「整体操法高等講座」を読む<29> 気

野口晴胤氏の『平均化訓練』(春秋社 2019.6.22 初版発行)を読んだ感想をメモしておこうと思う。

表紙の帯に「<本当の健康>に目覚める。野口晴哉の整体法を受け継ぐ、身体訓練法「平均化訓練」とは。全身を十全に連動させて、心と体の健康を実現する、その実践と哲学にせまる。」とある。また、その帯の裏には「・・・平均化訓練では体操を通して、無意識のうちに眠らせている筋肉に気づき、それが自ずから働くような運動を意識的に学習し、その運動がまた無意識化されるように訓練していくのです。・・・」とある。

そして著者野口晴胤氏のプロフィールには「一九七三年生まれ。20代の頃より、整体創始者である祖父、野口晴哉の整体法を学ぶ。その研究を元に考案した身体訓練法を、平均化訓練と称して、現在、指導にあたっている。」とある。

本書の発行日が野口晴哉氏の命日、6.22であることも印象的だが、本書を読んで何より印象が強かったのは、晴胤氏の文体というか、そのワ―ディングである。

晴胤氏は、本書の中で<引用>ということを全くしていない。全てが、晴胤氏自身のことばのみによって構成されている。これは本書の大きな特徴の一つと言える。

出版元が全生社や筑摩書房でないという点も、整体協会との距離感ゆえのことなのだろうか。また、「月刊全生(2019.6月号)」の「全国整体指導室一覧」には狛江市で整体指導室をおこなっているとあるので、本書のプロフィールにその記載があってもよいはずだが、それがない、ということも本書の位置づけとか、晴胤氏の隠された意思のようなものを象徴しているように思われる。

春秋社による帯やプロファイルには「野口晴哉」とか「整体法」の表現があるが、晴胤氏の文中には、一度も出てこない。当然、「整体協会」の文字もそこにはない。

 氏は、<活元運動>とか<錐体外路系>とか<気>とか<体癖>いう整体法固有の表現を全く使わない。またそれらについての原典からの<引用>もしない。

氏が用いるのは<無意識>とか<緊張>とか<働きすぎる筋肉・ほとんど働かない筋肉>とか、<偏り運動>とかいうある意味で一般化されたことばだけを使って、野口整体の精髄を、だれにもわかるようなかたちで表現しようと格闘している姿がそこに透けて見えてくる。

明らかにこうした格闘の姿は、晴胤氏の現在の整体法や整体協会に対する、自らのスタンスの表明以外に考えられないものである。

つまり、祖父の言葉遣いを、そのままオウムのように再現することへの強い忌避の感覚があるために、晴胤氏の本書でのこうしたワーディングを選択させたのであろう。

だから本書は、晴胤氏による、野口整体法理解の一つの方法として、自分のことばで表現したものだ、と言っていいだろう。また、そうすることで、整体協会とか整体法という現実的な関係性から一旦自由になった、素の人間として、人間の身体のもつ深淵に直接向き合うという視点も獲得できているのだといえよう。

平均化訓練という方法や思想が、実際にどのようなものかを全く知らない私が、本書を読んだ第一印象として書けることは以上の事ぐらいだと思う。

 

さて、本題に戻ることにします。今回の「講座を読む」は、野口晴哉氏の不思議満載の内容で、<野口整体を愉しむ>という本ブログのタイトルにふさわしい、愉しさに溢れています。私たちは、audio visualというか、極めて高度な視覚・聴覚を駆使した世界をネット等を通じて堪能できる時代に生きているわけですが、<触覚>や<気>の世界、あるいは、<生命>の世界といったものについては、いまだ原初的な段階でしか愉しむことが出来ていません。ところが、野口氏は、ひょっとすると、相当高度な水準で、これらの世界を自らの裡に取り込み、堪能し、愉しんでいたのかも知れません。それはいまだ多くの人にとっては未知の、不思議に満ちた世界であり、いつの日か現代世界の視聴覚世界に匹敵する密度をもって享受されるかも知れないと思えるものです。

