「整体操法高等講座」を読む <28> 老人操法(2)

先日届いた「月刊全生」最新号(令和元年八月号)に、「整体指導法初等講習会」の記録が掲載されている。「整体指導の目的」と題されたこの記録で、野口氏は<整体とは何か>を繰り返し説明している。

いつものことだが、野口氏の平易な語り口とは裏腹に、極めて高度と思われる内容が、日常的な事例を例証しながら、さりげなく丁寧に展開されている。

私たちは、そのあまりのなだらかな調べに引き込まれて、そこに日常から隔絶した鋭い峰々が間近に眺望できることに気づかないまま、さらさらと読み飛ばしてしまっている自分にふと思い至るということはないだろうか。

野口氏がここで指し示そうとしているのは、わたしたちが普段当たり前の言葉として使っている<病気>という言葉への、本質的な疑問であり、新たな解釈の試みである。わたしたちは、<健康>という言葉を、<病気>という言葉の対極にあるものと考えることに慣れ親しんでいる。だから<健康>とは<病気>の無い状態と考えているし、そのことにあまり疑問を感じたりはしていない。そしてその延長線上に、<病気>は早く見つけ出し、早く治療して<健康>を取り戻したい、と焦るわけである。

しかし、野口氏はそうした疾病観は、果たして正当な見方と言っていいのだろうかと、われわれに疑問を投げかける。

もし<病気>と<健康>という概念が、相対立する概念であるとするなら、なぜ<無病病>と言えるような状態や、<健康病>(予防病)と言えるような状態が存在するのだろうか、と。

<病気>と<健康>という、これまで常識として考えられてきた価値基準で、人間のからだやこころの状態を判断しているだけでは、どうしても理解できないそれらの状態を、つまりなぜ風邪もひかない健康なはずの人が、突然のように癌を発症したり脳梗塞で倒れたり(無病病)、その逆に、病気がないのに病気になりはしないかと絶えず不安に陥ったり(予防病)するのかを理解できないのではないか、と野口氏は語る。

そして野口氏は、そうした状態の理解をも獲得するために、人間の身体を、物理化学的な構造体の先に、<生命>という、いまだ科学では解明されていない概念を導入して、これまでの<疾病観>を相対化しようと提唱する。

野口氏にとって、人間の理解や、とりわけ<健康>状態の理解を進めるためには、どうしてもこの<生命>という概念が不可欠のものに思われるのだった。

つまり、<生命>として私たちのこころやからだの問題を捉え返すこと、そのことでより実態に即した疾病の理解や、その対処法が可能になるのではないか、というのが野口氏の経験から導き出された結論だったわけである。

<健康>とか<病気>という従来のとらえかたから一旦自由になり、身体の上に現象するさまざまな変化を、<生命>現象としての表現と捉えなおすことで見えてくるもの。それが<整体>という新たな概念に他ならない。

<生命>という概念は、当然近代医科学の主要な概念ではありえない。だから野口氏も次のように言う。

「実際、まだ生命ということは医学の中ではなく哲学の中にあるのです。生命ということは全然分かっていない。それなのに女の人は意識しないまま、お皿を洗ったりしながら一人丸ごとつくってしまう。医学では出来ないことを易々とやっている。そうしたら生命のことは知識にはない、体の中の外路系という無意識の動きの中にあるのだと言えるだろうと思うのです。」(前掲雑誌、8頁)

そして、野口氏はさらに「無意識の運動」つまり「錐体外路系の運動」こそが、<生命>というものの実体を表現しているものであり、一人ひとりの人間の身体は、一個の<生命>として常に意識される以前の領域でその完遂を期して活動していることをまず自覚することが重要ではないかと、提唱しているのである。

