気の速度

<気>の速度

 

野口晴哉氏にとっての<気>とは、<気>としか表現のしようのないもの。つまり<気>以外の表現を用いると、そこに何らかの過不足が生じてしまい、自らの言い当てようとする実感から遠のいてしまうもの、として理解されているように思われる。

<気>は見ることも、聞くことも、嗅ぐこともできない。何でも可視化しようとする昨今の傾向の中で、だから<気>は余計に知覚や認識の対象としては、曖昧模糊としたまま放置されざるを得ないのだろうか。

とはいえ、前編のブログでも、この続編のブログでも、野口氏の口述記録には、その曰く言い難い<気>というものに、さまざまな角度から近接し、それをことばとして表現ようとしているものであることもまた確かである。ある意味で、整体操法についての口述記録は、その全般が野口氏による<気>についての表現集になっていると言う事もできるとさえ私には思われる。

 

野口氏の言い当てようとしている<気>が、いまだ私にとっての実感としては曖昧なままである以上、繰り返しその言葉に示された<気>という対象に向かって、自らを拓いていけたらと思う。ただ、今の私にとって、<気>というものを、<風>のイメージで捉えてみると、少し理解が届くのかなと考えることがある。<風>は眼では見えない。それは無色透明な空気の動きだから。しかし、木々や葉の揺れ動く様は、<風>の動きを教えてくれる。<風>に速度があることも、実感として判る。眼には見えない空気の動きも、走りだせば<風>を感じる。それはまず私の肌がそれを感じる。それは視覚や聴覚によってよりも、触覚として実感している。

だから<気>を実感するということは、視覚や聴覚以上に、触覚に近いということが出来るような気もする。木の葉の揺らめきは視覚。ヒューッと鳴る音は聴覚。肌に感じる気流は触覚。意識が向けられた側面に応じて、<風>はいろんな感覚器官で捉えられ、知覚される。

だから、<気>というイメージを実感としてとらえるためには、触覚に似た感官がそれを担っているのではないかという想像は、それほど間違っていないのではないか、などと思えてしまう。もちろんそれが<気>という概念の全てであるはずはないが。

野口氏は、人間の行動のもとには<気>がある、と言う。それはエネルギーという比喩で表現することが出来、圧縮されたり鬱散されたりするという。では、そのとき<意識>はどのような位置にあるのか。心的なものが、生理的なものと関係しあっている現場では何が起こっているのか・・・

 

野口氏の眼差しは、いつも慈愛に満ちている。目の前のいのちへの、限りない愛おしみが、その丁寧な言葉遣いからにじみ出てくる。だからいつも氏のことばは、私を勇気づけ、癒し、愉しむことの豊かさや奥行きを知らせてくれる。でも氏はそのことを直接的なことばで示すことは決してない。優しさとか愛情とか・・・

ひとり一人のいのちに真っすぐに向き合い、いのちが表現するかすかな揺らぎの表情を<気>として丁寧にとらえようとするその姿勢は、東アジアの宗教の深い伝統につながっていて、しかし決して宗教くさくない。だからこそ、氏の言葉は未来の世代のだれにとっても求められる導きのことばだと、私は勝手に思っている。

格差が拡大し、国家が営利を至上の価値として、個々人をないがしろにし、その平板で画一化した組織の部品に見立てているところでは、いのちはあまりに軽く、あまりに殺伐とした風景の中で息苦しく右往左往しなくてはならない。個々人が多様であり、豊かであり、思いやりに満ちたところでは、当然格差は縮小し、多様な文化が躍動し、多様な価値が互いに切磋琢磨しあって、のびのびとした歌声が巷に横溢するはずだろう。百人百様の生き方が楽々と実現し、いのちが活き活きと呼吸する、それはいつの時代の、だれもの身体が、そしてだれものいのちが渇望する根源的な欲求に違いない。

