固有の身体

私たちの身体は、個々に異なっており、固有の存在様式を持っている。

その多様さ、複雑さが、人間関係の場では決定的な困難さとなって現れてくる。

他者の身体を理解することの困難さは、自己の身体の理解とは違って、実感として生きられていない分だけ、余計に困難であると言える。

自分自身さえ理解困難な存在であるのに、他者を理解することが容易であるはずがない。

しかし、自己が他者と共感できる領域に視点を向ければ、また違った理解の道も見えてこないわけではない。

 

ある意味で、他者との共感、共振、共鳴を実感する能力を育てるという事は、他者への<寛容さ>の振幅の増大をはかることであるはずで、この<寛容さ>の増大という事が、いわゆる<大人>への成熟を意味するのだろう。

今さえよければいい、自分さえよければいいという思考様式が、バブル崩壊後に顕著となり、効率化、合理化の美名のもとに、固有の存在であるはずの身体は、同調圧力のもとに一律化を強要され、その多くは悲鳴をあげ始めているのだが、動き出した歯車はその勢いを失うことなく、いよいよその力を加速しようとしているように見える。

 

個々の身体の固有さは、人間世界の多様さや豊かさの基本的な要素だが、<お金>という目に見える尺度が、そうした固有の存在様式を等閑視させ、寛容さの価値を低減させ、大人への成熟を阻み、その結果、みながこぞって無意識的に幼児性を容認するようになりつつある、というのが現在という特殊な状況と言えるのではないか。

 

コロナウイルスが、自らの変容を絶えず行いながら、その生存戦略を駆使しているように、われわれ人間の身体世界も、当然同様の生存戦略をさまざまな局面で駆使していることは間違いないだろう。ウイルスも身体も、ともに共存という最終的な着地点をめざして、相互にせめぎあいを行っているのが現在の状況だと言えないことはないと思う。

<いかにしてウイルスを殲滅するか>、という視点のみから今日の現状を見ている限り、なぜウイルスはかくも自在に変容するのか、その変容に対して、自己を守るためにわれわれの身体、とりわけ免疫機構自体が何を準備しており、どのように行使しているのか、といった様々な戦術やその価値が見えにくくなってしまうのではないか。

 

<殲滅>など本当に可能なのか。まるでゲリラに対抗する軍隊のような視点で、戦争用語が多用されるのは、あまりに一面的すぎるのではないか。

いきとし生けるものすべてに存在の意義がある、とする仏教の教えに深く共感する私の感じ方からすれば、大切なことは戦ではなく対話であり、共生であり、成熟であるはずで、自分が理解できないものを敵とみなし、威勢のいい戦争用語を掲げて敵を殲滅することではない、と思えてならない。

こんな状況で、何を能天気に言っているのか、とお叱りをうけるかも知れないが、このところの新型コロナウイルス感染報道にみられる不安や恐怖とそれへの対応に接していると、ついそんなことを言ってみたくなるのだった。

われわれの身体が持っているはかり知れない可能性や成熟の過程にも是非目を向けていたい、そして個々の身体が持つ多様性や複雑さが、生存戦略として極めて重要な要素であること、成熟した大人の視点を維持することの重要さや困難さなど、語り合われるべき多くの課題が存在している事を、忘れないようにしたい。