このような認識は、決してありふれたものではないし、過去にそのことを言葉によって明示しようとした例は寡聞にして私は知らない。

意識化できないもの、それ故に認識の対象にすらならないもの、しかしその実は我々の生活を根底から支えているもの、それを野口氏は<生命>と名指しし、その手掛かりを<錐体外路系の運動>としてとらえ記述した。このことは、科学的視座からは荒唐無稽と揶揄されえたとしても、決して等閑視することのできない、未開の領域への冒険であったことは間違いないと私には思われる。

さらりと平易に語られる野口氏の言葉が、実はこれまでの<知>そのものに対する、きわめて高度な内容を取り扱っていると私が感じる理由も、そのあたりにあると言える。

では、今日もブログでの記録をはじめます。

 

整体操法高等講座」(28)「老い」の操法(1968.3.5)

 

人の問題には、<老いる>という現象についてだけ考えて参りますと、人間の体のいろいろな変動のなかで、死ななくては治らないのは、<老いる>ということだけでありますが、その<老いる>というという現象は、具体的にはどうやって起こるのだろうか。

生活機能という面では、泌尿器と生殖器にまず変化が現われてくる。

その影響が体全体に及んでくると、尿の出が悪くなったり、生殖器の能力がなくなってくる。そして、その頃を境に、血管がこわばってくる。また筋肉の伸縮が悪くなってくる、というように順々にその影響が広がってくる。

体の運動系という面から言えば、<老いる>というのはまずL3、普通はここは反っていて力が入っているのですが、それが可動性を失って、反りがなくなって伸びてくるんです。

ひどくなると、L3にあった力がL4にかかるようになり、さらにL5にかかってきて、L4とL5の間がくっついてくる。つまり、<老い>の始まりは、L4とL5の間のくっつきから始まると言えます。

そして仙椎の二番、呼吸活点ですね、L4が硬直してくる。そうなると、老衰度が進んだ状態です。

次に、腸骨が左右に開いてくる。そして、仙椎部がだんだん下がってくる。そうなった時が、老人と判らないうちに起こる徴候であります。

<老人操法>が要るかどうかを、腹部第三で確かめると前回言いましたが、第三に変化が起こってきた時は、もう遅いのです。<老い>が決まってしまっている。

 

L4とL5がくっついてきた時に、その手入れをするというのが、一番大事な問題であります。

くっついてくると、皮膚の艶がまずなくなってくる。その艶の無くなるのは、首が一番早い。そしてしばらくして、頭や顔にくる。

L4、L5の変化は、首の艶の変化と大体同じ頃であります。

白髪とか髪が薄くなるとか、禿げるという事の直前が、L4、L5の問題であり、その頃に首の艶もなくなるのです。

首に艶がなくなり、次に喉がたるんでくる。

しばらくして、目尻にきます。目尻にくる少し前に、眉毛が長くなる。太くて長いのが何本か出てくると、<老い>が決定的になるんです。その前なら、まだ回復の傾向があると言えるわけであります。

だからそういう見える処を見ておくだけで、その人の老衰度合というものを想像できる。これらはあってもまだ想像の中で、実際に押してみれば、それに対する部分的に老衰のような激しい反応はある。癌のようになっている場合は、反発が起こりません。だから刺激して反応が伝わらないとか、反応が起こらないとかいう時には、癌のような病気を想像すべきですが、老いた場合には全体の反応が時間がかかる。反発に時間がかかる。体内連絡に時間がかかる。

くたびれが重なってくると、風邪をひいてもその抜け方が遅い。L4とL5のくっつき方よって、簡単に治るように見える疲れでも、なかなか治らない。

病気の経過を観察するという場合、そのくっつき度合いというのは重要な手掛かりになる。

それは体全体の感受性の低下の度合いの象徴で、それを操法したから老衰度が軽くなるというものではない。

むしろL3の調節の方が、くっつきの調節よりは経過が早くなる。とはいえ、風邪でいえば、一、二日早くなるというぐらいの微妙なものです。

でも、そのわずかな相違が、普段の生活では大きな相違となってあらわれてくることも多い。

L4、L5がくっついてくると、行動が遅くなったり、決断に時間がかかるようになってくる。動作に移るまでの内的な連関が遅くなっている。

 