そして、忘れてならないのは、野口氏が、このいのちの根源からの渇望に出会う為に必要となるのは、一旦わたしたちの意識を閉ざすようにして、相手のいのちに、まるで赤子のような心持で接するという、ある意味でとても難しい心的態度である、ということを繰り返し、繰り返し伝えているということではないか。<天心>といわれるものが、<気>と分かちがたく連動し、他者との共感のなかで不思議な響きを奏であう、そんな世界が、野口整体なんだろう、と思う。

 

そんなあれこれの思いを抱きながら、今日は野口氏の口述記録整体操法初等講座10」(1975.4.6)を読んで、<気>について、その手掛かりを探っていきたいと考えています。

(以下の引用は、私なりの理解で要約したものであり、文責は全て引用者にあります。)

 

 愉気

相手に気持ちが伝わるということが、愉気ということである。逆子の赤ちゃんに注意を

を集めて、「逆さまだよ」と話しかけると、その気持ちが伝わって正規に戻る。ただ、気持ちだけでは駄目で、言葉にして、気に乗せていくと、それが伝わっていく。

 

気には速度があって、その速度を加減することができないと愉気はできない。

相手と接していてイライラしてくるのは、相手の気の速度が自分の気の速度と適わないためで、そのために疲れてしまう。

愉気で大事なことは、<自分の気の速度を自在に加減すること>が出来るようになることである。

気の速度を加減するには、はじめに息を「ウームッ」と吸い込んで「ウムッ」と耐えてからやると速度が速くなる。

その逆に、吸った息を一杯に吐いてからやると、気の速度はゆっくりになる。

最初の呼吸で、吸う息が長く静かだと、速度がゆっくりとなり、相手は緩むのです。

相手の気の速度がわからないと、愉気はできない。

相手の気の速度を感じた時、それに合わせて愉気するのです。それが合わないと、<感応>しない。

相手の気がゆっくりしているのに、こちらだけが急いでしまう、ということがよくありますが、それでは<感応>しない。

 

掌心発現

愉気をすると、<掌心発現>という現象が起こります。愉気に感応すると相手の指が動いてくる。胃の悪い人は人差し指が動いてくる。腰より下の異常だと小指が動いてくる。手や足の場合は親指が動いてくる。つまりそういうところが、愉気に早く感応している。

だから赤ちゃんや子どものように、異常を自分で表現できないときでも、指の動きで類推することができる。

ただし、<意識>で早く異常を見つけようとか、悪い処を見つけようと考えて愉気すると、そのことが焦りとなって、かえって感応しなくなってしまう。

 

感応

<感応>の一番の元は、気の速度の問題です。速度を合わせる。そこで<気合>ということが大事な問題になってくる。気の速度を合わせる、それが気合です。

<気持ちの変化>は、すべて気の速度の変化になっている。だから互いの気持ちが合わないと、感応しない。互いの気の速度が異なるからです。

だから初めのうちは、ゆっくり愉気を行うのがいい。そして相手の気の速度を見る。

相手のいちいちをよく観ていく。そこからはじめないと、間違いが起こりやすい。

相手を観るとは、相手の気の速度を観るということです。

 

相手を観る

相手を観るといっても、気も速度も見えない。見えもしないものを見ろといっても、それは大変無理なことではある。しかし<人間は気で動いている>。だから人間の行動、その動きをみれば、相手の気の速度というものが判る。その眉の動き、その一つの笑みまで、ひとつひとつ注意して見ていかないとそれが見えてこない。そしてそれに慣れてくれば、それはすぐ判るようになる。相手が急いているということもすぐ判るようになる。相手の気の速度に合わせる、あるいは自分の気の速度に相手を誘導する。いずれにしても、感応の問題というのは、気を合わせることからしか始まらないのです。

活元運動を誘導するとき、そのはじめに相手と呼吸をそろえると言っていますが、それは息を合わせるということではなく、呼吸の背後にある<気>を合わせるという意味なんですが、それを息だけ合わせればいいと理解している人がいますが、それは違います。たとえ息がそろっても、相手の中に焦る気持ち、逸(はや)る気持ちがあるとすれば、気は感応しない。

だから、相手を観る、相手の行動から気の速度を観るということは、気を合わせるために必要なことなんです。

 愉気も活元運動の誘導も、掌心発現を観るというのも、すべて問題は<気の速度が合った>ということから始まるのです。

 

