<気>について

「気とは何か」、こういう問いの立て方は、ひょっとすると正解に到達できない問いの仕方なのではないか、とふと思う。

野口整体を理解しようとするあまりに、「気とは何か」という問いを先頭に持ってきてしまいがちだが、考えてみると、この問いの前に問われているのは、「人間の行動とは何か」という問いであって、「気とは何か」という問いは、その問いの前提に存在していることに気づかされる。

野口氏にとって、人間の行動の不可解さを理解するために、<気>というものを想定せざるをえなかった、ということが正しい問いの順序ではないのか。

 

私たちは、何かを学ぼうとするとき、その教えの中心にあるものをキーワードとして取り出し、そのキーワードについて考えようとするのが普通だろう。野口整体を理解するためには、野口氏の言う<気>というものを理解しなければそれが見えてこない、というのは学び方として自然な態度ではある。

しかし、どうもこうした態度から学びを出発させると、どこかぎこちない、硬直した態度というものに陥ってしまうのを感じるのは、私だけだろうか。

 

私が、「野口整体を学ぶ」、という表現を避けて、「野口整体を愉しむ」という表現を用いるのも、そうした硬直した態度から自分を少し解き放ちたいと感じたことが大きい理由だが、初めに「気とは何か」を問いの先頭に持ってきてしまうと、「気が理解できなければ野口整体は理解できない」というふうになってしまうことを恐れたためでもある。

<気>が理解できなければ野口整体は理解できない、というのはある意味では正解であるに違いないが、どうもそれだけでは、もっとどこかに別の正解が潜んでいるように思えてならなかったために、<愉しむ>というようなある意味で不真面目ともみえる表現を用いたのであった。

 

つまり、学ぶということは、キーワードを見出し、それを記憶し、身に着けることだというのは学校での学びの態度ではなかったか、ということでもある。

本当は、学ぶということは、そういうことではなくて、「問いの仕方を学ぶ」ということなのであって、問いを共有すること、しかも最も深奥にある問いを共有し続けることをもって学ぶということが始まるということではないのか。

 

やる気があるとき、私たちはどんなことでもやすやすと行動に移ることが出来る。ところが、やる気のないことをやろうとすると、義務感ばかりが大きくなって、こころもからだもこぞってブレーキがかかったようなけだるさの淵に突き落とされる。

なぜなんだろう。

子どもにとって、どんなに寒い雪の日でも、公園でサッカーに興じるためには寒さなどもののかずには入らない。大人だってたくさんの報酬が期待出来れば、苦も無く遅くまで仕事に勤しむことができるし、楽しい飲み会だったら明日の仕事が早くても、夜中の三時まで飲んだり歌ったりしてもまるで平気である。

それは報酬のせいだろうか、エンドルフィンのせいだろうか。

おなじ五キロの紙でも、ごみに出す五キロの新聞紙と、自分に与えられた五キロの札束とでは、気のせいだとは言っても、たしかに感じる重さの度合いはまるで違うだろう。

 

野口氏は気の説明でよくこうした例を出して来られるが、体感する重さ、実感している重さの違いを、とりあえず<気>と名付け、想定して考えてみようと言うわけである。つまり、客観的な重量というものとは異なった、主観的、内観的重量という問題を、<気>の問題として捉えようとしているわけである。

人間の行動を理解しようとすると、この主観的な、ある意味では錯覚と言ってよいような問題がそこに生じている。だから人間の行動というのは不可解なのだと。

もちろん野口氏はそんな言い方はしていないのだが、「人間の行動」を理解するためには、そうした感受性による客観的事物の変容の問題は避けて通れないということを、そうした例で示そうとしている事だけは確かだろう。

 

あくまでも、ここでまず問われているのは、気とは何か、ではなく、それ以前の問いとしての「人間の行動の不可解さ」である。言い換えれば行動の意味を問うている、と言ってもいいだろう。

行動とは何か。

人間の行動は、人間の生理構造を解析すれば理解できるかといえば、そうではない。そう野口氏は言っているわけである。

生理的構造や物理化学的構造から人間の行動の構造を明らかにするために問いを発するとう立場をとるのではなく、不可解で曖昧な、錯覚に満ちた主観の世界を、感受性というかろうじて心的なものへと通じる通路を通って解き明かそうとしている、それが野口整体の立場だと言っていいような気がする。

そして必要不可欠な仮説として設定されたのが、<気>だったということである。

繰り返せば、人間の行動の不可解さは何に起因するのか、と言う問いが野口氏の深奥からの問いであり、野口氏の好奇心の源であり、尽きぬ魅力の拠点でもあったわけである。

だから、私は気とは何かと問う時には、まず人間の行動とは何か、という問いを、問いの筆頭に持ってこようと思う。それこそ野口整体を<愉しむ>ために最も重要な問いの立て方の筈だからである。