そんな新たな世界の入り口を、この講座は示唆してくれているのではないか。私を魅惑して離さない万華鏡のような彩りは、野口氏の語りの息遣いにいつも好奇心に満ちた、密度の濃い<命>のことばとして鳴り響いています。

そして思想的に何よりも優れた点は、ある意味で<彼岸>とでもいうべき、野口氏の到達した誰も見たことのない高みから、下界を見下ろすように言葉を発するのではなく、つまりその高みに決してとどまることなく、われわれの今いる<此岸>に、静かに着地するためにその言葉を発している、という態度や方法にあると思われます。

 

整体操法高等講座」<29> 気 (1968.4.15)

安岡章太郎さんが、追突されてムチウチ症を起こして、首を毀したと言って、ご夫婦でここへ来られました。安岡さんは昔に脊椎カリエスをやったという痕があって、背中がこう盛り上がってしまっている。

首を毀したといっても、毀れたものは治る。<治る勢い>というものは、それまで何でもない処にけがをして毀した時には、その勢いは、かなり猛烈に出てきます。

それで、毀した首を治そうとする安岡さんのその勢いを、首だけでなく、盛り上がったD9を引っ込めてしまおう、と計画をたてました。・・・

もともと、私のやっていることは、病気になったと言ってきた人に対して、その病気をどう利用すれば、他の場所の異常も正常にできるか、丈夫にすることができるか、ということを考えてやってきました。

そうやってみると、人によっていろいろな治し方がある。

体に変動があった時に、その変動が正常に立ち直っていく力を利用して、以前からあった体の故障を治す。つまり整体の為に変動を利用するというのが、整体協会でやっている事の一番の特徴であります。

だから病気を治療するということがあったとしても、他でいう治療とは違うのです。

体力を発揮して、整体を保つためにそういう病気を利用するだけなんです。

そういうことは、言葉を聞いて判ったといっても、それが本当に判ったということは少ない。死ぬ間際になって、初めて本当に判るという人が多いんです。

だから普段は効果がなくても、いよいよ土壇場に追い詰められると、フッと効いてきて、私の指示したように動いていき、それで健康を回復するという人が非常に多いんです。

私の信用なんていうのは、大部分は死に際の人を助け起こしたということで出来上がっているので、普段風邪を治すといったって、風邪薬のように鮮やかにはいきません。痛みを止めるのでもモルヒネのように鮮やかにはいきません。

喘息を治すということだって、薬なら発作を止めるだけだけれど、その次に発作が出なくなるとか、止まるたびに体が変わってきて、喘息の体がなくなっていくというようなことは薬ではないので、そういう差というものは、口で言っただけでは出来ないし、納得もされない。

ところが、ほおっておけば死ぬという間際になって、相手が追い詰められて、そういうことを悟って立ち上がると、それが目に見えるんです。昔からそういう事が多いので、死に際になるとみな私を思い出すらしい。

私にとっては、死に際であってもやっていることは同じです。その人の最後の気力を呼び起こす。ほかに何も望むことがなければ、死ぬということが決まっていれば、その人が自分の力として使える力はそれだけ大きくなる。無駄がない。それでそういう力を使いますと、起きてくる人が多いんです。

実際に私は病気を治したとは思っていない。その人の最後の力を振りかざしてその人自身で立ち上がった。

だからそこに一つ妙な事が入ると、バタッと死んでしまうのです。それはもう、そうなったら綱渡りをしている時の対決みたいなもので、ちょっと雑念を起こしたら落っこちてしまう。だから死に際になってちょっと乱すとガタンと落ちる。そういうのは、やっているものとして難しい問題なのですけれど。

皆、間際になって最後の力を起こすという時に、その人が何か一本浮いている藁でもつかもうとすると、そこでガタンと参ってしまう。そういうことをこちらは沢山見ておりますから、なお掴ませたくない。掴ませたくないが、藁を見せる必要がある。まあいろいろ危ないことをやってまいりましたが、何故なにも武器を使わないで僕が、全部の人が駄目だというのを生かしうるのだろうかというと、そういう力を気をちっとも乱さないで、スーッと<気の向きを変える>からなんです。

