「整体操法高等講座」を読む<27> 老人の操法(1)

整体操法の高等講座も終盤に近付いてきました。この数か月、このブログは遅々として進まず、その理由はパソコンの調子だけでなく、私自身の体調とも関係していることは明らかで、そして何よりも、野口氏の口述記録そのものに対する私自身の心の揺らぎも影響していると思わずにはいられません。

野口氏にできたことが、わたしには出来ない。野口氏の到達した視点から語られた言葉が、私には実感として理解できていない。

それは当たり前のことではあるのですが、私にしてみれば、その実感できない言葉を、右から左に書き写すことに、非常な苦痛や違和感が常に伴ってくるのです。

<健康>や<病気>、あるいは<医>などについて、野口氏はこう言っている、ということは出来ても、その野口氏の言葉を私は自身の生き方としては咀嚼出来ていない。

野口氏の言葉に強く魅かれていても、その言葉を生きているとはとても言えない。

私の裡からほとばしる言葉にはなりきれていない。

この私の感じる違和感は、巷間に流布している医学的、生理化学的言説に接したときに感じる違和感とはかなり異質のものです。

野口氏の言葉に、私の身体や心は共振したがっている。野口氏の言葉には、何かよくわからないが<真実>がある、と直感している自分がいる。しかし、その直感が当たっているのかそうでないのかは、今の自分には皆目見当がつかない。そういう想いが、もう何十年も続いている。しかし、今の自分が、その言葉の真実を裡から実感しているかといえば、全くそうではない。

だから、野口氏はかく語りき、とは言えても、その言葉をわが言葉として他者に語ることが出来ない。

野口整体を愉しむ>という私のことばの選択が、そうした私の違和感のありようの一端を示すことになっているのもその為である。

つまり、どこまでいっても、素人のお遊びになってしまっている。

でも、私なりの遅々とした学びが、今できる唯一の方法であることもまた確からしく思われます。(なんのこっちゃ)

 

 

整体操法高等講座」<27> 老人の操法(1968.2.25)

今日は老人の操法を説明することになっていますが、その前に操法をどう使うかということを説明しておきたいと思います。

整体指導というのは相手の体の調子が整っていくように指導していく、あるいはその整った調子を乱さないように生活していくことを指導するということであります。

 だからそういう整体指導を含めて整体が出来ていくので、操法で体が整っても、使い方が悪ければそのままになってしまう。あとの使い方で、きちんとなるように指導していくという事が一番大事です。

そういう意味で、相手の体の外路系を敏感にするということが指導の中心になりますが、大体そうほうというのは、その中で曲がったものを治す、弛んだものを正す、眠っているものを起こすというような事でやるのであります。

だから整体操法そのものが整体指導という事ではない。けれども重要な武器であることは同じである。

たとえば柔道は柔軟な心構えや身体を得るということを目的にしていても、そういう目標がだんだんはっきりしなくなって、喧嘩の武器になったりしたら浮かばれない。整体操法も、柔道の投げたり投げられたりするのと同じようなことで、もう一つそれによって得る心の道筋をつかまえないと、それだけに終わってしまう。

・・・

ある刺激を与えると、その刺激に応じて相手の体が変化してくる。その変化する動きによって硬結がなくなってくる。硬結を直接押しつぶすのではない。背骨が左に曲がっていたとして、こう戻す事がいつ行われてもいいかというと、そうではない。相手の体の調子によってこれを治すのではなく、曲がっている方向にもうひとつ押した方が却って治りがよくなる時もある。下痢したという場合でも、ただ下痢を止めよう、痛みを止めようというようなことは、相手の体の調子を保つように整えるということを、まず考えなければならない。

治すことで相手の体の調子がどうなるのだろう、ということを忘れて、ただ曲がったものを正すことだけを考えていては、相手の体の調子を却って乱してしまうこともある。

やはりその体の調子を保つように整えなくてはならない。その調子によって、その調子に合う整え方をしなければならない。

 