ほんのわずかな決断の遅れでも、そのひとの<運>を変えてしまうようなこともある。

自分の外にあるものを自分のものにし、それが体全体に内部連絡できればサッと身につくのですが、体のどこか一部分に滞っていると、それが身につかないのです。

L4、L5のわずかな変化というものが、病気やけがの経過にしても、行動の経過にしても、結果として大きな違いをもたらしてくる。

「慎重」とか「熟慮」とかいう言葉は、L4とL5がこうくっついて、L3が飛び出している現象のことをいうのです。

「不決断」とか「気分にムラがある」というのもそういう状態のことを表現している。

そういうのは老人の特徴ともいえるが、若い人にもそういう状態の人がいる。そういう人たちは、「気勢があがらない」という特徴が共通している。首に力が出てこないで、喉がたるんだまま考え込んでしまうのがその特色です。

 

操法していると、<勢い>というものが一番重要なものであって、現在の体力状況をみるばあいにこの<勢い>を観ることができないと<経過>というものが判らない。

 

私は、そう思いまして、生きものの心と、体の形というものの関連をつかまえて、心の動きの急所を見つけるように勉強してまいりました。

勉強してて困ったのは、これまでにそういうことを研究してきた先人がいなかったということです。

わずかに、ラマルクとか、ジェイムズ・ランゲとかいう人が、「人は悲しいから泣くのではない、泣いているから悲しくなるのだ」とか「おかしいから笑っているのではない、笑っているからおかしいのだ」ということを言っていましたが、こういう<形から心が動く>というようなことは彼ら以外どこにもない。だから、そこから一歩先に進める、そこを突き抜けていくということが判らなくて困ったわけです。

 

操法していると、自分に勢いがあるときは、ぎゅっと愉気して押さえると、グサッと届いて相手の体が変わってきます。単に手を当てているだけでも変わってくる。愉気などしなくても変わってくる。ところが、勢いがないときは、体力はあっても、気が相手に通らない。いろいろ迷って計画したりするうちに、勢いが減ってしまって、具体的な力が出てこない。何も計画しないでただ勢いでやって出来るということもある。

 

触手療法の場合なら、勢いで遮二無二やれば効果をあげられるが、整体操法をやり始めると、みな一様に下手になります。効果があげられなくなる。いろいろ意識で計画したりして、迷っているうちに勢いが中断される。しかし、触手療法の場合は、勢いだけで効果があがっても、意識としては責任がとれないものなのです。効果がない場合、なぜ効かなかったかがわ判らない。整体操法は、すべて意識で計算しておこなうものだから、行動のすべての責任を自分で負うことが出来るし、意識で証明できる。そういう事によって成績があがるようにならなければ責任を負って人を指導するというわけには行かないんです。

・・・

戸惑い、設計し、また考える。それを繰り返して、上手になってくる。そして触手療法よりももっと効果があげられるようになっていくのであります。

触手療法をやって効果が上がらない時、まず迷うのは自分なのです。焦れば焦るほどうまくいかない。それは観察がないからなんです。

整体操法の場合には、これくらいの期間で経過する、こういう場所を経過すればこうなってくる、ということが判り、迷わないんです。迷っても、次の方法が考えられる。

そういう意味で、大勢やるには整体操法のほうがずっと好いということになる。そういうことが、整体操法を講義する理由なのであります。

そして、そういう事の全部は<勢い>にかかわっている。

 

私は昔は、自分の知っているものを全て、はらわた迄見せるように一生懸命に説明していました。「病気は安全弁だ」「いろんな症状が治っていく力の現れではないか」と。それも一人一人に、二十分も三十分もかけて。でも、ちっとも判っていないことに気が付いて、人間は判らないものだな、と思ったことがありました。そうこうしているうちに、私自身が一番判っていなかったということが判りました。結局その説得は、自分自身を納得させる為に骨を折っていたんです。自分の子供に諭すような調子でだけ話をしていた。

