「整体操法高等講座」を読む <30> 反応の処理

今回で「整体操法高等講座」は最終回です。

整体操法は基本的に<操法する人>とその<操法を受ける人>との一対一の関係性の場でのことなので、その関係性を抜きにして野口氏の<ことば>を理解しようとすると、多くは間違ってしまう。

具体的な関係性の場での<ことば>というものは、当然のこととして野口氏と具体的な対象としての個人とのやり取りの中から発せられるリアルなものであって、一般的な言説としては特定できないものである。

そうしたことに留意しながら、今日も、注意深く野口氏の<ことば>を味わっていきたいと思う。

 

整体操法高等講座」<30> 1965.4.25

相手が風邪を引いていたが、まだ徴候になっておらなかったというような場合に整体操法を致しますと、反応状態つまり、体内の風邪が出て来ます。

中毒を起こしている人なら下痢を起こします。そういう病気になるべき状態が、既にあった場合に操法を致しますと、体が敏感になるので、いろんな変化した現象が起こる。

・・・

操法して体に変動が起こると、一応<反応>という言葉を使いますけれども、体が恢復していく為の経路として起こる変化だけを<反応>というのであります。

操法をやり過ぎますと、やり過ぎと言っても、多いだけでなく、時期が早くても、体の動きに対してやることが一つ先に進んでいても、しばしば反応状態を起こすことがございます。

道場に来ていた人ですが、道場に来ていながら他の人からも操法を受けて、そうしていたら急に熱が出て、膀胱の石がどんどん出るようになった。私は出ることがおかしかった。それは膀胱の人はほとんど愉気していると溶けて出るんです。それからD10を調べてみると、D10、D11が強くショックされている。これを強く推したのは誰かというのを聞いてみると、そういうことが判ったのですが、石があるのにそれを強いショックを与えると、溶けないうちに石が出てくる。早く出そうとして操法したのか、一生懸命操法したので、体の自然の動きよりも早く出ようとしたのか、ともかくそういう反応には、反応には相違ないけれども、何気なしに通ってしまう筈だったものが、急いで出すのを催促したので、固まったまま尿道を通ろうとして痛みだしてくる。急ぐべきでない、と話して、愉気しましたら溶けて出ましたけれども、そういうような事から次々と変動を引き起こすことがあります。

 

操法というものは、操法が先に立って相手の病気を引っ張っていくようなことは本当ではなくて、相手の徴候の変化に沿って操法を使って行けば、反応は極めて少ない。

相手の変化というよりは、相手の体力状況をいつも頭に入れて考えることが要る。

しかしそれでもなお、やり過ぎはあります。

それは熱を下げようとか、痛みを止めるとか、或ることに目的をもってやると、それ以外の処に対しては、やり過ぎになることをついやってしまう。

 

この間も、自分の頸椎四番を押さえて、その痛みを止める、と言って押さえていた人がいました。三日たったら逆の耳が痛くなった。それで私のところに来まして、私が「逆の耳が痛いのは治る前の時だ、逆側が痛いのは治るときだから、特別手当はいらないだろう」と言って首の強い調節をしないで帰しました。

そうしたら、その人を操法していた人が、頸がこっちに曲がったのだから、こっちから押さなくてはいかんと言って、また逆から押したのだそうです。そうしたらこっちが痛くなってきた。

八日目にここへきて、私は耳は済んだものと思っていた、三日で立ち直る予定でしたから。当人にも、もう二日間辛抱すれば治るから、手を出さないでいいと言ったんですが、なお痛いと言うから聞いてみたら、その人を操法した人が、またこっちから押したというんです。

骨というものは、まだ保つ力が出ないうちに動かすと、行き過ぎなのです。

ちょうどいい位置を保たせるのには、自然に丁度いい位置に治るように、体の他の状態が出来た時に調節すれば、その位置を保つんです。

それを逆になったから逆から押したというのは、体の性質を知らない人です。

こう曲がっていたらこれをトンと突くのです。勢いよくやると向こうへ行って戻らないが、トンと突くと戻ってくる。そういうように曲がっている方を押さないで、こちら側あトンとやって、これを戻すように操法しなければならないのです。

こう曲がっているからこっちから押す、足りないから足す、できものが出来ているからこれを除る、というような帳面づらだけを合わせるようなことをやると、却って毀してしまうのです。