操法を整体指導に使おうとする場合には、このことをよく考える必要がある。

よく考えてみると、人間の体は、自分で自分の体の調子を保つように、いつも働いております。悪いものを食べれば吐いてしまう。溜まれば下痢をする。みなこれらは体の調子を出来るだけ良いコンディションに自分で保つようにしているのです。転びそうになっても転ばないようにする。だから、その人の体の調子を保つ働きを乱さないように手を貸さないといけないということになる。

それが第一番の心がけだと思うのです。

つい操法をやるということにこだわって、手助けしないでいいところを手助けしてしまったり、手助けしないとふっ切れないところをただ眺めていたり、というようなことがあるとしたら、それは操法の使い方としては本当ではない。

うまく説明しにくいんですが、相手の体の働いている自然の傾向を邪魔しないというよりは、相手の自然の傾向と同じようになって、相手の体の働きが入っていって、相手の力で働いているようにする、という事をお勧めします。これは隔靴掻痒といいますか、靴を隔てて相手の痒い所を掻くという行為とは正反対のことであります。

相手と一つになってしまうということが一番難しい。本当に一つになったら、相手と同じように右往左往しなければならない。右往左往しない気がそこに入って行って、その相手の体の右往左往してバタバタ騒いでいるものを統制あるように一つにもっていく。

乱れているのに、揺すぶりをながら揃っていくように愉気をする、という、そういう乱れない心で入っていくと、相手はそれに同調してくる。

だから相手と一緒になってバタバタ騒ぐのではなくて、一緒になってスーッと相手の中にに入りながら、中のバタバタしているものを鎮める、そういうきっかけにならないと、ただ入っているだけでは不十分である。入って行って、相手の全体の動きを一つにしていく。それが意識しないうちに行なわれたときは、ちょっと操法しただけなのに意外な効果をあげる。

相手の中心をつかみ損ねると、一生懸命やっても何か違和感があって、一生懸命にやったはずなのに、相手に手ごたえがない。何かやってくれたくらいで通ってしまう。

まあ、指で押さえるのですから、蚊に喰われた位に、もっとも蚊に喰われるのだって針で刺されるんですから、皮膚を破いているわけで、だから蚊に喰われるよりは相手に変化を与えないということになる。

その程度の力を使って体を整えるのですから、相手の背後を指導する力というものが具体的に働くような条件で技術を使わなければ、その効果の範囲はたかが知れているわけです。

体を強く押したり、あっちもこっちもと方々押しても、それによって体を良くするという効果は出てきません。ある焦点に相手の注意を集めていって、そこで<話し合う>ほうが変化が大きいのです。

そこで整体操法では、できるだけ急所を選りどって、そこで<話し>を進める。

指に<愉気>という<激励する力>があれば、機械などで押すのと違った効果があげられる。

その指の持ち主が、相手の右往左往している中に入って行って、右往左往しないで、相手を導くような力があるならば、押さえているあいだにそれが伝わって、相手の体の中を通ってくる。そして相手の体の統一ということがなされる。

そのことが行われないようだと、押さえるということがあまり意味がなくなってくる。

押さえるという事よりは、押さえたことによって、相手の体を無意識に動かしている力を一つに統一していく、ということがそうした効果をもたらす理由であって、相手の騒ぎに乗じて一緒になってワイワイやることではない。

何の効果もないような指を用いて、効果があげられるのは、<体の中の働きの統一>ということが作り出されることによるのです。

だから、その<統一>というものを押さえるのだということではないのです。<押さえるものの背後にある心>、もっと具体的に言えば<気>というものがその<統一>を導くので、<気>がざわついている人には、どんなに一生懸命押さえても、相手を乱してしまうのです。

