野口整体を愉しむ(再録3)野口整体関連文献のこと 1 井本整体

野口整体関連文献のこと 1 井本整体

野口晴哉氏や野口整体について書かれた書物や文献はきわめて多い。私も下手の横好きじゃないけれど、野口整体に関連する書籍や、雑誌、あるいはネット情報を手にしたり、読んだりすることをこよなく愛する素人の愛好家であることを自認している。

昔、植草甚一氏が出した『ぼくは散歩と雑学が好き』(晶文社)という本を手にしてから、ときどき神保町の古書店街や、植草氏が足繁く通った喫茶「キャンドル」の濃い珈琲を味わいながら、あれこれ手当たり次第に古書を買い歩き、植草氏気分を堪能したことが思い出される。最近、その雰囲気を味わいたいと行ってみたが、当然ながらまるで違う街並みに変わってしまっていた。
それでも相変わらず、私はそのときの愉しみかたを、散歩や雑学をするたびにしていることに思い当たる。

私の野口整体についての関わり方も、多分に植草甚一的なのではないかと思う時がある。このブログのタイトルからしディレッタントの謗りを免れないだろう。
そんな私だから、家には整体を冠した書籍や、ネットから打ち出した野口整体論の論考、知人に頼んで大宅壮一文庫でコピーしてもらった野口氏関連の雑誌記事のかずかず、そして整体協会に入会してから手にした全生社出版の書籍、あるいは雑誌、口述記録など、植草流の散歩術よろしく読み漁り、それらかなりの資料が山積みの状態である。
ときどき思い立ってぱらぱら読み始めると、時間を忘れてしまいそうになることもしばしばである。ちょっといただけないなと思う整体関連本を古書店に来てもらってまとめて買い取ってもらったけれど、それでもまだうずたかく積み上げられた山をみて、妻や子どもたちは呆れ顔である。
そうしたなかから、今夜は井本邦昭氏の『整体法2』(三樹書房 1999.9月刊行)を、寝っ転がって読み直している。私の実感で言うと、いつも立ち寄る書店の整体関連の書籍コーナーのなかで、井本整体の本は目立っている。また出版点数も多いのではないか。
この書には、井本整体と野口整体との関りが比較的詳細に書かれていて、興味深い。井本邦昭氏は1944年生まれだから、今年74歳。氏の父親は、整体協会の山口支部長をされていたことのある井本良夫氏。
昭和22年、山口県の民生局が戦後引揚者の職業指導の一環として野口晴哉氏を招へいし、講習会が催された。その山口講習会に参加したことが、井本昭夫氏が整体に入門した契機であったという。
この山口講習会については、「月刊全生」誌上にも時々その記載があり、また野口氏自身も口述記録で話題にされたことがあったので、ご存知の方もあると思う。
この本の著者、邦昭氏は、熱心な父親の薦めから幼少の頃より整体操法の指導を受け、父親と共に東京での野口晴哉氏の講習会にも幾度も通ったという。
井本氏は、そうした生い立ちの中で、野口氏と父親を師と仰ぎ、整体操法を身につけ、今日の井本整体を父親とともに築上げてきたという。その経緯は、本書に詳しく書かれているが、そのなかで私がとくに興味を惹かれたのは、井本整体と野口整体の違いについての以下の記述である。

「昭和三十年代は、野口氏も治療を行っていたと聞いています。・・・父は野口氏から教わった技術を、できるだけ多くの人に伝え、整体を普及したいと考えていました。しかし、ある時期を境に、野口氏は治療術は打ち切ると言い出したのです。自分の治療術が向上するほど、多くの人がこれに頼り、自分の力で健康を保とうとしなくなるというのが、氏の持論でした。
協会のこのような方針のため、これまでのような治療術を教えるのは御法度となり、優れた技術が門外不出となったのです。このため、この時点で協会を離れていった人も少なくないと聞いています。父はこの時点では協会から離れはしませんでしたが、これまで勉強してきた優れた整体の技術を指導し、普及したいと主張したようです。しかし、治療術を教えたいという父の思いは、治療というものから離れた協会の方針とは相反するようになってきたのです。
私はこのあたりから矛盾が表面化してきたのではないかと思っています。つまり、整体の場合は治療ではなく指導と言います。これは、整体が文部省の管轄下に置かれており、治療ということが法律上言えないことになっているからなのですが、元来、法律上、治療と名乗れるのは医師に限られており、それ以外のものは治療ではなく医療類似行為となります。・・・
このことから生じてきた整体に関する矛盾は、私たちのような、地方で整体を行う者が大きく被ることになったのだと思います。つまり、狭い田舎あたりでは高尚な理念や思想よりも、良くなったとか治ったという結果が問われるものです。思想や理念が立派でも、事実が伴わなければ、まさに“百日の説法、屁一つ”となってしまうのです。よって、指導と言いながら、実際はかつて習い覚えた療術を使うということを行わなければならなくなったのです。
父はこのような矛盾を感じながらも、終生、かつて習い覚えた野口氏の療術に忠実に従ったものです。・・いずれにせよ、このような考え方の相違から、父は整体協会から離れ、井本整体を名乗るようになったのです。(31~34ページ)」