人間の体のように、生きているというものは、品物と違って、分析したり帳面づらを合わせたり出来ないんです。

ここにできものが出来たから取ったら治ったのかというと、できもののできる体の傾向は治らない。だからまたそこに変動を起こす。

取るたびにもっと強い変動を起こすようになる。だから、出ているものを他の力で変えても、それでは治らないんです。

長く生き物を扱ってきていると、そういうことが判ってきて、生きものは品物を扱うのとは違った考え方でやらないと駄目なのだということが判ります。

人間の体の場合に、怪我をしたとか、すりむいたとかいう場合には、着物のほころびを繕うようにそこを押さえればいいんですが、瘍のように体の中から出てきたものと か、中から破れてきたとかいうものは、着物のつくろいとはまた別の考え方が要るのです。

例えば血液が足らなくなったから足したらいい、というのは体の事を知らない人たちです。足せば、血液を製造する力が鈍ってくる。インシュリンが足りないからそれを足すというのも同じで、人間の体にとってはそういう考えでやるとうまくいかない。

<足りないものは、もうちょっと足りなくすると増えてくる>のです。

<余ったものは、もうちょっと加えると捨てるようになる>のです。

足りないものは足りないところからもう一つ奪うと、その力が恢復するんです。

貧乏している人なら、もうちょっと困ると立ち直る力が出てくる。

それを取らないで、奪わないで与えると、最後の気力が起こせない。

起こせないだけでなくて、貧乏になる原因の心の動きがますます貧乏になる傾向に行ってしまう。つまりいつまでも他をあてにした生活をやめないということになる。

目の見えない人の杖を奪う、貧乏な人の食料を奪う、というのが人を活かす道だと。

起きかけたものを突き飛ばす。

・・・

自分の面子など構っていたら人の命など助けられやしない。

多くの人はそういう事を理解しないために、足りないものを足すというようなことが親切なことだと錯覚しているのです。

だけども、生きものの異常状態の時には、こうなったらこっちから押す、という方法はないのです。

こっちへ押して保っても、またすぐこうなって戻ってしまうのです。そうなるとなかなか元に戻らなくなる。

それをこっちからこう叩いて戻ってきたものは狂わないのです。

貧乏な人が、もう一つお金を奪われてしまって、そうして人に頼っては駄目だ、と自分の力で、みずから慎ましやかに自分の生活をするように、他人をあてにしないで、自分の力の範囲で生活することを考えるようになれば、それはもう真っすぐな安定した位置を保てるのです。

 

だから体のうえで、そういうような余分な親切、世間並みにいう親切、体の曲がっているのを治そうとする努力というものは、ともするとやり過ぎの中に入るんです。

・・・しかし帳面づらを合わせて助けるような行為も必要なことも時にはある。余りに気持ちが拘っている時に、それを取り去ると、次の苦しい事に耐える力が出てくる。だから一概に、全部こういうやりかただけを強引に強いては駄目なのです。

相手の中に、<自発的に良くなっていこうという気力>が起こって、こうやると戻ってくるのです。

 

ご承知のように、医者に通っている患者、いろいろな治療家のところに行っている患者というものは、無気力にそこに頼っているだけで、いわゆる患者なんです。だから、こうやっても戻る気力を持たないのです。

<病人>というのは、ともすると実験動物のように見られる。患者的状況に満足を感じ、あるいはそういうところにマゾヒズム的快感を持つようになっている人が多いのです。

血圧が低いなんていうと、何故だろうと言って慌てる。熱が低かったりすると何度でも測りなおす。それはもう、高いのが本当という考え方で、自分で自分を苦しめる事に快感を持っていると言っていい。それは<病人>になりきってしまっている。

血圧がすっかり下がれば、「今度高くなったらどうしよう」と思って、高くなった場合の用心を今からやるというような、そういうことに慣れておりますから、檻から出されると不安である。

その為に病気になっていたいというような、そういう共通した気持ちがあるんです。

 

患者の状態のままで<逆の操法>をやっても、当人に自発的な力がない限りは、それについてこられない。

そういう気力の無い、去勢されてしまった、いわゆる患者になってしまうような人は、「しっかりしろよ」と言うと、がっかりするんです。何を言っても、萎縮して、よりかかること以外は考えないんです。