早く病気を治そうとか、苦しんでいるのを早く楽にしてあげようとか、やっている人自身が相手と同じようにザワザワした心で押さえているんでは意味がないのです。

病気を治すとか、病気とかいうようなことを頭においてやっているのでは<統一>に導く指導などということは難しい。

あっちが痛い、こっちが痛いとざわついている人とは全然別個の心をもっている人が押さえれば、相手はそれについてくる。

私が整体指導と言っているものは、そういう<心>、そういう<気>で、そういう<静かな心>でたえず操法を行っていくということであって、そういう<気>で操法を使っていくと、簡単な操法でいろいろと効果をあげることができるのです。

もちろん病気を治すために操法を使うことは出来ますが、われわれが行う整体操法は、<病気が治っていくような体力を発動させる>ためにつかうのでなければ、整体指導にはならないということなんです。

・・・

人間は自分の調子を保つように出来ているのだから、他から加えた力の全部は余分な力んです。調子を乱すものなのです。

だから<相手の調子を意識して乱して、乱すことによって整っていく働きを誘導する>ということが、やっていることの実体なのです。

だから調子を全く乱さない、ということだけを考えているならば、何もしないにしくはない。

ところが、少し乱すと、今度はそれが自然に整ってくる。

つまり<自律的な調整作用を呼び起こす>ということが出来上がってくる。

そこで、あえて乱すことをやって、自律的な整えを促進する。ただそれに対して、<最小の力を使う>、ということなのです。

だから最小の力であっても体の調子を乱すが、その乱すということを通して、整っていくように誘導していく。

だから操法すること自体、<乱す>ことなのですから、相手の体が整っていく力の働きよう次第で、それが生きたり死んだりするのですから、相手の体を整えるように、使う状況を限定しなければならない。

それをともすると、自分で一生懸命やればいいのだと思って沢山やる。・・・好いことを沢山やればいいのだと、いつの間にか考える。自分はこんなに一生懸命やったのだから必ず効くはずなのだとつい思ってしまう。

しかし、一生懸命やると効果があがらない。そして、それをやり過ぎだと気が付かなくて、まだ一生懸命さが足りないとさらに馬力をかける。

それでは整体指導にはならなくて、やっている人の満足だけで、相手はかえって毀れてしまう。

 

だから、思ったのと違った効果が現れたら、あるいは効果そのものが現れなかったら、やり足りなかった、と考える前に、自分がやったことの中に<抜くこと>があったのではないか、と考えてみる。

そういう時に出会ったならば、一歩退いて、やったものの中からどれを抜くか、どれがやらないでいいことだったかを、考える。

整体指導として操法を使う、ということの意味を考えていないと、強く効くものばかりを選ぶようになる。

操法は、自分の手で簡単に出来ることだと、どうしてもそう考えがちで、更に継ぎ足すことを考えがちだが、そういう時に<減らすものを考える>という心構えを作っていく必要があるのです。

急所を知って、そのすべてを使って仕舞うといういき方は本当ではなくて、<使う時期を考える>、それでうまくいかない時は、<使ったものを減らす>ことを、まず考える。

 

<老人操法

老人の操法をする場合に、老人はだんだん物質に近くなってくる、弾力がなくなってくる、伸び縮みが。

だんだん自分の体の動きが不自由になってくる。食べるものでもなんでも、小幅に動いて済むものを求めだしてくる。

「物」に近くなったのだから、板を削るとか叩くとかいうように強くやる必要があるのではないかと、ついそう考えるのですが、いくら物質的になったからといっても、やはり人間は生き物なのです。死ぬ間際まで生き物なのです。

だから、先ほど言ったような操法の仕方をしないと、毀してしまう。

強張って物質になりかけていて、ボソッとなったらもう治ることも出来ないというような老人に対して、強い力を使うななんていうのは、乱暴なんです。

生き物として感じた通りに動いていけるという敏感さがなくなっているために、本人は強い力を要求しますが、そういう老人に対しても<少しの力で済ませる>方法はないか、というように考えていくのが<老人操法>のコツで、強い力を入れるという事は危険なのです。だから肩が凝ったといっても、その鈍ったところ以外の処をみつけていくというか、残っている敏感なところを見つけていく。敏感でなくても、感じうるところを見つけて、操法の着手とするのです。

