大に広がる未知の領域すべてについての回答を未来に用意してくれるものかと言えばそうではないと思います。なぜならその発展、進化というものはあくまで物理化学的な人間についてのものであり、それはあくまでも全領域についての部分でしかないということは、明らかな事実だからです。

物理化学的なものに還元できない領域、還元できないで溢れかえっている人間存在の領域は、それがどのようなものであるかはわからないけれども、確実に存在はしている。とりわけ人間の心的な領域は、いまだに無限ともいえる謎を秘めたままであることは、多くの人の認めるところだと思います。

野口氏が、整体操法という領域で、人間の行動の不可思議さを解き明かすべく苦闘したのも、科学的に分析することの困難な人間の心的領域と格闘していたからの困難さでした。人間とかヒトとかいう言葉で表現できる、一般的・普遍的な人間というものはどこにも存在していない。百人いれば百人に固有の存在様式があり、その固有の存在に一対一の関係の場で技術を用いることの困難さを、野口氏ほど徹底して見据えようとした人物は稀有の存在でしょう。一人一人の具体的な個人は、いつも一般化されたヒトという枠をいつも大きくはみ出していく。この一般化された人間と、ひとり一人が異なっている具体的個人との間を埋めるものとして、野口氏が見出したのが<体癖>論だったと言っていいように思います。物理化学的な領域から、重層的な心的領域にわたる一つの構造としての具体的個人を、どのように認識していけばいいのか。

その未知なる領域への探訪が、野口氏の<体癖論>構築の過程であると言えると思います。

物理化学的、生化学的な人間理解は、人間理解の非常に基本的なものであり重要であることは当然ですが、それは人間理解の方法の全てを意味するものではないと言えます。言いかえると、その理解の方法は人間存在の理解にとっては部分的なものであるということは見失ってはならない。

本来部分的でしかない認識が、科学の発達や技術の発達によって人間存在の課題全てを解決できるというような未来を描くことには一定の限界があることは、良く考えれば当然のことではないでしょうか。

具体的で個別に存在している人間というものを理解するためには、一般的、普遍的な、のっぺらぼうの<人間>という認識からも、物理化学的な認識からもに到達できない領域がある、そういうことを私は野口氏の口述記録に接しながら、じわじわと教えられていると感じるのです。

まあ、こういうことは私の思い込みに過ぎないのかも知れませんので、読者の皆様からの厳しいご提言、ご批判を改めてお願いいたします。

なお、これまでのブログ同様、引用や要約の責任は、すべて引用者の私にあります。

 

「七の日講座」

体癖というのは、体の力の偏る傾向のことで、人間の行動を理解するための出発点として、動作や姿勢の偏る癖を見ていくと、理解しやすくなる。

人間のいろんな動作や姿勢は、骨格筋の運動状況が元になっている。

その運動状況が歪むと、動作や姿勢も歪んでくる。

 

一種体癖は、頭にエネルギーが噴出する。体に力が余ってくると、頭が忙しくなってくる。普通は力が余ってくると、体を動かしたくなるのに、頭だけが忙しく動いてくる。

懐手したまま批評する。人間は、誰でもこの一種傾向を持っているが、それが極端に現れるのが一種体癖。

千慮千惑。その行いは人間的といえるが、見た目は首が太く長い。馬に似ている。

頭が全体の構造の中心になっている。病気になっても、頭に焦点がある。

現状を見ないで、あれこれと先の心配ばかりする。勘の悪さをむき出しにしている。

首の緊張・弛緩が非常に強い。薬の効能書きや、製品カタログの特性記事などに強く惹きつけられる。

 

二種体癖は、一種と同様に余ったエネルギーがみな頭に行くが、一種のように大脳作用、心理作用に向いていかずに、そのまま体の方に反射していく。だから普通なら心配事があれば、頭の中で心配事が渦巻いていくものだが、そうならないで、すぐ食欲が無くなったり、心臓が苦しくなったりと、体に反射していく。だから、一種を大脳昇華型というなら、二種は大脳反射型と言える。

二種のそういう体の変化は、体の病気ではなく、余ったエネルギーが頭に集中し過ぎた結果による体の変化です。だからその頭へ集中する力の傾向を、角度を変えるだけでそうした変化を無くすことができる。だから二種傾向の人の頭部第二を叩いていると、体のどこが悪いと言っても、それがなくなってしまう。風邪を引いた、歯が痛い、心悸亢進だというものだって、第二を叩くだけでなくなってしまう。お腹が柔らかくなれば治ってしまう。

 

一種は年齢を重ねても細いままだが、二種はだんだん太ってくる。

一種と二種の簡単な見分け方は、一種は緊張したときに首が硬くなる。そして首が前に前屈する。前屈と言うよりは前へ出ると言った方がいいかもしれない。

ところが二種は弛緩すると前に出てくる。演台に立って話すというような緊張する場面で、首が天井の方に向いてしまう。喧嘩をや議論するときも、天井を向いて言っている。

一種も二種も共通しているのは、眠りが足りないということが不安になる。両方とも行動の主体が大脳にあるから共通しているのです。疲れたと言う時、両方とも眠りが足りないためだと思う。三種、四種だとそういう時、栄養が足りなかったのだと思う。

二種はいくら寝てもまだ眠い、眠るほど眠くなる。起きている時でも、眠そうにしている。

 

人間は合理的に生きているわけではない。今泣いていたと思ったら、もう笑っている、今相手を悔しく思っていても、次の瞬間には可愛くなるなんてことはいくらもある。

 

人間は人間である限り誰でも一種的な傾向があるが、その人が受け身の状態の時は二種的な傾向はある。人間だれしもそういう傾向はあるが、そのなかでもそういう傾向が強い人と、そうでない人とに分かれる。

だから、大勢の人に接する場合に、この人は一種的傾向が強い人か、二種的傾向が強い人かをみていくことは、整体操法を決定する上で、重大な要素をつかまえることが出来るということになる。

どういうことかというと、皆操法するときに、胃が悪いと言われると、胃の事ばかりに考えが行ってしまいがちだが、そうとは限らない。二種傾向が強い人は、焦点は胃袋にあるのではなくて大脳にある。つまり頭の中の雑念が体に反射して、アレルギーになったり、喘息をおこしたり、咳をしていたりしているのです。みな二種傾向の産物です。

咲いた花びらに肥料をかけたって意味がない。なぜそういう症状が出てくるのか、その人の体の傾向を見極めなければならない。操法で一番重要なのは、そういう人間の体の傾向を見る事なのです。誰でも人間である限り、一種傾向もあれば二種傾向もある。その人には大脳昇華傾向が強いのか、大脳反射傾向が強いのかをまずみて、それを活用しなければならないわけです。

大脳と言いましたが、厳密にいえば間脳ですが、大脳の働きが間脳を刺激して、その結果体にいろんな変化を起こしている。セリエのストレス学説などは、人間の二種的傾向を取り出したものと言える。フロイト精神分析学というのも、人間のこうした二種的傾向について言った面がある。

 

 

 

 

 

つづく