そこで、病人のまま治療しては駄目だし、患者のままショックを与えても駄目だし、やっぱり患者の中に<まともな人間>を呼び起こしておかなくては意味がない。

 

だから頸の曲がったというのを治すということだけでも、相手の中にある<まともな人間>に呼びかけて、それを起こしておいて、起きてくるときにショックを与えなければ、トンと叩いたって戻らない。

病人のままでやると、ふにゃっとなる。そういうことでやり過ぎになっている場合もあるんです。

相手が患者で、医者にかかっているようなつもりで、よりかかっている。

自分で良くなっていこうと<決心>しない。ただよりかかり、遮二無二よりかかって、他人の大便の出ないの迄こっちで気張ってやらなければならないように仕向けられる。

こういうことは、やる人が、患者のなかから<まともな人間>を掴みださないからなんです。それではいけない。

 

ここの道場に来ている人達でも、他のお医者さんに行くと病人にされる人が沢山いるんです。ところが、ここに来ていると、病人にならないのです。何故かと言うと、活元運動をやって、自分で良くしようとするからです。そういう<心構えが>なければ、操法しても力が出てこないんです。

じゃあ活元運動をやれば皆自分の力で良くする力が出るかというと、そうではない。こんどは、活元運動によりかかったり、相手によりかかる手段として活元運動をしたりする。そういう人も沢山います。

だから、操法する我々が<まともな人間を見ている>ということが大事なことであって、相手を患者にしてしまわないことです。

 

私が操法して大過なく通ってこれたのは、相手を患者にしなかったことによります。

私は、相手を<整体の道を行く同志>だと思って開業しております。

相手を患者にしてしまうと、相手は萎縮してしまうのです。

私たちは病気治療を目的に操法をしているのではないのだから、相手が患者のままでは操法するわけにはいかないのです。

 

ところで、やり過ぎにもいろんなものがありますが、そういうやり過ぎが生じると、反応が起こるのです。その反応の一番多いのは<弛緩反応>です。

だるい、眠いといった反応は、弛緩反応としては一般的なもので、この程度のものはやり過ぎとみなすべきものではありません。

むしろそういった<弛緩反応>を通らないで、いきなり<排泄反応>になったり、急に発熱したりという場合が、やり過ぎの場合出てくるのです。

裡に病気があって、それが出てきたという場合は別ですよ、それはやり過ぎによって出てきた反応ではない。

だけれども、<弛緩反応>を起こさないうちに突然熱が出てきた、いきなり<排泄反応>に直行したという場合は、やり過ぎがある。

それは本来自然に起こる反応過程ではない。

 

<弛緩>、<過敏>、<排泄>という順に、体が熟して進んでいく、というのが自然の過程で、<排泄>を機会にすっかり体が変わってしまう、というのならよろしい。

操法のやり過ぎで、<排泄>が細々とあって、それが何度も繰り返されるというのは、操法する人がどこかで焦っていたのだと考えざるを得ない。

 

相手の体の経過に逆らった場合も、やり過ぎということが起こる。ただ操法のやり過ぎうことだけではない。また、相手の反応を手伝おうとしすぎたためにやり過ぎるということもある。

ともかく、受ける体とのマッチングの問題で、ピタッと行かない場合に、やり過ぎによる反応が起こってくる。

そういう<やり過ぎによる反応状態>はどうするかというと、まず<臍の下>に愉気をします。遮二無二そこに愉気を致します。そして次に、L5の両側、一側をじっと押さえて、これも愉気します。その二つの方法で、殆ど調節されます。早く経過してしまう。

やり過ぎて<過敏反応>となった場合は、後頭部をお湯で絞ったタオルで温めるとか、D8の左側をショックすることで、その経過を早めることができます。D9、D7、D8という副腎操法をやればもっといい。

 

潜伏していた病気が出てきた、という場合はそれらの方法ではいけません。

その場合には、その為には何もしない、ということが一番いい。

ただ、それらに共通しているのは、皆<腹部第一>が硬くなっている、<実>になっている。その場合<腹部第一>を押さえて、お腹の運動を誘導するようにすると、潜伏していたものが現われたものは、素直に経過するようになります。

 