老人だから熱い湯に入るのが当たり前だとか、栄養豊富なものを食べるのはあたりまえだとか、厚着をして寒さを防ぐのだとか、転ぶといけないからお供をして歩くのだとかおとで、より歳をとる方向に追い込んでいったり、物質化を促進したりするようなことが多いのですが、やはり老人といえども普通の人間並みの扱いをしなければいけない、ということを先ず覚えて頂く。しかし、人間並みの扱いをするには、老人は物質化する傾向が濃くなっているのだから、<隙き間>を見つけることが必要であり、肩が凝ったというのなら、凝ったところを押さないで、どこか他所の処に、その凝りを移す<隙き間>を見つける。

摂護腺が肥大した、小便が出なくなった、その摂護腺を切らないで、どこかで次の小便出す工夫をする、そういうような着手のできる処、<隙き間>を探し出す必要があるんです。

その為には、いろんな操法をおぼえなくてはならない。

心臓の調整法をいままで幾つもお教えしましたが、普通の人の時はそれらは殆ど要らないんです。その要らないものを何故お教えしたり、研究したりするのかといえば、<老人の操法>のために必要だからです。

老人には、知っているものを全て動員して、そしてその老人に合うもの見つけていかないと、うまくできないのです。

赤ん坊の育て方は大事な問題ですが、それにはいろんな操法は要らないんです。後頭部とお腹に愉気すること、それ一本でいいんです。

三十になっても四十になっても、それだけで通せる。

ところがそれ以上歳をとってくると、いろんなことが要る。

赤ん坊にも、若い人にもいろんなことは要らない。歳をとってきて初めて要る。

だから、整体操法というものの焦点は、<老人操法>というところに本来の面目があるわけで、老人が体を正常な状態に保っていくように、そういう意味では整体操法は一番よく考え尽くされております。

老人の場合でも、まだ何か多くやり過ぎていないかと考えなければならないのですが、老人の場合は少なくするだけではうまくいかないんです。

老人の場合には、そのやっていることが、<与える角度が間違っていなかったか>、もっと相手がこわばっている処以外の<隙き間>がなかったか、と考えていくことが必要になる。

若い時期だと、喉が腫れたら足の先を押さえれば止まります。ところが老人は、足と頭が上手くつながっていないために、足先を押さえても腫れがひかない。だから、もっと喉の近くの処で閊えている処を見つける。扁桃腺はリンパの親玉みたいなものですから、その辺を押さえてみるとか、せいぜい頚椎五番くらいまでの間で閊えたところを見つけるとかして、治していく。

若い人が喉が痛ければ、みな足に硬結があり、押さえれば痛いのですが、老人は平気なんです。そのかわり、D5に硬結が出ていたり、ひどいのはC6に出ていたりする。喉のそばに硬結が出来て、それを押さえると治ってしまう。

そんなように、<老人には正規の反応がない>のです。だから<隙き間>を見つける必要があるのです。

胃が痛いのにD8に硬結がない、という場合は悪い病気です。癌とか何か死ななければ治らない病気があるのです。老人のなかで一番死ななければならない病気は何かというと、<老い>という病気です。癌は死ななくても治ります。しかし、<老い>という病気は、死ななくては治らない。

癌の場合には、硬結とか硬直とかいった変動がないのです。だから、硬結や硬直は、自律的な抵抗作用、自律的な調整現象だという事が出来る。そういうものが出ないようだと、その異常は大抵重いんです。

 

老人の体は硬直や硬結が出来にくいんです。だから体中が委縮してしまうんです。つながりがなくなるんです。反発しあうことがなくなるんです。合目的動きがスムーズに行われなくなるんです。

 

癌だなんて言われると、何か特別な、富士山や穂高のようにそびえたった塊のようにみえますけれども、そばへ行って、一つ一つほどいていくと、不摂生のかたまりだったり、臆病のかたまりだったり、ヤキモチのかたまりだったり、あるいは体の力の余分なエネルギーの集まったものだったりして、こんがらがっているだけです。