心の向きは固定していて変わらないんです。その時になって説得しても駄目なんです。体も弱ってしまって、体操せよ言ったって出来やしない。その<気の向きを変える>というそれだけなんです。

死ぬか生きるかという場合に、私のやることは<気の向きを変える>ということなんです。あとはその人に体力があれば生きるし、無ければ生きない。

そういう死に際には、注射をしたり、薬を飲ませたり、指で押したりいろいろやるが、それがその人にとって良いということは少ない。暗示だって、死に際の人にとってはショックになる。

ところが、<気の向きを変える>ということは、体の面でも心の面でも殆ど無刺激で、いつ気の方向が変わったか、ということすら判らない。そういう段階で変わっていく。だから一応、死に際の人に対して、そういうことをやってみるべきだと思っているのです。大部分の人はそれで助かる。

普段の治療法も、死に際にやることと同じことを使うべきだと思っていますし、私はそういう生きるか死ぬかという時に、<気の方向を変える>事をもって、唯一の方法とします。普段の操法においても、<気の方向を変える>ということを唯一無二の操法としております。

指で押さえるのではない。

指で押さえるなんていうのは、体操の延長のようなものであります。暗示を与えるというのでも、それには限界がありまして、変わりうるものの範囲は決まっております。暗示で病気になっているという面も、その逆に、暗示で病気が治るということ以上に多いのでありますから、暗示から覚ますことの方が至当な場合も多いのであります。

いよいよという時に施すのは、<気を変える>ということなのです。

 

・・・私の整体指導のコツは、その一番の終点は、相手の気を変えるということであります。その気を変えるための方法は、<相手の気に言う>のです。言葉も指も使わない。

人間は、他人の気を受けると、自分の気も動いていく、気が変わっていくというように本来出来ているんです。

その気を変えるという条件は、相手が不調で切羽詰まっているといった、緊張した一瞬で、その時機が最も変えやすいのです。

いざという時には、相手の心がまとまっているので、気を全面的に変えうるのです。だから迫っている死を利用して、それを生きる力に変えるとか、今の毀れたところを、相手が「しまった」と思ってそれに対して恐怖し抜いていれば、それを使って古い体の故障を治すとか、今の煩悶を使って他のいろんな煩悶に耐える力を取り出すとかいう、追い詰められないうちは使えないものも、使えるのです。

土壇場になると、<気>が使える。

そういう時に変えたものは、体に一番大きな力をもたらす。

いよいよ気が動かなくなって、気が閊えてしまっている時に変えると、フワッと転換する。ところが、転換したものを又ここで気を詰めるようなことをすると、閊えてしまうのですが、それさえなければ転換してサッとその通り流れてしまう。

だから、一旦変わりだしたならば、今度は周りの影響を被らないように注意します。そしてその後の経過を見守ります。

いろんな技術の限りを尽くしてもうまくいけなかったものが、それだけで変わるんです。

これはもう長くやっておりますと、それを見た人はみな不思議がって、専門家も素人も皆不思議だと言います。

私の技術が、気を変えることだ、ということが判っている人でも、気が変わっただけでこんなに変わるんだろうか、と不思議に思う。いや、気を変えるとそうなるだろうと予想している私自身ですらも、不思議でしようがないんです。

・・・

気が変わると、物も心も変わってくる。私は整体指導の一番大事な、つまり核心、最後のポイントとして<気>ということ、<気を変える>ということを、みなさんに<技術として>お伝えしようと思うのです。

 

ただ、<気>が意識的なものならば、技術として扱うことが出来るんですが、それは見えないものなんです。物ではないのです。だから意識ではどうにもならない。

だけれども、死ぬか生きるかという切羽詰まった時になると、<技術として使う>ことは易しいんです。

 

切羽詰まった状態の時、相手の<気>の向いている処があるんです。それが感じられないのでは駄目ですけれど。

 

昨日の講座でやりましたように、<気を交換する>、<他人の背骨で呼吸する>ということは、相手の代りになって気を動かしていく、という技術なのです。

<自分の背骨で呼吸する>、それは誰でも出来る。<自分の手で呼吸する>、これも皆やっていますから出来る。<他人の手で呼吸する>とか<他人の背骨で呼吸する>ということななると難しいんです。

