「七の日講座」に習う(メモ3)

kotsuban0731-玄さんには、いつも応援のメッセ-ジを頂き、有難く心より感謝しています。野口氏が、その講習会の参加者に語りかけた言葉は、参加者ひとり一人に寄り添う野口氏の暖かさ、優しさに溢れていて、読んでいるだけで自分も参加者の一人になっているような心地よさを味わえる気がします。もとよりその講習会場という限られた時空を共有出来るといっても、そこには限界があるわけで、実際の野口氏の息遣いや、言葉の間(ま)や、参加者を包んでいる空気まではなかなか感じ取れるものではありません。ライブ会場の臨場感をyoutubeでは再現できないのと同じで、ある欠乏感がどうしても付き纏います。

「七の日講座」は、創成期の整体協会の熱気やその時代の空気を反映したものですし、現在のそれらとは異なっています。野口氏のことばも、その文脈の違いで現在の私たちにそのまま架橋できるものでもありません。しかし、親鸞のことばがそうであるように、親鸞自身や唯円が残したことばが、時代や文脈を超えて直に鳴り響くような普遍性を持っていないわけでもありません。

わたしのこの拙いブログが、野口氏のことばの持つ普遍性を少しでも抽出できるとすれば、それは時代や地域性を越え出る可能性もないわけではないと思います。みなが手を取り合って愉しく住みやすい、生きやすい世界を築きあげたい、という野口氏の初発の、原初的な想いに強く共感する私にとっては、私利私欲にまみれた濁世に、原理的なまなざしを投影しようとする野口氏の試みの邪魔にならないようにと心がけることが私の唯一の倫理だと言えるかもしれません。

相変わらずの<メモ>とか<素人>という表現を手放せないのも、そんな思いが私にあるからだと思います。

 

「七の日講座」(3)1958.9.17 体癖

今日は振り出しに戻って、整体操法の最初の問題から説明します。これからの全ての問題の基礎なので、よく覚えて頂きたい。

整体協会は、体癖の修正方法を案出し、あるいはそれを研究し、それを普及することによって社会福祉に貢献したい、そういう意味で設けられた団体です。

従って最初に取り上げることは<体癖の修正>です。

なぜなら、体癖が人間の体力発揚を妨げる上で非常に重要なものを持っているからです。体癖が、体全体の能力発揮を妨げている。どのような病気も、この体癖の問題と絡んでいる。

短気だとか、陰気だとかいうが、生まれた時はみな同じで、世間並みに笑ったり泣いたりしていたが、そういうことが繰り返されて、うっかり笑えなくなる、つい怒りっぽくなる。そういう感受性の状態がしばしば繰り返されて、そうなっているだけなんです。

自分は、自分自身が作り出した自分に動かされている。

そういうことのなかには体癖というものがある。気性、習癖、性癖、性格などといろいろに表現されているが、そのもとには体癖がある。体癖というものを想定していないために、それらが動かしがたいものだと思い込んでしまっている。

自分は優柔不断な性質を持っている、そう自分で思い込んで、それで死ぬまでそのつもりになって振舞ってしまう。

慢性病などというのも同様です。慢性病を抱え込んでいる人というのは、ある一部の人あけであって、それは体がある傾向を持っている人だけのものである。そこにも体癖の問題が絡んでいる。

体癖というのは、体の一部分に力が偏ってしまっている傾向のことで、その偏った一部分には疲労が常に潜在している。その疲労が段々はげしくなって、体力を十全に発揮出来なくなってくる。

潜在的疲労といっても、職業的なものもありますが、職業的な疲労を取り除けば、その人の体癖的な潜在疲労が明瞭になります。

潜在的疲労というのは、一晩寝ても恢復しない疲れのことで、体全体の疲れではなく、一部分の疲れです。この部分の疲労というのは必ず潜在する。自分では疲れたと感じていない。目覚めて元気なはずなのに、どうも伸び伸びした感じがない。そして働き始めるとすぐに疲れてしまう。つまり、部分疲労が、全体の感じを牛耳ってしまっている。

体癖のなかには、職業的な疲労の重なりで体癖化している場合がある。また、生まれつきの構造上のひずみからくる疲労による場合、あるいは機能上の偏りからくる疲労というものから体癖化したものもある。