一つひとつ処理すると、どれがなんだか判らなくなってしまう。そんなようなものを克明に相手にしていたってしょうがないんです。

そういうものが何もない、一つのエネルギーの集注と分散の調和というものにまで戻してしまうと、アンバランスがあるだけなのです。

そのアンバランスを調整するだけなんです。

病気とか何とかというものに余りとらわれてしまうことは本当ではない。

病気とか健康とかにとらわれないで、むしろ<天心>で、カラッと晴れた空と同じような心になって触っていることが、触手法の本当の行き方だと思うのです。

体が整ってくると、体がなくなってくるんです。

 

歳をとっていない「老人」は、硬結も何もなくて悪い、ということがよくあります。糖尿病の症状があるのに、D7に硬結がない。普通はD7の硬結の度合いが少ないから糖尿病の度合いも少ないと、つい思い込んでしまうが、そういう時は<老人現象>ではないかと疑って、その腰を調べなくてはならない。そして腰が実際に「老人」になっているかどうかを観る。「老人」になっていれば、硬結がないこと自体にも意味がある。「老人」でないのに硬直がなかったらそれは死に至る病気なのです。

ところが、そういう「老人」の腰を治すと、また硬結が出来てくるんです。そうなれば、その硬結を押すと治るんです。

硬結が出来ないうちにD7を押してもなおらない。

だから、<若い老人>の糖尿病を治すという場合、そのD7はいじってはいけない場所ということになる。そして、L3やL4というところが調整の場所になる。あるいは仙椎部分が調整の急所になる。

仙椎を治したらD7 に硬結が出てきた、出てきたからそこが悪くなったのかというとそうではない。

硬結が出てきてからそこを押さえると糖尿病の状態は簡単に治る。だからそのことで糖尿病になったわけではない。

 

<老人>状態を調節したら、D4に硬直が起こった、食道が働きだした、心臓が働きだした。それは食道や心臓が悪くなったのではない。そのD4を押さえると治る。

 

だから<老人操法>をしたあとは、それによって次に何処に硬結が出来るか、どこに隠れていたかを絶えず調べる必要があります。

<老人操法>をしたら、いろんな病気の徴候が濃くなってきて、すぐそれを治した、なんていうことをすると、今言ったつながりというものが判らずじまいになってしまう。

従って、<老人操法>をする前に、あらかじめ探しておいて、<老人操法>したあとに、その変化を観ていくと、相手よりも一歩先に、この次はこういう変化が起こる、ということを見通せる。

 

老人は、硬結の発生は割に少ないが、硬直の発生はたくさんあります。

特に老人操法によって起こる硬直の発生、或いは硬直している部分を改めて意識する、知覚する。

そういうことを丁寧にみて、次の変化を予想するという事が大事であります。

上、下のつながりを一番鈍らせるのは、腰の鈍りです。だから足が痛いとか痒いとかいって、こうやっていることが判るうちは、腰はそんなに悪くないが、何も異常を感じないで、いつの間にか歩き方が小股になっている、大股に歩いていた人が小股にこうなってくる。こうなっていた人が、今度は前からこういうようにする。

その次は踵からこうする。こういう順序で委縮がおこりますけれども、そしてそれに異常を感じないことは、もう腰がこわばっているのだということになる。

 

腰のこわばったのを老人操法で治すと、次の、その人が考えていない部分に硬直が起こってくる。腰が硬くなった、肩が凝ってきた、背中が妙に凝る、首が凝る、そういう場合もそれは進歩なんです。老人状態の回復しだしたことを示すんです。

一遍にスパッと回復すれば一遍に変化が起こるから非常に判りやすいが、なし崩し的に治っていくと、硬直のほうもなし崩し的に出てくる。

今までは、硬結や硬直を、体の異常を探すこととして見つけておりましたけれど、なまじに操法するようになると、体の働きとして、調節する働き、抵抗する働きの原因として、それを見ていかなくてはならない。硬直しないような場合には、それは異常である、委縮であると見なければならない。

