「七の日講座」に習う(メモ4)

「七の日講座」1958.10.07

 

 家中が風邪を引いて、主人は頭が痛いと言い、息子は下痢をしたという。娘は喉が腫れた、その下の娘は膀胱炎を起こしたという。そしてその主人は、「風邪って、いろいろな症状がありますなあ」と言っている。

しかし、そうではなくて、体にいろいろあるから症状が違うのです。

それは、お酒を飲んで歌いだす人もあり、踊りだす人もいる。赤くなる人もいれば青くなる人もいるのと同じで、お酒にそうなる原因があるのではなくて、飲めばその人の体に応じた変化がおこってくるということである。

つまり体癖現象として、そういう変化が生じている。

体癖というのは、姿勢などの体の癖だけではなく、そういう体が持っている自律作用、体の働き具合の癖というものまでを含んだものをいう。

だからそういう働き具合の癖を修正すると、体自体が変わってきて、病気の経過の仕方も変わってくる。

時々、整体操法すると病気が治る、と考えている人がいるが、病気を治すのではなくて、その体を病気が治るような体に変える、というのが本当のところである。

言い換えると、いろいろな病気の場合の経過の仕方や癖というものを除いて、できるだけ<自然の経過>で通るようにする、ということです。

整体操法の目標は、その人の癖を取り除いて、本来の<自然の経過>を導き、病気そのものを活かしていく、というところにある。

 

体の急所を調律していく、というのが整体操法の技術ですが、その技術を使ってその人の体全体の自律作用を高めていく、というところにその目標があり、それがわれわれ整体協会でやろうとしていることです。

それは、人間が持っている自律性を再確認するということでもある。

誰の体も、自分の健康を自分自身で保つように、自律性を持って生きているのですが、それをより完全なものにしていきたい、という目標を持っているわけです。

誰にでもそういう自律性がある、そういう働きを再確認してみよう、と多くの人に呼びかけたいと考えているわけです。

 整体操法や整体体操というものも、その誰もが持っている<体の自然性><体の自律性>というものを再認識してもらうための一つの手掛かり、手段なのです。

 

いつの間にかわれわれは、医師や薬に頼ったり、病気を自分以外の何ものかのせいにして何かに依存して暮らすようになってしまった。病気を自分の体の問題として考えなくなってしまい、他に依存してそれに対処しようと考えるようになってしまった。

そういった外部の何かに依存することに慣れてしまった考え方を、もう一度振り返ってみて、自分自身の中に息づく<体の自然性・自律性>を改めて認識してみようではないか、もっと上手に体を使う方法があるのではないか、自分の体力をふるい起す方法や考え方が出来るのではないか、ということを一人ひとりに気づいてもらえるようにしたい、そういうことを考えて、<体癖>という問題を取り上げていこう、というのが我々の希望なんです。

 

 まあ希望は別として、技術的な面でなぜ<体癖>を問題にするかと言うと、ひとり一人異なる体をどう理解するかという難しい問題に、より近道で到達できる方法を模索した結果、生まれてきた認識なわけです。

 相手の体の特性を理解できるようになるためには、その人にいろんな複雑な整体操法の技術を用いて刺激を与え、その影響変化を観察し、その体の急所を見つけ出すために努めることになる。

 一旦急所を見つけさえすれば、技術を揮うことが急に簡単になってくるが、それまでは大変なんです。ある異常を変化させようとするために五年も十年も、時には二十年以上も見続けなくてはならない。

ところが、そうやって多くの人の体を観察していった結果、ある傾向の人は、他の傾向の人とは異なった共通する癖や感受性が見出せることにひとりでに気がついたわけです。

そういう傾向を掴まえることが出来ると、こういう傾向の人にはここに体の急所が現われているということが類推できる。そうすれば、複雑な整体操法をみな使う事をしなくても、相手に必要な技術だけをピックアップすれば、比較的簡単に変化させることができる。急所が定まってくれば、その人のちょっとした体の動かし方を利用するだけで、すぐに変わってくる。

 あらかじめそういう体の傾向を理解しておれば、初めての人に対しても、こういう傾向のある人は、こういう処に変化を起こしやすい。だからこういう処を調節すれば、そのひとの異常もすらすらと通っていく、ということが判る。そうなれば、誰でも簡単に整体操法の技術が使えるということになるわけです。

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(以上)