身体教育研究所角南氏のウイルス観

角南氏のブログ(「sunajiiの公私混同」)を、氏の承諾もなく以下に引用させていただきます。ごめんなさい。

でも、この素晴らしい文章を、ぜひ、そしてすぐに私のブログの読者にも読んでもらいたくて・・・

 

2020年3月28日土曜日

おそれる

百年前、人類はスペイン風邪と呼ばれる致死率の高いパンデミックを経験した。ひとつだけ覚えておくべきは、ぼくらはそのスペイン風邪を生き延びた側の子孫であるということだ。もっとも、この百年は、病原菌、ウイルスは駆逐されるものであり、病気は克服されるものであり、人は死ぬべきではないというイデオロギーが力を持った時代であり、結果として、人類は病原菌であれウイルスであれ、それらと出会う機会を極小化することに心血を注いできた。

ぼくらが成長病と呼んでいるものがある。耳下腺炎、麻疹、水疱瘡の3つを主に指すのだけれど、いづれもウイルスが引き起こすものらしい。それらが引き起こす病気を成長病と呼び、成育の過程で罹ることを是とした。この時点で、そのような主張の下に集まっている人間は近代イデオロギーに抗する反社会的勢力とみなされる。そもそもが「風邪の効用」をうたっている集まりである。でもでも、人類はずっとウイルスと共存してきたし、いまもぼくらの体内で多くのウイルスが活動している。

ぼく自身も試されている。人生の半分以上、医療制度の世話なしに生きてきたけれど、この局面においてどうだろう。ぼく自身は、たとえ感染しようが発症しようが自力で経過させていくつもりだ。ここまでやってきたことが、本当に力になるのかどうかが試されている、ともいえる。これでダメだったら(高齢者だし)その程度のものだったんだと笑って逝けばよい。ぼくが怖れるのはウイルスよりも、ウイルス撲滅という錦の御旗を掲げる多数派によって、社会的に指弾されることである。それを避けるため、ぼくは蟄居することを選ぶ。ウイルスよりも正義の方がこわい。

門は施錠せず開けてあります。

投稿者 dohokids 時刻: 22:15
ラベル: 等持院日記

 私にとって、この角南氏の言説はとても馴染み深い響きを持っている。

生き方として野口整体を選択するということが、多かれ少なかれ<異端>と<正系>のはざまで呻吟することを強いられるからだ。

つまり、私の身体が私のものとみなされない局面は<共同性>においてはいつでも現出してくる。「私の身体のことは私の自由にさせてほしい」と言ってみたところで、それは個人の問題としては正当でも、共同の論理からみれば異端だとみなされることがあるわけだ。

ではそうした局面で、いかに身を処せばいいのか。

個人の幻想領域は、共同の幻想領域と逆立するというのは普遍的な課題だが、たとえばどこでも企業では定期健康診断を毎年実施しているが、もしそれを拒否したいと個人が考え実行しようとしたらどうなるか。

角南氏の言葉でいえば、その行為は<反社会的>と認定され、会社に居続けることさえ危ぶまれる事態にまで発展することもないではない。

胸部レントゲンの検診を拒否して懲戒処分を受けた人だっているのだから。

たとえば健康増進法。こういう共同性の側からの<正系>の論理に、個人が異を唱え反対するということは、まさしく反社会的行為、多くの他の人々への挑戦ととらえられ指弾やむなしとなる。

生活を維持していくためには、共同の論理(会社の服務規程)に異をとなえることはあってはならない、と一般的には考えられている。

「検診を受けるのは労働者の義務ですよ。もしあなたが結核に罹って、それを同僚に感染させたらあなた責任がとれますか」と産業医からも苦言を呈されることは明白である。

教育機関では、守られるべき事細かな校則に違反すれば、すぐさまその行為は指弾される。

共同生活を営む以上、共同の論理に従うのは至極当然のことなのだが、それらの規範は自分も他人も等しく守られるために人間が作り出したルールであって、そのルールが皆にとって不都合なものになっていった場合には、また新たなルールに皆で作り直せばいいだけのことで、自然の摂理のような、あるいは絶体神の託宣による不変のものであるはずはない。

多様な個性、多様な生き方が相互に容認される世界をもとめて、協同して生きていこうとやむを得ず作った人間の手になるルールなのだから、皆にとって不都合なものになってしまったルールであるなら、また皆で知恵を出し合って新しいルールを作っていくというのが、あるべきルールの対処法である。だから本当は緩い縛りでルールはつくられなければならないだろう。

ところが、不況に見舞われたり、緊急事態が勃発したりすると、その縛りが尋常なものでなくなってくるのは、いくつかの史実が教えてくれている。あのヒトラーの残虐な行為が、健康増進法という美名の旗印の一つとして行なわれていたことは、決して忘れてはならないだろう。

異を唱えようもないような美しい言葉で、個人の自由やその命さえ権力者の手に委ねられてしまっていたのである。

 

個々人の思想や心情を軽んじ、その自由を蹂躙するということがあってはならない。民主主義のルールというのは、そのことを深く考え、互いに話し合い、常に自らを反省するというところから誕生しているはずである。もちろん容易なことではないし、日常にかまけて面倒な対話から身を引きたくなるのもある意味では仕方がないだろう。

アジアには社会性から身を引いて、ひとり隠遁の道を掘り下げるという優れて豊かな伝統もあるのだが、しかし現代を生きるということは、どこまで行ってもこの社会性から超絶しては決して生きられないのだから、異和は異和として引き受けて生きざるを得ないだろう。

その引き受け方は個々人によって様々であるし、また様々であるべきだが、角南氏の言葉を借りれば「門は施錠せずに」常に開いておくこと、いつも世界に自己を開いておくということになる。このことはとても大切なことだと思う。

整体協会(身体教育研究所)の指導者としての角南氏の投稿は、求めてなかなか得られない貴重なものであると、強く私のこころに響くものであった。

(以上)