実際そう見なければならない程腰が悪くなると、硬直している部分が全部硬直するので、当たり前になってしまうのか、ともかく硬直している部分がなくなってくるのです。

老人の体を調べる知識を、若い人に利用しようとすると、異常の徴候だった硬結や硬直が、異常の徴候だけではないのです。体力の徴候になる。それがないような場合には、体力がない。癌などになると、それが起こらない。

全然そういう硬直が起こらない。癌でなくても治りにくい場合には出てこない。

そういう事をして、どんなに老人が異常状態で死ぬだろうかということを観ていく。

それは硬結を追いかけて悪い処を見つけるのではなくて、硬直がでていないのです。

例えば心臓が乱れているのに、D4に硬結がない。胃が痛いと言っているのに、D8に硬結がない。肺が悪いのにD3に硬結がない。という場合には、死に至る病気になるのではないだろうか。

硬結があるものは保険がついているようなものなのです。

 だから胃が痛い、D8に硬結がある、これでは死なないな、と。

何番に硬結がある、それでは死なないな、と。

異常があるのに硬結がないということを見つけた場合には、これからと思う。

 

なお、仙椎や何かに老人の操法をやって、そこに出てくれば治るけれども、硬結が出てこなければ、それで死をと考えるより他ない。

だから、歳をとると、硬結や硬直は保証する働きになってくる。

 

歳をとった老人は、見かけでも皆わかりますから、歳をとった老人なら、硬結や硬直が。ここにあるべき硬結がない、だから悪いのだ、痛いと言っているが、硬結がない、だから悪いのだ、だから死ぬかも知れないと予想がつけられる。歳をとった老人だとすぐ判るからなんです。

ところが若い老人は見えないんです。老人と判らないんです。

・・・

硬結の無い異常にむしろ警戒を払わなければならない。硬結を観て異常の徴候だとだけ見てはいけない。そういう意味で、改めて<老人操法という問題>を研究する必要がある。

そしてそういう場合に老人操法をすると、多くの場合、硬結や硬直が、異常の徴候として使えるようになるのです。腰さえ治せばよいのですから、そういう老人をこの世に長く引きとめるように操法する。

赤ん坊が愉気だけで生きているのに、老人にはいろんな複雑な技術を知らなくてはならないという必要がどこにある?老人が死ぬのは自然ではないか、それを邪魔しよとすること自体が、自然の方法でないではないか、と考えられてもいい老人操法という問題が、老人にならない老人の体を理解するためには、絶対に必要である。

老人だと思っている老人であっても、老人出ない場合もあり、或いはまた老人の体を調節する場合に、次の<隙き間>を観ていくということで、体の急所がいよいよ多く判ってくるという事などで、やはり老人操法は研究対象としていいものだと言えると思うのであります。

 

本当の若い体に使う急所はいくつもございません。整体操法をやるといっても、各部の活点ぐらいのもので、強いて言えばお腹の調律点、多少の反応の場所、胸椎の九番、八番、或いは呼吸活点程度で、そんなには要らない。

歳をとるごとに、いろんな方法が要る。特に、老人になってしまうと、もう直接は効かない。次の<隙き間>を見つけなくてはならない。そういう急所がいくつも要る。

肝臓を治せばいいのを、肝臓が塞がっていて変化しない。腎臓の方向から刺激する。脾臓の方向から刺激する。心臓の方向から刺激する、そうして肝臓が変化してくる。

だから、肝臓を治すのでも、D9とは限らない。D7の左にあったり、D4があったり、D10があったり、腰椎があったりというところも刺激して肝臓が働き出してくる。

それは、肝臓操法の隙<隙き間>を見つけて、肝臓の影響の及ぶようなところを見ているからなんです。

そうすると、それらが一蓮托生の関係にあるということが判り、それが判れば今度は若い人の場合でも、そういう系統に起こる変化を観ていって、腰の具合の鈍い度合いを観たり、D9だけでは足りないものを、D7やL3で補ったりといった、次の操法が出来てくるわけです。

