野口整体を愉しむ(再録119)野口整体との出会い

野口整体との出会い

私と野口整体との出会いは、ヨガと整体をともに追求されていた岡島氏を知り、経堂に氏をお尋ねし、講演を依頼したことがきっかけとなっている。
岡島氏の著作や機関誌から、新しい視点の沖ヨガ像が得られるのではないか、その期待からの講演依頼であった。
中学時代からずっと興味をもっていた沖ヨガに、整体という耳慣れない領域を融合しようとしているらしいことに新鮮なイメージを抱いたのである。
講演で整体について熱く語る岡島氏や内弟子の方々の活元運動の異様さに驚き、その後に読んだ著作を通じて、はじめて整体の主張を間接的に知ることができたのだった。
大学卒業後に就職した銀行員生活にまるでなじむことができず、傷心のうちに退職した私は、一目散に三島のヨガ道場に駆け込み入門したのだった。
1年間研修生として道場生活をしようと意気込んで家を出たのであったが、あろうことか入門から一週間もたたないある朝、三島の沖ヨガ道場が火事で全焼してしまったのであった。地元からわざわざ父に運んできてもらった貴重なヨガ文献や衣服をすべて失ってしまった。
残念なことに、この火災で研修生の女性がお亡くなりになり、密葬を終えたあと、全員が道場を去ることになった。私は行くあてもなく東京の知人宅に転がり込むことになった。
今でも消防団の制止もきかず、燃えさかる炎のなかで研修生をひょうひょうと探しまわる沖先生の姿が目に浮かんでくる。同時に、当時研修に参加していた竹内演劇研究所の人たちと水風呂で語り合ったことなども思い起こされる。龍村氏はその後道場主になられたと聞くが、井上氏や南氏はその後どうされたのだろうか。
随分あとで知ったのだが、沖氏は野口氏のもとで学んでいたことがあるという。確かに、今思うと個人指導は整体のそれに近かったように思う。
火事の前夜、沖先生が研修生数名を残して、あとの30名ほどの参加者全員に、まだ建設途中の沢地の新道場に急遽移動するよう命じたのだが、このことは今でも不思議である。虫の知らせだったのだろうか。
翌朝、三島道場が出火しているとの報をうけて、みなで急いで乗り込んだトラックの荷台から、遠く赤黒い炎が立ち上っているのが見えた。夢をみているのかと思えるその時の情景が、けたたましい消防車のサイレンの響きとともに強く脳裏に染み付いている。私の沖ヨガ生活は、その日に終わったと言える。

これは余談だが、その後私は東京から地元に戻り、再就職した私立大学で、ある講演会を企画したことがあった。依頼のため何度も竹内敏晴氏のご自宅に伺い、その打ち合わせをしたのだが、講演会が終わった打ち上げの席上、野口整体についても何度か話題にのぼったのだった。あの日私が沖ヨガ道場で出会った、竹内演劇研究所の井上、南、龍村の三氏のことが話題にのぼることもあったのである。何より驚いたのは、竹内氏が野口整体のことや整体協会のことを、とてもよくご存知だったことである。また甲野善紀氏に関するお話もとても興味深かった。
そんなふうに、私は沖正弘氏、岡島治夫氏とのつながりから野口整体に出会ったわけである。そしてしばらくして、妻と共に整体協会に入会した。ほぼ同時に支部に入会し、支部長主催の活元会や研究会にも参加し、若手で立ち上げた研究会や勉強会をおこなったりもしたわけである。
初めて参加した瀬田本部道場の講習会での講師は、細めの黒いネクタイにスーツ姿の裕之氏だった。野口晴哉先生亡き後の若き指導者の一人として溌溂と話されていた、そのお話の面白い事、最前列で妻と大笑いしたことが思い出される。
先回触れたI先生とはじめて出会ったのは箱根での本部講習会だった。野口晴哉記念館見学もそのときのことであった。
以上、私と整体との出会いについての駄文でした。