難しいけれども、それが出来なければ、他人の力を強くしたり、他人の気を変えたりするわけにはいかない。

そこで中等講座で<他人の背骨で呼吸する>というのをやりました。

その練習の目的は、相手の気の集まる処を見る、という感覚を増す為の手段として使っただけで、生きるか死ぬかの人を助ける技術としてやったわけではないのです。

しかし、人の背骨で呼吸する、人の手で呼吸する、人の頭で呼吸するというそういう技術を、普段にやっておりますと、<自分の背骨で呼吸する>、<自分の手で呼吸する>、<手から愉気する>、<目から愉気する>、<遠くの事を自分の頭で描いて、その空想に向かって愉気をする>というような事以外に、そういう<気を相手に移す>ということが出来るようになってきます。そうなれば、<他人の体で呼吸する>ということも出来るわけなんです。

私がやりますのは、それだけなんです。愉気ではないんです。気を送り込むのではないんです。<他人の背骨で自分の呼吸をする>んです。

他人の呼吸は頼りにならないんです。

<他人の背骨で、自分の呼吸をする>。

<他人の頭で自分の呼吸をする>、特に相手の<眉間>で自分の呼吸をします。

 

だから土壇場になると、あっちこっちいじらないで、じっと構えてそういう呼吸をいたします。<相手の閊えている処>で呼吸をします。それで<気>が通らなければ、相手は死ぬだけです。<気>が通れば生きるんです。

こういうことを言うと、魔術のようですけれども、本当に土壇場になると、理屈の通らない事が沢山出てくるんです。

 

まあいずれにしても、そういう最後の土壇場に<気>を変えるということ、相手の背骨で呼吸するということ。

相手の頭から腰まで息を吐いていくと、それが相手の<行動する力>になるんです。

相手の腰から息を吸って、それを上にあげてしまうと、相手はモヤモヤしてくるんです。モヤモヤしてくるときにそれをやると、スッキリと方向が決められるんです。

だから下から吸って、頭へ吐くか、上から吸って腰から吐くか、というそれだけなんです。

でも、こういうことは、目に見えないし、やったかやらなかったか誰にも判らない。だけれども、<気>というものは、そのように使えるんです。

よく、気絶した人に<活>を入れたりしますが、死に際にはそれをやるわけではない。<活>以上のものをやらなければ、死に際の人の<全体の動き>を変えることは出来ないんです。

 

この<背骨で呼吸する>ということは、いくらやっているところを見ていても判らないんです。だから何で良くなってしまったのか、誰にも判らないんです。

そして私には不思議な力があるからだと空想で思われているんですが、普段は出しても判らないそういう力が、土壇場になるとガーッと出てくる、それは面白いものです。

 

土壇場で、相手の中に<一つ光を求める気持ち>が残っていれば、それからそれに<気>を通せば、そこにフッと力が出てくるんです。

だから最後の問題にはそれだけでいいんです。もう<気>を通せば生きてくる。

<気>がそれまでと変わった方向に動き出してくれば、あとはいろいろやらなくていいんです。

ただ見ているだけで、どんどん元よりももっと高いところまで行ってしまいます。土壇場まで行っていない人は、そういう風には引き返すことが出来ない。

人間の<土壇場の決心>、背水の陣と言いますか、火事場に見せる非常力といったもの、到底運び出せないような重いものを持ち出すような力、そういうもの以上の大きな力が、<命の土壇場>という場面では出てくるのです。それは土壇場まで追い詰められないと出てこない。

その土壇場まで行ったときに<気>を通すと、スッと<気の方向>が変わるんです。そういうふうに変わるのも、相手の力によるものです。だから相手が土壇場まで追い込まれていないと駄目なんです。

 