私たちはつい焦ってしまう。でも焦ったままでは駄目なのです。

ポカンとすると動き出してくる。しかし、動いたことまでポカンとしていると見逃してしまう。だから初めのうちは、第三者に一緒に観てもらうといいのです。そうしているうちに、動きが出るときの呼吸の要領が判ってきますので、そうなれば自分一人で観ていても、出来るようになります。

 

何かある目的を持って観るということと、同時にポカンとするということとは確かに大変難しいことです。

相手が早くやってもらいたいと思っている時に、こちらも早くやってあげようというふうに、気持ちがそろえば、すぐに伝わる。でもこちらが急いでしまって、相手が急がなければ駄目である。気持ちが急いでも、相手の全部が急いでいるとは限らない。

息をフッと止める長さで、次に吐くときで早くなったり遅くなったりすることが出来る。ゆっくりなら息を吸い込まない、そのままで止める。

 

体というのは「良くなるように出来ている」のだから、そのうえに、良くなろうとか良くしようなどと思う事は、それは焦りなのです。

相手は、自分の体が「良くなるように出来ている」ということを知らないから、急いだり焦ったり、すがりついたりしますが、そういう状態では愉気は感応しない。

だから、われわれにとって、<愉気が感応するように相手を導く>ということが非常に大事なことになるわけです。

その為には、相手を観る、相手の気の速度を特に観る。そしてその速度に合わせるようにする、そういうことを<技術>とするわけです。

息を吸い込んで、それをどれぐらい堪えるか、それがまず技術の始まりです。

 

こちらの呼吸に相手が合わせるように掌を当てる。相手の状態が悪い時は、鼻で呼吸している。少し良くなると鳩尾で呼吸してくる。もっとよくなると臍で呼吸します。もっと良くなると、下腹で呼吸します。そういうように相手を誘導して、それから息を合わせて愉気をすると、よく感応します。

相手の中身が急いでいる、というような時は、息をフッと吸い込んで、ウームッと耐え、それから吐いていきます。そうすれば合っていく。

合えばすぐにスーッと静かになる。お腹で呼吸するようになれば、それこそ、たちまち良くなっていきます。

人間って、そういうように出来ているのです。

 

お腹の観察

腹部第一は虚、第二は冲、第三は実。そうなっていれば正常に営まれている。心配しなくともそのまま良くなる。その人は整体です。

第一に指を当てて愉気する、速度が合えば、感応します。感応すると活元運動に発展していくこともあれば、お腹の臓器が動き出すこともある。食べ過ぎの人だと左だけ動く。中毒している人は右だけ動く。下痢や便秘の人は、臍の周りだけが動く。

いろんな動き方をします。

剣状突起から相手の指で三本分のところ。この第一に指がスーッと入れば正常です。何か異常があると、硬くなっていてスーッと入らない。そういう時は、そこを押さえながら待っていますと、お腹の中に運動が起こってきます。その運動がおさまると、スーッと指が入るようになる。

入ればその体は整ってきたのです。

第二は、第一とおへその中間。触っていくと穴があいてくる。ここに指が入る過ぎるようだと、それは異常です。ここは冲といって、穴があいていることもかわらず、逆に盛り上がっているというのも判らないのが正常なのです。

体に異常があると、凹んでいたり、飛び出していたりします。

そこをジーッと押さえていて穴があいてきたという場合は、歳をとっているということです。そこが虚になっている。老人はみな第二が虚になっている。

ここがズブズブとどこまでも凹んでいく感じ。だから相手が息を吸ってきた時に、ちょっと押さえてみると、押さえた指をはね返す力がない。若い人にもそこが虚になっている人がある。何らかの発育不全がある人達です。

体力が弱ってくると、やはりここが虚になってくる。ここが冲であれば、調整の必要がない。

この第二が冲ではなく、虚になったり、実になったりしていると調整がつかない。

そうなると、その人の第一はますます実になる。あるいはますます虚になる。

第二が実になって、それが徐々に上に上がっていって、剣状突起とくっつくところで実になると、それは死を意味する。そこは漢方でいう膏肓(こうこう)で、「病膏肓に入る」というのは、もう針や薬では手に負えないところとされている。そこの皮膚が湿度を失って乾いてくる。