それが判ってからというもの、相手が判らないということが不思議ではなくなってきて、一生懸命説明するということがつまらなく思えてきました。

そして、説明しなくなった頃になって、皆がそれについてくる。丁度身についてきたんですね、そういう考えが。

そうすると、熱が出た時も、「もう少し高い熱が出るといいのだがな」というと、もうそれだけで熱がもっと出ることを良いことと思い込んでしまう。いや、それを待っているようになる。自分の本心がそれを納得してくると、スラッと通る。

<勢い>というのは、そういう中の力の現象なんです。

こういう<勢い>というものを無視して、<量>だけを計算していては、相手の本当の動きを見ることが出来ない。だから操法するという場合には、<勢い>というもの、特に<気勢を産む勢い>、体が動作するときの勢いではなくて、その動作を動かしだすところの<気の勢い>というものを捉えることが、経過の観察において一番重要なことなのであります。

そうして、<勢い>の出どころは、体力的な面でいえば、L4とL5のくっつき状態にある、というように考えてよろしいと思う。

 

やる側の<勢い>というのは大切ですが、相手の<勢い>というのはもっと大事なんです。だから相手の体の勢いをどう動かすか、ということは非常に重要な問題で、それゆえにL4、L5の操法がとても重要な意味を持つということがお判りになるだろうと思います。

経過観察の際にも、<勢い>の誘導の際にも同様で、喉や首の皮膚の状態や腸骨の下がり具合、L4・L5のくっつき具合を見て、そしてL3の操法を行っていくということが、相手の内側の<勢い>を変化させる。

 

どこのどういう為にこういう操法をする、ということではない。直接、老人の萎縮している急所に対応する操法というのではなくて、L4、L5を調節したり、L3を操法してL4とL5を離したり、腸骨を締めたり上げたりしてL4、L5をきちんとする操法をしたりすることが、<老人操法>として重要なんです。

 

操法というのは、ついやり過ぎてしまいがちですが、このL4、L5の操法は、いくらやってもやり過ぎない操法という面があるということを知っておく必要はあるだろうと思う。

普段必要な操法やっても、しょっちゅうその必要な操法を繰り返すわけにはいかない。だからこのL4、L5の操法は普段にやっている。そうしておくと、何かやろうととしたことにも効果がはっきりしてくる。そういう意味の操法であります。

 

ちょと体を貸してください。

うつ伏せになって。こういう若いのでも、もしL4とL5がくっついていたならば、腸骨が下がっているとか、開いているとかいう腸骨の変動がある。くっついていなければ、正常です。

たとえばL3がと飛び出していても、くっついていなければ、その飛び出しは臨時の事である。少なくとも老衰状態や不決断現象というものには直接つながらない。L3が飛び出して、L4、L5がくっついていれば、若くとも老人現象です。

・・・

L3をみて飛び出しているかどうか、L4、L5がくっついているかどうかを見ます。L4、L5がくっついていても、L1が飛び出しているときには、L1とL5の変動、L1が飛び出している時にはL5の変動でL4がくっついている。こういう場合は、老衰とは関係がない。

今のは、L3の変動でL4がL5にくっついていく。下から上がるのではなく、上からL4が下がるのです。L3が出ることによって、L4が下がる。L5とくっつく。

L4とL5のくっつきにも、L1が硬い場合にはL5が上がって、くっついている場合がよくある。

L1がなければL5がL4にくっついている。L1があれば、L5が上がってくっついているのかもしれない。

こういうのはしょっちゅうこれが変わりますから、翌日なり翌々日なりに左右をしらべれば、今度はまた離れてくる。つまりL1が上がって、L5が上がるというのは長い間持続するのではないんです。L4が下に下がるというのは持続するのが特徴なんです。だから引き続き何日か見れば判る。