だから普段に<他人の背骨で呼吸する>ということを練習し、身に着けていないと、いざという時に役に立たないんです、間に合わない。

そのコツを身に着けますと、やる人自身の考え方も変わってきます。

相手に<気>を通す場合、やはり<天心>というか、純粋な<気>を通さなければならない。そのためには、鍛錬が必要です。

鍛錬していない人に、こういう技術を伝えていいのだろうか?もちろん、伝えるべきではないと思う。

まあ、そんなわけで、今日まで鍛錬した人に出会わなかったもで、伝えることをいませんでした。

今日の講座で、本当はその技術を伝えるべきだとは思うのですが、鍛錬の無い人に形だけ教えたってしょうがない。

 

で、今日はまず、<自分の背骨で呼吸する>ということをやって、それで<気>が通ったら、今度は<相手の背骨で呼吸する>ということをやり、それが出来たら、離れて<相手の背骨で呼吸する>ということを練習しておきます。

<相手の背骨で呼吸する>と相手が変わってきます。気の弱い、病気を恐がっている人が、俄然強くなってきます。あたかも追い詰められた人が活路を見出したような、そういう気力が起こってきます。

愉気>ということでも相手に力を与えますが、この<相手の背骨で呼吸する>ということは<愉気>すること以上の力を、相手に引き起こします。ただ呼吸して<気>を通すだけなんです。

そういうことで、一緒にやりあってみましょう。

・・・

高等講座の講習を終えるに際して、一応この<最後の土壇場に出す力をどう発揮するか>という方法を知っておくことは、高等技術としての一番の終点であります。

これは我々のやることが、毀れたことを利用して、ずっと前の毀れを治していく。これの閊えている事を利用して、次の閊えを強くしていくという性質があるのだと判った人が、相手の背骨で呼吸すれば、<気>を通しさえすれば、そういうように働けるのだということを判る筈なんです。

判ってきて<気>を通すと変わるんです。

今までやってきた<愉気>というのは、<愉気>すること自体の力なんですが、これは<愉気>の気を送る肺呼吸をする背景にある自分と、送られた相手の背景にある、土壇場に追い詰められて最後の力を振り絞ろうとしている力、ふっとまとまった力というものとが一緒になると変わってくるのです。自分と相手とが<感応同行>してそこに出てくるんです。

 