体自体の恢復経路として<弛緩>が起こり、<過敏>が起こり、<排泄>に至るという場合には、何ら<反応>に対する操法は要りません。付け加えないで、今までやってきたことをそのままやっていけばいい。

変化が起こってきたからと、急いでもいけない。<反応>が起こったからといって愉気をもういっそう強くやったというのもいけない。

・・・

いろいろ出てきた徴候に惑わされないように、本態の動きを見失わないようにしなくてはいけない。

よく喉の病気 の場合に腎臓病や膀胱カタルになります。そういう場合にすぐに膀胱にばかり考えが行ってしまって、それを膀胱の病気と思ってしまうのですが、そういう場合に、喉にジッと愉気をしていると、自然にそういう経過を通ってしまうのです。だから、そういう経過を見失わないようにするということが大事であります。

 

そんなように、<反応の処理>ということは、操法の決め手になりますから、それを通ればガーッと丈夫になり、それが境になります。

ただ自然に沿ってきた場合には、それが余り目立たないということであります。

石も溶けて出る、どろどろした小便、濁った小便が出る。血液が出たとしても真っ赤になるようなのではない。

極めて自然に通っていく。

だけれども、どこからが<排泄>で、どこからが<弛緩>かというのは、その経過を丁寧に見たものには判る。でもそれは周りの人には誰も判らない。そういうように経過することが自然であります。

逆に反応らしく反応が起こったという場合には、何か隠れていたものが出るとか、やり過ぎの面とか、やる人の速度が受け手の体の変化より早過ぎるとかいう場合にそうなることが多い。

ですから、<反応の処理>という問題は十分に心して頂きたいと思う。

 

<排泄>反応の時に、足の内股の外側を、こう押していきます。割に早い力でそのように押して、お尻をこう持ち上げる、それで愉気をする。これがその<排泄反応>を非常に早く経過する方法であります。

<排泄反応>はあるが、もうひといきれがその人の体力では上手くいかない、ということがよくあるんですが、その時にこの内股を下に順々に押して行って、それからお尻を上にあげて愉気をする方法をとると、うまくいきます。

また、同様にD9、D7、D8の部分に愉気するという方法でも、<排泄反応>が早くなります。これらは生理的に促進する方法です。D9、D7、D8とくにD8の処理は重要で、<寒気がする>と変化が早く起こるのですが、それとD8とは一つの動きだからなのです。

 

この<反応>の問題というのは、丁寧にみていくと複雑で、体は順序に従って<弛緩>、<過敏>、<排泄>というふうに必ずしも経過しない。というか順序通りにいかない事のほうがむしろ多いのです。

 

操法して<反応>が起きないというのは下手なんです。ただ、そういう<反応>をあまり意識に上らないように経過する、というのが望ましい。

 

早く経過させようと思って、焦ってもいけない。

反応を経過しますと、殆どの場合、体が急に柔らかになってくる。

人間の体というのは、筋肉が全体に弾力があるのです。そうした弾力を<その根元で操るものとしての弾力>が在って、それが在るときはノーマルなんです、正常なんです。

その弾力のどこか一部分が硬くなると、筋肉の伸び縮みが行われなくなる。

そういう状態が、<不整体>なんです。

この状態が、<反応>を経過すると、それと同時に伸縮も恢復してくる。

背中が板のように強張っている人が、急に柔らかくなる。<反応>が起こったのに、そういうこわばりが残っている人は、<反応>をまた繰り返します。

 

体癖に十一種、十二種というのがありますが、十一種は少しの変化が余分に強く行われる、過敏反応といったものを起こします。それは感じすぎによる傾向によるもので、十一種の人が騒ぎ立てるのには乗らない方がよろしいと思います。

ただ、無視してしまうともっと悪くなります。その辺が十一種の難しいところですが、反応の経過そのものは割に早い。しかも激しく、感じ方が非常に強い。時に痙攣をおこすこともある。そうなると、急性の病気と区別がつき難くなる。急性病よりも激しい反応が起こることもある。

そういう十一種の激しい反応を収める方法は、額の第一を叩く,或いは押さえることで、そうしたレーリー現象を治めることが出来る。

 

一方の十二種が問題なんです。十二種は病気になるような体の正常な反応の働き自体が鈍っていますので、病気になるべき状態なのに病気になれない。筋肉の弾力がなくなって強張ってしまっている。ちょうど衣文かけに掛っている羽織のような恰好をして、体を触るとごつごつしている。こういう体を操法してもなかなか変化しない。