「野口氏は治療を捨てたと明言したのですが、私(註:邦昭氏)は治療を捨てたとは思っていません。もちろん、私は資格を有する医師ではありませんから、私の指導を求めてくる人に治療をするとは言いません。しかし、私の心の中では治療家という意識を捨ててはいないのです。(35ページ)」

私は、この井本氏の記述から、「治療」という表現がもっている多くの今日的課題に思いを廻らさざるを得ないと感じるのです。
それは単に「治療」という表現の問題を越えて、人間の病むということ、あるいは健康とか病気という言葉の持つ多様さの問題、正常と異常という対立する概念のありよう、さらには個人と共同観念との関係、国家・制度と個人の観念との関係、もっといえば人間に対する認識の問題、心や感受性・情動と身体との関係など、まだ解決されていない多くの問題に直接関係してくるものだと思えるからです。

井本氏が、きわめて率直に、ご自身と父親とが「治療」という問題をめぐって整体協会の方針との乖離に悩み、遂には協会を去った、という理由を述べておられるわけですが、こうした問題の背景には、今日の「治療」という言葉、概念が孕んでいる本質的意味を抜きにしては解決できない、いま述べたような、もっと違った課題が含まれているはずだ、と私には思えるのです。
このことは、整体協会自体も、それらの今日的課題に直面していることの証左であると私には思えます。
体育団体としての整体協会が、文部科学省に「設置の趣旨及びその理由」の記述を求められることは制度的にいって当然のことですし、その趣旨に沿って協会組織が運営されることも当たり前と言えば当たり前です。
しかし、そのことと、療術組織として出発したこの組織が、それまでの営為として積み上げてきた手技療術による民間療法として存在してきた側面をその内実に持っているということとは、また別の問題として考えうるのではないか。
表現としての「治療」概念を捨てて、「体育」概念のなかに整体操法(治療術)を位置づけなおしたことによっては、まだ内実として存在する治療術的なものは廃棄され尽くされていない、残ったままであると言えるのではないかと考えるのは、私の邪推なのかもしれません。しかし、たとえば、野口氏が「体育」を標榜することと、一方で「気」あるいは「愉気」という表現をすることとの間には、ある越えがたい深淵が横たわったままに思われるし、その溝は本質的にはまだ解決されていないのではないか。
素人の私には、そんな思いをぬぐいさることが出来ないのです。
何よりも野口氏自身が、それまでの療術経験があって初めて、この「新たな」体育概念を語ることが出来たのだ、と述懐しているように、氏の精密な治療技術の裏付けがなかったら、「新たな」体育の標榜も、“百日の説法、屁一つ”になってしまうし、その表明の根拠を失ってしまうのではないか、と思えるのです。
野口氏は、整体協会が体育団体として認可されるずっと以前から、すでに従来からある治療術的なものを昇華させ、個人の生命的自立を標榜してきたことは間違いない事です。そういう意味では、当初の野口法そのものが既に「治療」(民間療術界の)という概念を超え出ているわけです。だからこそ、「体育」という範疇に意味付けすることもある意味で自然のことなのだと私は感じてきたのです。
つまりそれは、現実的、制度的にそうなっているだけで、本質的には少しも変わっていないのだと、私には理解できるのです。
こういうことは、私のような門外漢の断ずるべき問題ではないのかもしれませんが、野口整体思想が、未来を先どりするものであると考えている私には、このパラダイムチェンジともいうべき整体思想を、古めかしい「体育」という言葉によって等閑視したり、到達した精緻な技術を一般の人々の目に届かない場所にお蔵入りをさせたりだけは、してほしくないと願わずにはおられません。


日々新たな意匠で出版され、書店にうず高く積み上げられる多くの健康関連の書は、
全て正統な資格を付与された医師による監修によって、はじめて我々の前にさし出される。マスコミの溢れかえる栄養関連の話題も、正規の管理栄養士の監修によるものだ。しかし、「気」とか「生命」といった科学的検証に耐えないものは、似非科学や医療類似のものとしてのみ、巷間に流通するのを常としている。
だから野口整体関連の本も、正当とされる医学・医療の棚に置かれることは無いし、体育コーナーに配置されることもない。感覚や知覚に関する哲学書関連のコーナーに並ぶことも無い。たいていは、怪しげな療術本やオカルトめいた精神世界のコーナーの横に配置されるのが普通だろう。
また、多くの人にとって、整体は代替医療の一環として理解され、保険適用外の療術行為として考え、また利用されていると言っていいだろう。それでも整体やヨガは、広くひろがりいまだにその人気が衰えることは無い。これこそ摩訶不思議な現象だと、わたしには思われる。
だからこそ、野口氏の思想と技術は、余すところなく後世に継承されなければならないのではないか。新たな「体育」論であるよりも前に、新たな「人間論」がそこに息づいていると信じるからです。

そんなことなど考えながら、今後も気楽な(?)関連文献の探索を続けていきたいと思います。「素人のくせに」とあまり目くじらを立てないでお読みくだされば幸いです。

(参考:本ブログ 2018.8.25「整体本来の道を」も併せてご覧ください。)