まあ、やってみましょう。

中合わせに二列に並んでください。

やる前と、やった後で、ほんの短い時間ですけれども違いますね。

体そのものも変わってきます。

これをもっと長い時間やりますと、もっと変わってくるんです。

相手によって、変わり方に違いがあれば、それは相手の気の通し方に優劣があったわけです。

気の乱れている人や、気の合わない人とやって上手くいかないことがあります。

私ははじめ女の人と組み、次は男の人とでしたが、両方とも気は同じように通りましたが、女の人のは強くはっきりしていたのですが、男の人のは茫洋とした気でした。

そのように気には人によってその質が違っていますが、呼吸するということでは、同じように感じました。

お互いに組んで、気を通しあってみると、変わるんです。

では、今組んでいた人同士でもう一回組んでいただきます。

組んで、位置を変えないで、離れて、背中をくっつけないで、一方が受ける側に、他方がやる方に廻って、相手の背中で呼吸します。

受ける方は、目をつぶってそーっとしておいてください。

仰向けになってやっても結構です。

それで背骨に気を通して、通ったか通らなかったかをやっている人が見る。

受ける人は、腰まで暖かくなるかどうかを見る。少し汗ばんでくるのが普通です。

座ってそれをやると、活元運動が起こります。

気を通すのに一番判りやすいのは坐ってやる場合です。活元運動が出やすい。

指でやっても出ます。

病気の場合には、その活元運動が体の中に出てきて、中の変動になります。

いずれにしても、離れていても気は通せる筈なんです。

それを一つやりあっておきたいと思います。

どうぞ、気の通りやすいと思った人と組んでください。

受ける人は目をつぶる。やる側の人は、相手の<眉間>を見る。

<眉間>から背骨にフッと息を通す。

 下からこう通すと、活元運動が出てしまいます。上から通すと、落ち着いて、だんだん体の中に変化が来ます。

自分の気を相手に伝えるのではないのです。

一生懸命こんなやっているのは違うのです。

相手の呼吸で、自分の呼吸をする。

そのコツを一つお覚えください。

気を送るのではないのです。

ただ相手の背骨で自分の呼吸をするんです。

相手の感じを変えるためにやるのではないのです。

どうぞおやり下さい。

大体うまくいっているようです。

運動の出る人もおりましたし、背骨の充ちていく人もおりました。

やる方が、やはり相手の事を目をつぶって空想して描いていくということは、相手に精神が集注しないと描けないんです。

見ているよりは、相手を描いて背骨で呼吸する方がもっとうまくいきます。

対象を一生懸命見るよりは、その方がいいです。

近くにいれば見てでもいいが、遠く離れていれば見えないのですから、目をつぶって、そうして対象が完全に描けるようになって、それから呼吸する。

そうすると、相手に心が集まって、それから背骨に呼吸を通すということになるわけです。

心に描き切れないうちに背骨に呼吸を通そうとしてもできないし、そうすると却って乱れるんです。

もうそれぐらいに思い詰めなくてはいけない。

わざわざ思い出そうとしないのに、相手の顔がすっと思い浮かべられるようになれば、もう<気>は通っているのです。そこで呼吸すると、相手の<気>に変化が起こります。

ただ、左右型の人は右だけ温かく感じて、左は感じが鈍いとか、前後だと顔の前だけ感じて背骨は感じないとか、開閉だと腰が暖かく感じるとか、上下は感じないとか、いろいろ独特の感じ方はあります。

だから、たとえば腎臓を治すのだとか、呼吸器を治すのだとかといってそこに愉気をしなくてもいいのです。

背骨に気を通すと、相手のそれぞれの体の特性に応じて、その体に<感応>が起こって、治っていく。

だからただ、相手の為に呼吸するだけでいいんです。

こうしよう、ああしようと思わなくていい。

気を通すだけで、こうする、ああするという考えを相手に送らない方がいいんです。

ただ背骨に息を通す、それだけなんです。

他は何も考えない。

相手の姿を思い描いて、その背骨で呼吸する。

体を丈夫にする、ということを目標にする場合は、ただそれだけでいいのです。

 

私は、病人を頼まれて、その人は土壇場でもう死ぬか生きるかの状態で、そばに行って、相手の背骨に呼吸をします。三つ四つすると、相手の呼吸が俄然静かになります。

苦しんでいる人ほど早く静かになります。周りにいる人にもそれが判る。

急に静かになれば、良くなったと考えます。

息を通している間は、顔色もどんどん良くなります。呼吸も静かになり、すっかり落ち着いてくる。

そして私が帰って、息を通さなくなってしばらくすると、また前の状態に戻る人もあります。それは死ぬ人です。

その逆に、すっかり落ち着き、静かになったのをきっかけに生きてくる。ずっとその時の呼吸が続いて保つのです。

そういう事から言うと、愉気されている人は、愉気している人の呼吸になる、と言えると思うのです。

 

それから、思い病人の時ほど、その変化は激しくて、みるみるうちに変わってくる。面白いほどです。

私は長い間、死に際の人を見たことがないんです。

私が傍にいる間、相手は死なないからです。

相手の背骨で呼吸していると、死なないのです。

私が離れて、しばらくしてから皆死ぬのです。

これは慣れるとそれが当たり前になってしまって、「生きていたいのなら、ここに居てやろうか」などとつい言ってしまうのです。

すると本当にそうなんです。

面白いです。

しかしまあ、いよいよという相手に、いろんな技術や型などの余地がなくなった時には、<気の術>というのは非常に頼りになる。

そして見事なものだとということがお判りになれると思います。

どうぞ普段から訓練して、本当に相手の背骨で呼吸出来るようになってくると、相手はフッと変わります。

重い病人や、呼吸の乱れている人の背骨で呼吸してみると、相手がオヤッという間に、スッと変わり落ち着いて来ます。

 

いよいよという時、最終は気の問題であります。

<気を移し、相手で呼吸する>ということが一番大事なことだということをよくお覚えになって頂き、これがまあ高等講座の結論だと、そうお考え頂ければよろしゅうございます。もう一回、背骨以外のところで呼吸するということと、その使い方をしたいと思います。

これだけに致します。

 

<終>

 

 

 

 

つづく