しかし簡単に見分けるのには、L3が上がってL4が下がって、L5にくっつく。その場合、L1は直接関係がない。L1が飛び出している時は、L5が上がってくっついているとみていい。そういう場合が多い。全部L1があるからL5が上だというようには決められないんです。L1があっても、L4が下がっている場合には、今言ったような「老い」の症状なのです。

そこで首や喉を見て意見をまとめる必要があるのですが、L5の場合には余分にくっついている側の足を拡げます。そうすると、これがもっとくっついてくる。

戻す、逆を拡げると今度は離れてくる。ところがL4が落っこちている場合には同じ側です。そういうことで、弾力がある場合と、落っこちて弾力がなくなっている場合との区別をつけるべきでありまして、L4、L5はそういう意味で注意を要する、警戒してみる。

L3も飛び出している方の角度が真上というのは割に少なくて、どちらかに飛び出しておりますから、飛び出している方の膝の下に足を入れて、足の甲を入れますと、入れた程度でL3が飛び出して、引っ込みます。持ち上げるともっと引っ込みます。

そういうのはL3がL4、L5を、L4を下にL5にくっつけているL3の変化ではないんです。

こうやってもこうやっても変わらない、飛び出していながら変わらない。そうやって、L3自体も調べます。

L3がここで動くのは、狂っていても、こっちが飛び出したらこっちの足、こっちが飛び出したらこっちの足をこう曲げまして、曲げて引っ張れば治ってしまう。

だから可動性のあるL3の狂いには、足を曲げて引っ張れば治る。曲がっている逆か、逆側の足を曲げたまま引っ張ればいい。

 

今日の練習は、L3が突出して可動性がなくなっている。そういう場合におけるL4の調整です。L4を押さえて治しても保たないんです。L3自体が位置を保たないんですから駄目なので、仙椎自体を刺激するということが始まりです。(仙椎の模型で説明)仙椎を腸骨がこう押さえているのです。この押さえているここを、こう押さえているんです。これをまず剥がすように押さえていきます。この脇です。外へ剥がすように押さえて、今度は中央へ寄せるように押さえていく。左右、腸骨の間は空間になっていますが、ここに筋肉がありまして、筋肉の位置が非常に強くL5に影響しています。

これを外にこう開いて、これをこう中につまんでいく。そこの仙椎の二番のここの出っ張りを刺激します。それからもう一回これからこう押さえます。それからその次に、仙椎のここに孔がありますが、二番目の孔、それから四番目の孔をまず見つけまして、この周辺をやったあとです。こう押さえていっぱいに押し切るんです、まず。

ゆっくり、いっぱいに押し切って、そのところでお尻をちょっと下げる。そうするとゴソッっとはまるんです。はい、結構です。

寝小便を治すときに普段使うのですが、寝小便を治す時は、それをやるとL5がいきなり引っ込んで、L4とL5がきちんとしてくる。

仙椎の周囲を刺激しておいてからL2をやると、L4が治るんです。先に仙椎の四番の孔をガンと入れておいてからL2に行くという順序を踏めば、L4が変わってきてL3の位置が自動的に上がってくる。だからそれをやる前にL3を少し刺激しておいてやればもっと早い。これが<勢い>を調整するうえの重要な操法であります。・・・

仙椎二番のショック、それから順々に硬結を追いかけていくと、S2から外側にこう回って、一旦下がって、腸骨の縁を通って、L4の四側に行きます。これは<呼吸活点>のそれで、呼吸の苦しい時はその経路を、S2からこう通って、L4に至ると呼吸が急に楽になります。

そこで呼吸活点と言っておりますが、そういう今の前提の処理があって、呼吸というよりは<気勢の操法>だというようにお考えになっていれば正確だと思うのです。

どうぞ、一回やりあって頂きましょう。

 

