野口整体を愉しむ(再録4)野口裕之氏の論文に学ぶ

野口裕之氏の論文に学ぶ

「月刊全生」最新号(平成31年2月号)が昨日届けられた。そこに「生きること死ぬこと-日本の自壊ー」の先月号に次ぐ完結編がある。これは「教育哲学研究」第89号(2004年5月)に掲載された野口裕之氏のシンポジウムでの発表論文の再掲である。

明治維新以降の百四十年間、間断なく施行され続けてきた国策、それを裕之氏は「欧化啓蒙政策」と呼び、それが齎したものを次のように要約する。
「その国策とは、日本人の伝統的な生命観、身体観・自然観を根源的に崩壊せしめた」ものであると。
そして氏は、この政策の行きつく果てに、日本文化そのものの衰弱と消滅があることを諸事例を示しながら、それら無くなりつつある日本の文化を哀惜し、心の底から悔しがっている。
氏は、この教育哲学会でのシンポジウムの為に準備したレジュメの中で、<文化の形成>について次のように記述している。
「文化は、観測や分析、実験や論証などといった理知の営為から把握され、表記される客観的事実の集合によって、形成されていくものなのではない。寧ろ、空疎な客観的事実を歪曲する能力によって形成されるものである。」
「人生に於いて最も確かな客観的事実は、「我々は刻々と死につつある」ということであり、この最も確かで空疎な客観的事実を、「刻々に生きている」と歪曲する能力こそ文化の形成の本義と言わねばなるまい。」と。

そしてまた、今日われわれの誰もが容認し違和さえ覚えない、死をかたちどる我が国の病院にみられる機械的、科学的死の風景に、我が国の文化の自壊を予感している。
こうした裕之氏の考えは、氏が整体協会の中に在って、それから相対的に自立しながら探求してきた「内観的身体」とその技法やその体系化という課題の、基本的思想となっていると言っていいのではないか。
それは同時に、野口晴哉氏の指し示そうとした整体法の諸言説の意味を、晴哉氏の生きた時代とは随分異なってしまった現代という時代性の中で架橋しようとした裕之氏の、渾身の近代科学思想批判であり、日本文化論となっていると私には思われる。
そこで最も問われているのは、<自然>というものとどのように対峙すべきかということでもある。「欧化啓蒙思想」が標榜するのは、<自然>の加工であり、<自然>の人工化である。<自然>を<自然>として扱ってきた長い人間の歴史の中で、<近代>は加工という特異な態度で<自然>に対峙してきた。少しでも楽をしたい、少しでも労働の手を省きたいとして飽くなき<自然>の加工に勤しんできた。その行きつく果てに、伝統的な生命観、身体観・自然観の消滅さえも招きかねない事態になったのではないか、そう裕之氏は言っていると思う。いや、もう少し強く<消滅>というイメージでそれを語っているようにも思えるが・・・

野口整体、とりわけ整体操法の思想が、裕之氏の言う「自然を自然として扱う」とか「自然を自然に導こうとする」技法であることは間違いないに違いない。しかし、野口晴哉氏自身の身体(それは現代の多くの我々の持つ身体とはかなり異なっている)が感受した自然身体というものが、現代においてはすでに様々な局面で失われつつあるとき、それをどのように現代の我々にその価値として繋ぎとめることができるのか、というところに裕之氏の問題意識があったのではないか。それはもちろん、失ったものを取り戻すことが絶望的であるという諦念とは裏腹の、裕之氏の夢であるように思う。
今の私は、裕之氏の「内観的身体技法」がどのようなものであるかをきっちりとらえることなどまるで出来ない。しかし、裕之氏のその夢、その考えていることが、野口晴哉氏の思想と技術を真正面から見据え、現代の我々に<架橋>しようとして<動法>を新たに提示しようとしていることだけは分かるつもりです。
だから私は、次号以降の「月刊全生」での裕之氏の文章を心待ちにしているのです。

なお、裕之氏の文章としては、上記のほかに「体育の科学」に掲載された、「動法と内観的身体」(1993.7)、「日本文化の身体(像)観と動法」(第五十一回日本体育学会 体育原理専門分科会シンポジウム)があります。