人間はひとりひとりが多少なりとも構造の違いがあり、それに応じた<癖>が生じるのは当然である。

ただ、そういう癖のうちで、その人が生きていくための能率を妨げる方向に働くような癖については、それを除いていくことは有意義なことのはずである。

多くの表現、しかも決定的で動かすことが出来ないもののように名付けられた名称の現象の中から、体癖というものを見破っていくことが、体癖修正を志す時の最初の問題となる。どうにもならないと諦めてしまっている現象の根底に体癖が潜在していることを我々は見ていくわけである。

笑うという顔の表情にも、その表情筋の動かし方にはいろんな癖がある。非常に広範な問題なので、これがその人の体癖だということを掴まえだすのはとても難しいが、簡単な定義の仕方がないわけではない。つまり、整体協会において案出した体癖修正の方法によって治るもの、変化するものを体癖として、変化しないものは体癖であるかもしれないが、現在の段階では体癖と認定しない、というふうにすれば、明瞭に区別がつけられる。われわれの目的は、体癖を修正することにあるからだ。

 

体癖という言葉は、病気という言葉と同じで、たとえばわれわれは、吃音という現象の底流にある<ネルギーが内向する素質>を見出していくのですが、訴える方はそのどもるという現象だけを見ている。病気も同様で、訴える方はその現象だけを見ているが、その底流にある体癖素質といったものは見ていない。

現象だけみていると、その現象を何度も繰り返すことの理由が見出せない。しかし、その現象の底にあるその人固有の体癖素質をみるようにすれば、病的現象を繰り返すことが決定的なこと、うごかしがたい事ではなくて、変化させうるものだということが判ってくる。

体質だからとか、気性だからとか、生まれ持った性格だからということで諦めていたものが変化させうるものだ、ということが判るだけでも、大分世の中に貢献できるはずである。

いろいろな名称で呼ばれる体癖現象は、修正可能なものであり、そのためにまず見出すべきものが、体癖素質というものなのです。

そこで整体協会では、この体癖素質を大雑把に十二種類に分けまして、その動作の特徴や姿勢における癖、心の動かし方の傾向といったものを集めて分類してみたわけです。

 

たとえば、外界からの刺激が入ってきた場合に、まず頭の、大脳の緊張をひきおこし、頭の働きがうんと高まってくる。エネルギーが頭に集中してくる傾向の体癖があります。

その逆に、入ってきた刺激が頭の問題とならずに、内臓の緊張に向かってしまう傾向の体癖があります。

次に、同じ内臓緊張傾向ではあるのですが、消化器ばかりに最初の緊張が行ってしまう傾向の体癖がある。

 

何かの刺激が入って、強く緊張した場合に、ある特定の部分が非常に働きだす傾向というものを追っていくと、頭に緊張が行くもの、感情に緊張が行くもの、感情を抑制するようにエネルギーが内向するもの、性欲にいくもの、闘争本能に向いていくもの、種族保存の方向に向いていくもの、というようにある部分が目立つということが見て取れます。そういう傾向は、その個人の癖と言っていい。

私が言っている体癖素質というのは、そうした目立った傾向の事を言っているわけです。

そして、そういう傾向は、その人の無意識の動作や姿勢と常に関係している。

 

外部からの刺激に対して、緊張が際立つ傾向のものと、その逆に弛緩が際立つものとの二種類がある。

しこで、緊張が際立つものに奇数を付し、弛緩が際立つものに偶数を付けました。

そうやって十二種類に分類したのです。

分類の根拠は、人間の刺激に対する感受性の方向、感じ方ですね、人間はものを感じると何処かにその反映が現われますので、その際立った現れ方を根拠にしたわけです。

他の角度から分類すれば、また異なった分け方もあるとは思うのですが、<体癖の修正>というものを実用にするという前提に立つ限り、それ以外の分類方法では実用化出来ないのです。

いろいろの病気と言われるものの底流には、その人の体癖素質というものが潜んでいる。それをはっきり見据えれば、そういう素質と言われるものも修正することが出来る。その修正ということがどのような範囲にまで使えるのか、と言う問題が、私のやりたいことなのです。

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以上