いったん変化しだすと、本人は硬い状態から柔らかい状態に変化してもそれを感じない。しかし突然<排泄反応>が起こる。いままで停滞していた胆石が出てきたり、急に四十度の熱が出たり、体中に発疹が出たりする。あるいは下痢がいつまでも続いて体が弱り切ったりといった激しい状態が起こる。

十二種というのは<無病病>ですが、そういう人に熱心に操法すると、そういった激しい状態が体のうちから起こってきます。反応として処理するよりは、一回病気になるというような過程を通る位に反応が激しいのです。それで中に何があるか判らない。いろいろの過敏にしたら体が保っていけないような条件を持っていることがよくあるんです。

それで私は体が鈍るということも、その人の体を保護する為になっているのではないだろうか。その通り反応を起こしたら間に合わない。もたないので鈍ってしまう。叱言を言われている人が、だんだん鈍くなるのと同じで、目が覚めたらばいてもたってもたまらなくなって、そこにいられなくなるかも知れない。そこで面の皮の方が鈍くなって、感じなくなって、そのまま暮らすというのではないだろうか。

十二種体癖には、そういうものと同じような傾向があるのです。

だから遮二無二、強引に愉気をして良くしようとして、余り操法の方を頼って攻めつけると、反応で持て余すようになる時期があるということであります。

こういう場合は、操法を出来るだけゆっくりし、一気に操法しないで、間を置いてポツリポツリと操法する。

・・・

体の中身が変わらないうちに、十二種の鈍りがのぞかれると、非常に始末が悪い。だから、体が治っていきながら鈍りがとれていくように操法しなければならない。

油断しているとボソッと死んでしまう。突然心臓麻痺を起こしたとか、心筋梗塞を起こしたとかいってバタッと死ぬようなのは、多く十二種体癖であります。突然脳溢血をおこすとか、肝硬変になるとか、癌になるというのも十二種体癖であります。

だからといって、それを焦ったり、操法の限りを尽くしたりして調節しようなんて思うと、そういう反応が激しく起こって、その反応の為に体を毀すというようなことも時にはあるのであります。

 

体が鈍くなっているのは、きっと鈍くなければ暮らしにくいものがある。頭が痙攣するというのは、これから上に疲労を入れないようにする方法に違いない。体が毀れるのを防ぐために痙攣をおこす。

癲癇を治そうとして遮二無二やると毀してしまう。むしろ、発作した時に治す。あるいは月に一度とか二度とかに調節していくほうが、毎日続けるよりは効果がある。

そういうようなことで、<反応の処理>というのは非常に難しいが、そのなかでも十二種体癖の反応の処理は難しい。

十一種は、その心の位置を変えるというだけで、スパッと経過したり、変え得たり致します。だからこれは心配がいらない。大袈裟にみえる反応の苦痛の中にも快感があって、その快感部分を開拓しさえすれば、ちっとも難しいことはない。

・・・

十二種のように体の鈍い人は、刺激を受け入れるのに都合の悪い面があるからそうなっているが、愉気をし、多少押さえて、入り口を作ってはまた愉気をして、そうして鈍りによって守られている部分が、そうした刺激を感じても大丈夫なような傾向をつくっていくという方法を操法のやり方としなければならない。それには間をあけてゆっくり操法をして、激しい操法を避けるということ、徐々に徐々に変えていくということが大事です。

 

体癖ということが判らなかったときは別として、今のように体癖問題が判ってきたので、私は十二種の反応の鈍い傾向の人に対しては、こちらが反応を起こすということに用心しなければならないことに注意しています。そういう傾向の人に余分な操法をすると、その受け入れが悪いので、激しい反応をおこすことや、その反応でかえって体を毀すという傾向のある体であること、そういう体があるということを意識するために、十二種という名前をつけているわけです。

異常があるのに感じない、弾力が無くなって硬直している、体中が強張っている、十年に一度病気をするとかするぐらいで、普段はあまり異常を感じない、そういう体の傾向を持った人がいる。