乾いてきたら、ぼつぼつ警戒がいる。第二の実が上がってきてそうなるまでは平気です。

剣状突起の内側にちょっと指を入れると、そこに米粒の半分ぐらいのかたまりがある。そのかたまりが、だんだん硬く小さくなってくる。それが判るのは四日間ですが、四日目だと小さくなりすぎて判らない。そうすると死ぬのです。

 

死ぬのが悪いということではない。生きているものはみな死ぬのです。死ぬものまで助けようなんて言うのは、越権行為です。人間の中には生きる要求と同時に、死ぬ要求もある。それらはともに自然の要求です。

百にみたないで誰もが死ぬ。だからその半分も生きていれば、毀れる要素が体の中に出てくる。それは自然の要求で、死の要求といってもいい。

だから、七十歳を越して、癌が出来たとか何だとか言って騒ぎまくることは、何か余分なことだという感じがするのです。

 

人間は死ぬに決まっているのだし、これまで死ななかった人は一人もいないのですから、その準備が出来たからといって、それを取り除こうなんていうのは可笑しなことで、そういうものを抱えたままで生きていればいいのです。

私はそうするほうが自然だと思っている。それを見つけ出したからといって、無理に治そうとして、かえって体を毀されてしまうというようなことになれば、それは殺されたということに近い。そういうのは死ぬまいとして殺された、という事だとさえいえる。

それは死ぬということとは違う。

今は、死ぬまいとして毀される人が多すぎます。

もっと、自然に生きるということ、自然に死ぬということを会得する必要があるのではないか、そう思います。

だから禁点の硬結をみつけてびっくりするような人には、これは本当は教えたくない。知らないまま悠々としていたほうが望ましい。

しかし、もしそれを見つけたという場合には、今言ったことを憶えておいて下さい。

 

まあ、それは別として、第一調律点に愉気していますと、活元運動が起こってきます。体の活元運動ではなくて、臓器の運動が起こってくる。お腹や胃袋や何かが動いてきます。そしてその動きは、だんだん方々に発展していきます。

それがさらに進むと、足が悪いために第一が変化していた人は、足の運動が起こる。

あるいは手が動いたり、肩が動いたり、というように段々体全体の活元運動になっていきます。その変化を観ていくと、その体の毀れてきた順序が判るのです。

だから、整体操法を行おうとする人は、そういう順序を知る必要がある。だから、第一調律点を愉気して活元運動を誘導する、ということを体験した方がいい。

 

第一の押さえ方は、相手の吐く息に乗って触る。相手が息を吐いている時に、吐いている速度で触ると、相手は触られたことを意識しない。

下手に触ると、ふっと力が入ってしまう。

 

吐く息に沿って押さえて、息を抜き、抜きしていくと、一番下にピタッと触れる処があります。そこは頭部調律点と同様に、そこに<筋、すじ>があります。それを押さえていると、方々中が緩んできます。

普通そこに三本<筋>があります。そこまでいったら、そのままで、押さず緩めず待っているのです。そうすると、お腹の中が動いてきます。

 

押さえていて、お腹中の運動が出るようになったら、これはもう安全です。

体のどこが悪くても、お腹中の運動が出れば、良くなっていく。

硬くても、ジーッと押さえて、お腹の運動が起こるのを待っていると、自然に緩んできます。

そのお腹の運動を誘導する過程で、さらに細かい変化を読み取っていく、ということが必要です。緩んでくると、方々が変化してくる。その緩みの変化を確かめてください。

中指で、気の極み、微細な変化まで感じられるようになってきます。

力の度合いよりは、気の動きをスーッと感じることに練習の目的を置いておやりいただいたらよろしいと思います。

訳のわからない変動は、第一をそのようにやっていれば、みんな良くなります。

私は全部それで処してきました。

どうぞ、やってみてください。

(以上)