これは触手法で言っております<生気づけ>という方法でして、お尻の筋肉を上にあげて愉気することなんです。気勢が上がらなくなると、お尻が下がってくるんです。これをやったあと、S2をグッとショックする事は、この操法でやる<勢いづけ>の特徴です。

・・・

 ただ、自分の腰に勢いない人は、がッと自分では押したつもりなのに相手にちっとも響かないんです。・・・こっちに勢いのある時は、相手のそれを弱く感じるのです。だからどうしても、強い方が弱い方を操法するということにしませんと、がッといったときに指を狂わしてしまうことがある。

私もその一人で、今から四十年ほど前に、こんな大きなお尻の人をやったら、ぼきっとこっちの指が参ってしまったのです。以来、この指が狂ったままなんです。

他人には中々治してくれないで治らないんです。自分でがッと引っ張ると、自分で放す時機を知っているんです。内緒にして不意にこう放せば治ってしまうのに、自分の場合には「不意」がないのです。みんなつつぬけなんです。だから自分のは治らないので、右の親指の力が弱いんです。そのために、体でその指を使っていく、という型ができたんだろうと思うのです。

 

そんなように、相手が勢いがいいのに、こちらは無い力をしぼりだすようにやると、自分の指を毀します。

どんな操法でも、やる人に勢いが無い時は、無理があるんです。

意識してやるのだから、勢いが無くても出来るかというと、そうではなくて、指が歯が立たないのです。

根本的には、やる方が気力が満ちていなくては駄目で、気勢が上がらない人がやると、ちっとも中に力が入っていかないんです。

へなへなでも操法はできるんです。触手法と違って、ショックするだけなんですから、出来ることは出来るんですが、「機」とか「度」というものを得るのには、勢いがないとうまくいかない。

・・・

気勢が上がらない時、はっと押さえたが力が入らない時、相手はそれをすぐに感じるんです。自分の手が乾いているような時は、ガッとやろうとしても入らないんです。手に

湿気があって、キュッと握って力が入るときは、フッと押さえただけで、相手はピタッと押さえられた感じがするんです。

その押さえられた感じというのは非常に大事なもので、これを特に御研究願いたいと思います。

操法しての感じでなくて、操法するために押さえた時の感じが満ちているかどうか。

 

今日、気勢を上げる方法を説明致しましたのは、受ける側よりも、やる側のL4が下がっていることを少なくするためでして、皆さんが気勢を充たして操法していくようにするための、皆さんにとっての養生法になるためです。皆さん方が他人の操法を受ける場合に害のない、そして効果の多い場所、下手にやっても大丈夫な場所、練習にはもってこいの場所としてご紹介したわけです。

 

今月はこれでこの講習は休みになりまして、来月の十五、十六に続きます。ですから四十日休みがあるわけです。倉敷講習の為にあけるんですが、その間皆さんどうぞ練習して、仙椎部の押さえ方などを、特に受けるほうにまわって、気力を蓄えられるといいと思います。

・・・

この間、中等組で、「整体操法の目的は何か」と訊いたんですが、なかなか答えられない。それをみていて、もっと<理解度>という面も入れなくてはいかんなと考えたんです。たとえば、整体指導の目的は、<体運動の正常性の確保>であります。体運動の正常性というのは、<敏感な感受性と充実した反応力>ですが、それは<体の運動の整った状態>ということで、そういう状態を確保するよう導く、ということです。健康にするためとか、病気を治すためということが目的ではない。こういうことは人間の観念が産み出したもの、人間が知識を持って作り上げたもので、そういうもの以前の、エネルギーの集散と快感とか、敏感な感受性や反発力とかいうような、<直接体力に根差している問題>のほうが重要で、病気などの観念にとらわれると却って乱れる。そういう為に、ここではただ、<緊張、弛緩の調和>するという、それだけを目標として、<体運動の正常化の確保>ということをやっているのでありますが、今まで講座の中にあった問題を、一応<整体指導の理解>という面で、休みの間におまとめ頂きたいと思います。今日は、これだけに致します。

(終)