異常を感じないのには感じないだけの理由があるのです。

異常を感じない人を操法するということは、相当の冒険があるのです。けれども、丁寧に考えれば、感じるべき異常を持ちながら、しかし感じない体になっているという傾向の人がいるということを知って、そのうえで操法を慎むということは一番大事なことであります。

 

操法に限りませんが、いろんな技術は、すべて慎んで、相手の体に合うように使うことが大事であります。

普段は鈍いのに、それが反応を起こして、排泄反応や過敏反応を起こしたというときは、慌てないで、一息入れて休めるくらいのつもりが大事であります。

それには、愉気だけして、特に側頭部の愉気だけして、それ以上の処理を行わないようにする。そういう場合は、一応そういう反応過程を鎮めて、それに愉気をしてその反応にブレーキをかける。

 

十二種以外はどんどん突き進んで大丈夫です。反応が起こっても、もう一つ、もう一つとやって大丈夫です。

十二種はポックリ死ぬ特徴があり、あるところまで耐えていて、これは耐えられると思っていると、ゴソッと駄目になったりする。そういう為にきっと保護がいるのだと思うのです。保護として麻痺が起こるのにはそういう理由がある。

・・・

反応だからといって、全部がい安全無事とは限らない。だから十二種体癖の反応というものについて特に注意を促したいと思います。

まあ、それさえ出来ればあとは別段皆さんの技術で、今まで習ってきたことを、相手の体に合うように用いて、適応を心がければ大丈夫だと思うのですが、<治る>ということは、たとえば花の咲くのを待つような、そういう心掛けが大事で、花を指先で開かせようとしてはならない。稲の穂が早く伸びないと言って引っ張ってしまって、根こそぎにしてしまうというようなのは下手な人達です。

まあ、<待つ>ということがいちばんであります。

特に我々は、体を造っている体の中の<野蛮>な素質を呼びおこす、それだけが仕事なので、<経過する>ことについては、我々の仕事の範囲外のことなのです。

<野蛮な素質、<野蛮な力>を呼び起こす。相手の持っている体力を十二分に発揮するようにすることが我々の仕事ですから、大いにやったらいい。その他については、<待つ>ということが一番大事である。

 

私が操法をし出してから四十年、何をしてきたかというと、<待つ>ということです。

それは懐手して待っているのではないのです。

産後に骨盤がこう寄ってきてこうなったらすぐ起こす。ここだと思ったらすぐ押さえる。そういう急所をきちんと見定められるような状態で<待つ>ということです。

自分の方から積極的に相手に働きかけるというのではなく、相手の体の力で相手の体が変化してきて、はじめて操法を受け入れる時期が生まれる。相手の体が作り出したその時期を見つけて、がっと集注する。

気を通してなければ、その時期は判らないんです。

だから相手に気を通して、<待つ>。

そうして相手の受け入れ態勢の変化を素早く掴まえて、その処理をする。

だけど余分にはやらない。

終えたら、また<待つ>。

だんだん上手になってくると、<待つ>ということが技術として身についてくる。

我々が<待つ>というのは、技術として<待つ>ということです。懐手して待っているというのは技術ではない。

 

こんな話が出来るのも、二十年間待ったからです。二十年前にこんな話をしたって、どなたも判らない。操法する場合も同じで、まあそういう点では私は待つことが一番上手だと言えると思うのです。だけどもそこに肥料をやるべき時には肥料をやる。

水をやるべき時には水をやり、葉の手入れが必要な時には手入れをする。

そうして待っているのです。

特に待つという心構えが、十二種体癖の場合は特に大事で、相手の変化よりも一歩でも早くいじると、危険があるのです。遅れて、遅れて、鈍い相手よりももっと遅れて。

鈍くなっていなければならないという事は辛い事ですけれども、十二種体癖には特に待つという問題を注意して頂きたい。

 

以上、これだけでこの高等講座を終わろうと思います。

大変長い間ご清聴頂きました。

しかし、これで終えて無事だろうかというと、恐いです。

まだいろんな知っておかなければならない事もあろうし、そうして皆さんの技術程度も知らなくてはならない。

この次の十四日に、筆記試験の題を出します。

皆さまで、いい答えを出して頂きたいと思います。

(終)

 

(参考)

筆記試験問題

1. 整体とは何か

2. 潜在体力の呼び出し方

3. 各種体癖の特徴

4. 体癖修正とはどんなことか