そういう面から言って、老人操法はやはり大事なものであります。

老人操法が必要な体か否かをはっきり見分けるのには、実際に操法してみるということより他にないんです。

操法してみて、腰が通るようになったら、こうなった、ああなったと。

だから老人操法は重要なんです。

老人のためばかりでなく、若い老人、あるいは老人に準ずる体が弱くなっている人たちの為には、極めて重要な問題である。

 

これから、<老人操法>として、老人に必要なポイントをいくつか説明いたしますが、それは老人の体だけの為ではないんです。

たとえば老人は生殖能力が退歩しています。それを矯正する方法の説明ですが、それは老人の生殖能力を高めるために行なうのではないのです。

体がもっているそういう<生理機構>の変化を知るために行なうのです。

だからそれが回復出来なくても構わない。そういう操法をやることで起こってくる変化というものが生じる範囲で行えばいいのであります。

しかし、多くの場合、九十になっても百になっても、性欲というものはあるもので、呼び起せば呼び起こってくるものなのです。

刺激に飽きて、やたらのことでは誘導されなくなっているけれども、呼ばれれば起きるんです。だから、老人操法のうちの<回春操法>をするような場合には、老人にはそういう力があるのだという前提でやらないといけない。

前提でやって、回復するとすぐに硬結が異常の反映となるような体になってくる。

 

老人操法が必要か否かを、見分けるための簡単な方法は、<腹部第三の虚実を観る>というのがそれで、腸骨の可動性や、仙骨の可動性が全くないという場合は別ですが、それらに動きの幅がある限り、その程度によって老人かどうかは判っても、完全な老人であるかそうでないかは判りません。ところがお腹の第三が<虚>になっていれば明瞭です。

第三が<虚>になっていると、押さえて、息を吸わせても、そこに力が入ってこない。

押さえていても、息を吸わせても、だんだん吸い込めば吸い込むほど、第三という処に穴が開いてきて、指がスポット入って、それが鮮明になってくるが、力が入ってこない。

その時期が、老人の老人という時期です。

第三が<虚>のものは、全部<老人操法>をする必要がある。

腸骨や腰椎三番だけではそういう断定が出来ない。それらは他の条件によっていろいろ変わります。だから私はお腹の第三で、老人操法の必要の有無を観ております。

 

第三の観方は、初等講習でやりましたからお判りですね。押さえて<虚>のものはスポッと指が入っていく。指が入ったら、力を入れても盛り上がってこない。軽く押さえても盛り上がってこない。それが<虚>なんです。若くても歳とっていても<虚>なんです。

赤ん坊などは性欲ないといっても、かれら<実>なんです。

 

<老人操法>の要点は、<仙椎部と腸骨のつながっている処>、<仙椎の孔>、<尾骨>、それらを刺激することにあります。それと<呼吸活点>、<腰椎四番の四側>。

それらの使い方が、<老人操法>の第一着手の処になります。

 

今日はその練習をしようと思っていたのですが、前置きが長くなって時間が来てしまいましたので、練習は皆さんでやっていただくことにいたしまして、今日はそういう操法をするという意味をお考え頂きたいと思います。

・・・

食べ過ぎてD8が硬くなってきた、ここに硬結がある。それなら「しめた」と思ったらいい。まだ歳をっていない。食べ過ぎているはずなのに、D8に硬結がない。見つからなかったとホッとするよりは、反射が鈍いんじゃないか、と考えてもいいわけです。

そして、ご自分の<老人度>を客観的に知っていく、そういうことが時には要るのではないかと思うのです。

操法というのも、治す以外に、体を平均して押さえる操法をして、そうして手の感じる度合いを観て、ご自分の<老人度>を見つけるためのヒントを得る方法にもなる筈です。ともかく、そのように<老人操法>を説明する前に、その意義を説明致しました。今日はこれだけに致します。

(終)